06


 その日はどうにも体調が悪かった。

 いつもならリンクの後をついて旅していれば不思議と元気がみなぎっていたし、一人でいたときに時折襲われた強い眠気も感じることなんてなかった。
 でも今は倦怠感と熱っぽさで歩くことさえままならない。リンクに触れれば多少は良くなるものの、それでもこの体調と気分の悪さにすっかり参ってしまっていた。

「ごめんね……結局、今日一日無駄にしちゃった」
「気にしないで。たまにはゆっくり休む日も必要だよ」

 そっと私の頭を撫でるリンクの体温を感じながら、すうっと目を細める。
 ここはハテノ村のリンクの家。宿だと人目もあるしゆっくり休めないだろうということで、リンクの好意でベッドを貸してもらっている。村の外れにあり尚且つ近くに誰もいないから、窓の外から聞こえてくるのは鳥や虫の鳴き声と木の葉が風に揺れる音だけ。自然が奏でるその音が、少しばかり気分を落ち着かせた。

「何か食べられそう?」
「ん……さっぱりしたものなら、なんとか」
「じゃあリンゴ剥くから待っててね」
「……ありがとう」

 どういたしまして、とポーチからリンゴとナイフを取り出すリンクの姿をぼんやり眺める。そういえば初めて会ったときも、怪我した私にリンゴを剥いてくれたっけ。

 リンクと共に旅を始めてからおよそ一ヶ月。大半の記憶を取り戻しつつあるリンクとは裏腹に、私は一切の記憶を思い出してはいなかった。
 もう少しで思い出せそうな場面は何度もあったのに、まるで何かが障壁になっているかのように記憶の扉が開かない。そのもどかしさから日に日に募る焦りは、少しずつではあるが私の心に影を落としていった。
 ただ、気に病んでいるのはそれだけではない。

「……ねえリンク」
「ん? どうしたの?」
「私……本当にこのハイラルに存在してたのかな」

 私がその話を口にした瞬間、リンゴを剥くリンクの手がぴたりと止まった。何か言葉にするのを踏み止まるかのように唇をぐっと噛みしめ、

「っ、大丈夫。それだけはオレが保証する。だってそうじゃなきゃ今ナズナがここにいるはずないだろ」

 そう無理に笑ってみせた。でも、優しい青の瞳には哀しみの色が写り込んでいる。

――またリンクを困らせてしまった。

 そんな罪悪感に襲われながら、リンクの優しい言葉を心の中に染み渡らせる。そうだったらいいのに、と強く強く思いながら。


 今に至るまで、私が百年前このハイラルに存在していたということを裏付けるものは一つも見つかっていなかった。
 そもそも思い返してみれば、私はこの世界のことを何も知らない。忘れているのは過去の記憶だけで一般常識は覚えているはずなのに、このハイラルの地理も文化も何もかもが初めて目にするものだった。
 私は一体何者なのか。どうしてここに居るのか。何故記憶を失ったのか。分かるものなんて何もない。まるで私だけこの世界から取り残されているような――そんな恐怖がずっと頭から離れずにいた。

 そして、リンクは恐らくその理由を知っている。

 でも、それを聞いてしまうともう戻れなくなってしまう気がして。今ここでリンクと一緒にいられるなら、何も知らないままでいたほうがいいのかと思い始めていて。そんな自分が許せない気持ちとのせめぎ合いで、私の心は徐々に疲弊していった。


「ナズナが思い出すまでオレはずっと側にいる。だから思いつめないで」
「うん……ありがとう」

 リンクは私の頭を撫でた後、リンゴが乗ったお皿をサイドテーブルに置いた。いつもより小さめに切りそろえられたそれは私が無理せず食べられるようにとの配慮だろう。
 今までも、リンクが作る食事を食べればいつも気力が湧いてきていた。それこそ怪我だってすぐに治ってしまうほどに。だからこのリンゴを食べればきっと元気になるはず――そう思いフォークを手に取ったら、

「っ……?」

 突然、急激な悪寒に襲われた。同時に暗闇の中から誰かにじっと舐めるように見られているような、そんな視線を感じる。
 身に覚えのあるこの感覚。そう、私が覚えている一番古い記憶――ハイラル城の正面に立っていた、あのとき感じた視線。

「……ナズナ? どうかした?」

 恐怖のあまり身震いし、カシャンと手からフォークを落とす。私の変化に気付いたリンクは心配そうに顔を覗き込むけれど、その様子を見るにリンクはこの視線を感じ取っていないのだろう。

「嫌……リンク、助けて……!」

 咄嗟にリンクの腕を掴み縋る。無意識にぼろぼろと涙が溢れ、そんな尋常じゃない様子の私をリンクは慌てて支え背中をさする。
 そして次第に部屋の中が不気味な赤に染まり始めた。その光を発しているのは、窓の外に浮かぶ大きく血のように赤い月――

「ナズナ、ナズナッ! しっかりしろ!」

 窓の外の静寂とは対象的に、私の荒い息と何度も何度も私を呼ぶリンクの声が部屋の中に響き渡る。その必死な叫びは、頭の中でがんがんと鳴り響く大きな音に阻まれ私の耳をすり抜けた。
 胸が苦しい。息ができない。朦朧とする意識の中で周りの景色がぐにゃりと歪み始め、そこでぷつりと記憶が途切れた――はずだった。



***



「――っ、ここは……」

 途切れたはずの意識の先には真っ暗な世界が広がっていた。あのとき――コログの森で見た夢の中に広がっていた夜の砂漠が。
 見渡す限りの地面に広がる冷たい砂。頭上を見上げればまるで飲み込まれてしまいそうな暗い暗い空がひたすらに広がり、ひとつの星もないそこに赤い月だけが不気味に光り輝いている。その月の光を目に入れた瞬間、ぞわっと全身に鳥肌が立った。意識を失う直前にも感じた、へばりつくように気味の悪い視線。

「だめ……やめて、」

 がたがたと震える身体を必死に抑えその場にうずくまる。

 怖い恐いこわい。頭がどうにかなりそう。

 身体も心も恐怖に支配されそうになるのを、血が滲むほどにぐっと唇を噛み締めて耐えていたら――

「ねえ」

 突然、頭上から声が降ってきた。
 女の人の声。
 弾かれたような頭を上げるとそこには、

「……私?」

 いつの間にか"私"が立っていた。
 いや、もしかしたら初めからずっとここにいたのかもしれない。そう思えるほどに彼女は私の側に何の違和感もなく存在していた。
 ただ、背格好も顔貌も何もかもがそっくりなのに私とはどこか違うと思わせるのは、彼女が纏う暗い影のような空気からだろうか。

 動揺する私とは裏腹に、もうひとりの私はぴくりとも表情を変えずただ真っ直ぐに私を見下ろしている。彼女の視線が私に刺さり続けるけれど、先程まで感じていた視線とは違い恐怖は感じない。あの視線とは別人だと直感的にそう思った。

「声、やっと届いた。ほんとに魔力、なくなっちゃったんだね」

 再び彼女が言葉を発する。何の感情も込められていない淡々とした声。
 彼女は私と視線を合わせるように屈み、そっと私の頬に触れる。その肌は生きている人の体温とは思えないほどに冷たかった。

「巻き込んじゃってごめんね。でもあと少しだけ、がんばって」
「……?」

 困惑し言葉に詰まる私の頬を彼女は両手で優しく包み込む。そして額と額を合わせ、ゆっくり目を閉じた。

「私の記憶、全部あげる。これが道標になるはずだから」

 その瞬間、私の中に大量の記憶と感情が滝のように流れ込んできた。まるで底の見えない水面に飛び込んだような感覚。膨大な情報の波に飲まれ頭がおかしくなりそうになり、思わずぎゅっと目を瞑る。
 目を閉じても強制的に流れ込んでくる映像。それは懐かしさと共に、頑なに閉じていた私の記憶の扉を開く。そして次第に暗闇から抜け出したように重い空気が消え去り、意識が急激に浮上して――



***



「――ナズナ!!」

 次に目を開いたときには、リンクの家へと意識が戻っていた。必死の形相で私の肩を揺さぶるリンクの顔が目に入った瞬間、一筋の涙が頬を伝う。

「リンク……」
「ナズナ! 良かった……!」

 震える手で抱きしめられながら、今の状況を把握しようとゆっくり周囲を見渡した。
 意識が途切れる前と変わらない室内。ただひとつ、窓の外から差し込んでいたあの不気味な赤い光は消え、今は優しい月の光が窓辺を照らしていた。

「大丈夫? 顔色は……良くなってきたみたいだけど」

 私がゆっくり頷くと、リンクはようやく安心したのかほっと息を吐いてベッドの脇の椅子に腰を落とした。その隣で私は洪水のように流れ込んできた先程の記憶を整理する。

 あれは妄想なんかじゃない。今なら全部思い出せる。
 リンクが"時の勇者"と呼ばれた時代に生きた私の記憶――褐色の肌に赤い髪をした巨躯の男性に心臓を貫かれ息絶える記憶も、最期に耳に届いたリンクとゼルダ様が私を泣き叫びながら呼ぶ声も。

 そう――私はガノンドロフに殺された。
 一万年より遥か昔、リンクとゼルダ様の目の前で。



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