14
まず最初に目に飛び込んできたものは見慣れた自分の机だった。
机の上に散らばる調査書と開いたままの資料。そしてぐるりと周囲を見回してみれば、埃にまみれていない見慣れた自宅の光景が目に入る。
てっきり百年前の時の神殿に戻されるものだとばかり思っていた。戸惑いながらも慌てて家から飛び出し、周囲の様子を確認する。
リンクの家に向かう途中に見える祠に青い輝きは見られず、重苦しいガノンの怨念の気配も感じない。百年後のハテノ村とは違う。私が住んでいた頃の、あのときのままのハテノ村。
間違いない、大厄災前の世界に戻ってきたんだ。
こみ上がる感情をぐっと抑え、まず自分の格好を確認する。ハテノ村で一般的な普段着──先程まで着ていたハイリアの服ではない。次に袖を捲ってみるけれど、イーガ団に捕まったときにできた傷跡も見当たらない。多分、この身体は過去の私の身体だ。魂だけが過去に戻った──そんなところだろうか。
でも、仮にそうだとしたらあちらの世界の私たちの身体はどうなったんだろう。そんな考えが頭を過るけれど、確認の仕様がないし今はそれを深く考えている余裕はない。
今が過去のどの時点なのか。大厄災までどのくらい猶予があるのか。それによって私たちがやるべきことは変わるから。
とにかく今はリンクとゼルダ、二人と合流するのが最優先。急いで城下町へ向かわないと──
「ナズナ」
ふと、背後で名前を呼ばれた。
振り返らなくても分かる。この優しく懐かしい声は──
「っ! お母さん……!!」
「どうしたの、急に家から飛び出して。もうお昼できるから、出掛けるのは食べてからにしてね」
お母さんの姿を見た瞬間、抑えていた感情が溢れ出して止まらなくなった。大粒の涙が次から次へと頬を伝い視界がぼやける。気付けばお母さんに抱きつき、大声を上げて泣いていた。
初めはお母さんも戸惑っていた様子だったけれど、何かを察したのか何も言わずにただ私が落ち着くまで頭を撫で続けてくれた。
***
家に戻り落ち着いた私は今までのことを話した。いきなりこんな非現実的なことを言ったところで信じて貰えるとも限らない。でも、それでもいいからただ聞いてほしかった。私があの世界で何を見てきたのか、何を感じたのか。
「お母さんとお父さんのお陰で……私はこの世界に戻ることができたの。ありがとう……私が生きているって、ずっと信じてくれて」
もし百年後の世界でこの家が無くなっていて、あの本を見つけることができなかったらきっと私は今ここに居られなかった。
時の勇者様が私を助けてくれたのは、単に私が彼の末裔だからというそれだけの理由ではないと思う。お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、更にはもっと昔の顔も知らない御先祖様たち。気の遠くなるような時の中、皆があの物語をあの世界にまで繋いでくれたから、だからきっと彼は私に手を差し伸べてくれた。
ひとしきり話し終えた後、少しばかり沈黙が流れた。
お母さんは私が話している間もずっと手を握ってくれていた。それだけで、どんなに心強く思えることか。
ややあってその手に力が込められ、お母さんが口を開く。
「……実はね、ナズナがネルドラ様を見ることができるって知ったときからずっと、貴女には何か大きな御役目があるんじゃないかって思っていたの。
大変だったよね、沢山頑張ったんだね。おかえりなさい。帰ってきてくれて……生きていてくれて、ありがとう」
お母さんの声が震え、一筋の涙が頬を伝う。それを見たら再び感情が波のように押し寄せてしまい、私の目からも涙が零れた。
さっきから泣いてばかり。こんなに涙を流したのは久しぶりだ。確か百年後の世界で目覚めてハイラルの現状を知って、そのとき以来。あのときは絶望しかなかったけれど、今は皆がいるし希望だってある。だからきっと大丈夫。
でも……それにはまず皆にこのことを伝えないと。話したことで気持ちもだいぶ落ち着いたから、そろそろ城下町に行く準備をしなければ。
何があるか分からないから調査資料も念のため持って行こう。机の上に出しっぱなしだったから片付けて鞄に詰めて、動きやすい服に着替えて──あれ?
「そういえば、お父さんは……?」
昼時のこの時間にいないのだから仕事なのかと思っていたけれど、お父さんがいつも持ち運んでいる仕事道具が家に置いたままになっている。まさか忘れるなんてことは無いだろうから……どこかに出掛けているのかな。
「ハイラル城に向かったわよ。明日の英傑様たちの叙任式、リンク君も選ばれたでしょ? お父さんってば、直接式を見れる訳じゃないのにね」
「っ! 叙任式……」
それを聞いて思い出した。今朝、ハイラル城に向かうお父さんをこの目で見送ったことを。この身体との記憶の共有が進んできたのか、巻き戻る前のぼやけた記憶が次第に鮮明になってくる。
明日が叙任式だということは……確か式の後、リンクがゼルダお付きの騎士に任命されるという知らせがあって、村に帰ってきたお父さんがそれを皆に伝えてお祭り騒ぎになって。──そうだ、それで私はあの二人のことを心配してハイラル城に向かったはずだ。それなら、大厄災までまだ時間はある。
「──私、行ってくる」
決意を込めた目でお母さんを真っ直ぐ見つめる。
私たちのすべきことを考えると、再びハテノ村に帰れるのはかなり先になるかもしれない。それこそ大厄災を退けた後になることも有り得る話だ。それでも──
「うん……いってらっしゃい。気を付けてね」
絶対に帰ってくる。
この世界を平和にするために戻ってきたのだから。
→