暗く、世界は夜に飲み込まれている。明かりさえ殆ど見当たらない。せいぜい、足下を照らすランプだけだろう。色とりどりの花たちさえ静かに眠りについている。
幾ら昼間、神々の光がこの教会内部を照らしていたとしても、おぼろげな月明かりの夜の中では、皆が皆眠りについているのは神も同じだったらしい。
修道服を纏った久遠冬花は、そんな不気味にはやがわりした神聖とも呼ばれる教会の中にいた。

彼女の目的はただひとつ。今夜、けりをつけにくるであろう輩を打ちのめす事。
昼間の豪雨も今では晴れ、水面の月夜が足下をほのかに揺らす。しめじめとした夜は蛇が顔を出すのには絶好の頃合。


「どうされたのです、久遠先輩。こんな夜中に教会になんて。」

ガタンッ、音が出るほど豪快に戸を開け、ひとりの少女がこんな月夜に顔を出した。大当たり、と何処かで誰かが手を叩いた気がした。

「あなたも、もうミサの時間はとっくに過ぎましたよ。神奈崎さん」

壁に掛かる巨大な十字架に背を向け、その異形物質に向き直った。丁度、黒い皮製の手袋が両手ともきっちりと着けられた頃合。ベンチに掘られた天使が眼を覚ました。
美少女という名の皮を被った大蛇。長く髪が揺れた。ぐらり、前方に傾いた華奢な身体。今では中身はスッカラカンなのだろう。にたり、ひとつ唇が弧を描いた。それが、始まりの合図であった。


「――輪廻の軌道から自ら飛び降りたなんて、哀れな子」

ひとつ、また指先に吐息を降りかけた。











学院を下り、其処にあるのは何処にでもあるよく見る風景。背の高いビルが立ち並び、近代化と共に急成長した都市。足下ではネオンがうるさいほどきらびやかに、学院では見える満天の星空さえ此処では手に入れることすら無に等しい。人並みも中心に行くにつれ増えてはごった返している。年齢層も実に幅広いそんな夜の街。喧騒の静寂を感じさせる駅前センタービルから少し離れた寂れたビルの密集地。昔はあれほどに騒がしかったであろう其処は、老朽化と共に時代と人々に忘れ去られ、今では家無き者や遊びたい盛りのイカした若者やらが無許可定住する絶好の場所であった。だが、人通りや見聞人が少ない為か、飛び降りる事を望む者たちのいわば"聖地"となってしまっていたことも事実である。実際、其処にてたむろしていた若者たちが一晩のことで一斉に飛び降りたという不可解で痛々しい事件も過去にあるという。そんなこともあってか、最近では気持ち悪いと去っていく人間と探究心を燃やすオカルトマニアたちに注目されているミステリースポットともされる。――その前に、こんなにもあれ以上に人気がなくなったのは、先日起きた大量殺戮事件現場から1km範囲以内の場所だからなのかもしれない。



「――やぁ。今夜は狂おしい程の満月だね。龍が喜びそうな夜だ」

とある一棟の廃ビルの屋上。一時期はその階数に、見下ろす世界に誰もが惹かれ入居を希望しては栄えたであろう過去の幻想の跡が、所々に伺える。
幾つもの月が足下を照らす。反射する、所々浮き上がった水溜りの中。鏡のようにこの風景を意味も無く映し描いていた。
そこにたどり着いたときにはもう、世を轟かせている"殺人鬼"が麗しそうに空を眺めていた。

「いや、これは鬼も這い出ては宴をする今宵かな。……ねえ、きみはどう思う?」

振り返り彼は問うた。高い夜空の中心にぽっかりと空いた光る穴を背に、その影を浮き彫りにさせては"竜の申し子"は口元を歪ませた。右手には既にさやが放り投げ出され、裸になった刃が少女を写しだしていた。
普段であれば避けてはたじろぐ存在も、裏に入り浸った今ではなんとも気に留めないもの。理由は簡単。"手加減ナシに殺すことさえできるから"。表にての行動は全て、その殺人動機を抑えているからのことなのだ。――毎度、ある意味馬鹿らしいと溜息さえ出てしまう。

「確かに、竜の真似事をしている蛇を剥ぐには勿体無い程の夜だ。」
「綺麗な顔をして結構言うんだね。最近の女性は怖いな」

しゅるり。戯言をぼやきながら、ひとり差し出す右手。煌いた矛先。月が遮られた。
月光を浴びたその刀は、妖しいほどに恍惚と笑んでいた。幾多の人間を虜にさせてきたのだと、その閃光が誇らしげに空を切った。呆れたような眼差しを向ける彼女の鴉色の瞳が鏡のように反射した。

「でも生憎だけど、君に構っている暇はあまり無いよ。これからまた、本物の"竜の申し子"に会わなきゃいけないからね」


刃が、走り始めた。







これも運というやつなのか。そうひとり少年は感じていた。

雹が降っているかのようだった豪雨にて、その姫柘榴が美しい姿で残っている確立はほぼゼロに近かった。だが、幸運な事に無事に雨を終えたのだった。花弁一枚も落ちていない。


「何にしろ、よかった……」

一瞬だけ、子が居なくなっては無事に戻ってきた母の気持ちがわかる気がした。
たぶん、これが人間だったら抱きしめているかも知れない。うわあ、なんて女々しい。思って後から、それはどうかと考えた。容姿の件もあり、あまり女々しいと思われたり言われたりするのは好まない。

「そんなに大事だったのか」

雨の上がったベランダ付近にて、花と戯れる主を見て従者が呟いた。

「育ててる以上は、やっぱ愛着って湧くもんさ。それにほら、可愛い……というか綺麗じゃないか」

ほら、と少し花に手を添えて見せてみた。ベッドに座っていた身体を、近寄らせてシャドウが傍までやってきた。小さく、鮮やかな色がぽつぽつと可愛らしく咲いていた。その姿に思わず安心からか、笑みがひとつ零れた。触れる体は、暖かくて。窓から覗く月だけがそんな光景を目にしていた。
感心したように、ひとつ唸りを揚げる犬。

「これは、あいつが植えるよう言ったのか?」
「あいつって、兄さんのことか? 植えるっていうか、貰った感じだけどな……」
「本当に、か?」
「……なんで嘘なんてつかなきゃなんないんだよ」

最後に、そうか。冴えない顔で現状をそのひとことで終わらせた。
む。何か後味が悪い。一体何故そんなことを聞いたのだろうか。確かに、あの二人はどちらかといえば仲は(姫神云々で)良くないけれども。一体この花に何の関係があるっていうんだ。ぐるぐる廻るまわる。

「何だ。言いたい事があるならちゃんと言え」
「いや、別に――」

むしゃくしゃくしゃぐしゃ。別に、じゃない。別に、じゃ。そこまで言うなら全部言えよもう。苛立つ思考。
それでも何も言わないから、お留守番をしていた左腕を引っ張ってやった。傾くからだ。その行為を後悔した瞬間だった。しかしもう時既に遅し。
少し鈍い音がした。肌と肌が触れ合う感触。背は床の冷たさに溺れる。重力に従う物体AとB。遠くで風漸華が嘲笑っているのがなんとなく感じ取れた。お互い、何秒も掛かってこの状況を理解することが出来たのだろうか。はたからみれば、これは自分が彼に押し倒されたという構図になるのだろうか。

「―――」
「―――」

気づいた時にはお互いに林檎のようになっていた。










(運命の女神はわらう)




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