もしも、その手を握り締めれれば、どれほど温かいのだろう。
もしも、その手に抱かれる事があれば、どれほど安心するのだろう。
もしも、その手に引かれることがあれば、どこにいけるのだろう。
もしも、その手がこの頬を撫でたら、どんな顔をすればいいのだろう。
もしも、その手をずっとずっと、離せないと思っていたらどうしていたのだろう。


そんな、夢みたいな戯言を吐きながら歩き出した。



暗くて何も無いという世界をただ、途方もなく意味も無く、足とはいえない足で歩いていた。
とぺとぺ。ぺたぺた。ぱたぱた。
時折走ってはみるけれど、何処にも行き当たらない。そもそも、地面があるのかすらわからない。目的地も一体、存在しているのかと首を傾げる。
ぷかぷか。すうすう。ぺたりた。
足音が聞こえる。何かの塊みたいな自分が何処かへ行く音が。くろもしろもないせかい。
ゆらゆら。揺れる体を抱きかかえながら先を覗く。誰か、いるのだろうか。いて、くれないだろうか。
ぽつぽつ。ぼとぼと。崩れて溶け出す腕を必死に持ち上げる。まるで自分は、拙い泡で出来ているかのように思った。だが、それはすぐに変わる。腕は花弁へと昇華した。
ぐるぐるひらひらまわるまわる。空っぽの天へ登っていく。光が、隙間から見えた。そして理解をこんな頭がした。あれが、今度の目的地なのだと。
消え往く足下では赤い波紋が揺れていた。いつか放り投げてしまった過去を映し出しながら。


そして自分は、目を醒ます。







「おはようございます。風丸君」
「おはよう、ございます。研崎さん」

レトロな調に整えられた、広大なリビングは相変わらずありったけの朝日を取り込んでいた。淡白く、チョコレート色の絨毯に大きな白い花が咲いた。
そんな空間にはこんがりと焼けたトーストと、穏やかな香りを漂わせる、淹れたばかりのハーブティがゆっくりと部屋に溶け込んでいた。
大きくて広すぎる気もする、白く長いテーブルが一層輝かしい光を纏っている。彼は奥の席へ、自分は対になる手前の席へと座り、今日一番の朝食をとる。

「今日も遅くなると思います」
食しながら、ぽつり呟いた。あまり大きくない声でも、こんなふたりだけの世界じゃそんなことは関係ないのだろう。
そうですか。相変わらず彼は変わらぬ口調で笑む。深い深緑が流れる。

彼と自分は歪だ。
歪であるからこそ、ふたりは求め合う。傍にいようとする。
それはまさに、"類は友を呼ぶ"と言えるのかもしれない。
この白い空間には、思ったよりもくろい何かが漂っている。――いや、本来は何も流れてなどいない。ただあるのは、"無"。ふたつはひとつになれないからこそ、間にある虚ろは埋めたり取り払うことができない。

朝食を終え、立ち上がる。

「では、行って来ます」

自分はいつも思う。
くだらないと思えることが幸せならば、そんなことを考えずに愛し合うそれは一体何と定義づけられるか。

「行ってらっしゃい。風丸君」

そして彼は自分の髪を愛撫した。












「で、さ……風丸…。――風丸……?」
「ん……」

呼ばれている気がして目を開けた。
昼頃特有の、強い日差しが目に突き刺さる。
突っ伏していた机から顔をあげ、目の前の存在を再確認した。栗色の髪が愛らしくはねて、同じ色の目がこちらを眺めている。
机の端っこには、取り出されたまま放置された真っ白なルーズリーフやペン、本が乱雑に放りだされていた。
どうやら何時の間にか自分は眠っていたらしい。
小さい欠伸が顔を出して、思わずふぬけた声が漏れ出した。頭もくらくらして、瞼は未だ重い。

「あぁ……すまん。で、なんだっけ円堂…」
「い、いや別にいいよ。……ところでなんだ、寝不足か? 風丸には珍しく授業中に爆睡してたからさー」

ぴた、り。
一瞬時が止まったような錯覚を起した。
いや、まさか。走り出したように流れ出した冷や汗なんてものを気にせずに、教室の時計を見た。出入り口付近にぶら下がってるそれは、学校生活を満喫する多くの生徒に必要とされるもの。それは、こんな自分でも変わることはなかった。
――最終授業終了時間からおよそ二〇分。

何処かで溜息をこぼす音が聞こえた。

「円堂……、良ければノートを貸してくれないか…?」
「………あー、ごめん。俺も途中寝てた」
「でしょうね!」

笑いながら謝る彼の髪が跳ねる。太陽みたいに眩しくて、思わず目を閉じた。
若干予想できていた自分に落胆する。まあ、後は他の誰かに借りるしかない。

「仕方ない……豪炎寺にでも借りるか…」
よくよく時間割を思い出すと、そういえば六時間目は彼の苦手な教科だった。そうか、それなら納得できる。いや、してはいけないのかもしれないけれど。
そういえば、と壁にかけられている予定表をちらり眺めた。何だ、あと二週間ぐらいでテストじゃないか。ならば早めに交渉しなければ。今日は会議か何かで、いつもは部活に勤しむ生徒たちは早めに帰されている。遠くの方で女子の笑い声が聞こえる。教室の端っこで支度をしていた生徒も何時の間にか居なくなっている。どうやら残りの時間を有効に使おうと既に外へ飛び出したらしい。
そんな彼らに習って自分もいそいそと帰り支度を始める。目の前の彼は既に終わっていたのか、鞄が肩からもうぶらさがっている。
そんな彼を待たせまいと、そのスピードは更に上昇を続けるのだった。


「そんな急がなくていいぜ? 寝た後だからしゃーないし」
「直ぐ済むのは直ぐ済ませたいんだよ。――………よし、完了。帰るか」
「相変わらず仕事速いことで……」
「生憎それしかとりえが無いもんで」

少し笑んでみた。そう、自慢というか特技というか。そう問われればコレぐらいしか自分には持ち味が無いのだ。残念な話だろうけど。

――ああ、そうだな。お前は、いつもそうだったもんな。

小さく誰かが呟いた気がした。
でも誰かは、小さすぎて少しわかりゃしなかった。

スピーカーから早く帰ろと急かす教師の声が聞こえてきた。直後、教室を飛び出し忘れないように鍵を閉めた。職員室にはさっさと入り込み、教師陣が集まる中そそくさと鍵置き場へとそれを返した。それで、本日校内でやらなければいけないことが五分くらいで終わりを告げた。
そんな中、下駄箱の前で、ふと何かを思いついた。

「……んー、円堂。時間も余ってるしどっか行くか? テスト週間なって駄々こねないためにも」
けらり。笑って言って見せると、彼は彼で「駄々なんてこねたことない」なんて言い返してきた。それを更に詳しく隅々まで言ってやると、流石に認めたのか黙り込んでは苦笑いをしてまた謝ってきた。なんだか今日は彼をよく謝らせている気がする。

「此処は無難に雷雷軒にでも行くか? 寝て腹減ったし」
そんな彼に少し、同情か何かの感情が沸き起こり出して少し提案を持ちかけてみた。因みに今日は珍しく財布の中身が潤っているのでおごりだ。

だが、意外な反応を円堂守は見せた。
「いや、今日はいいや。また、今度行こうぜ」
ごめん。また謝って彼は笑った。笑う。なんだかそれがとても、悲しく見えたのは気のせいだったのだろうか。
彼にしては珍しい。でも、こちらとら少し引っかかっていることがあるのだ。奢るぞ。いいよ、お前に悪い。いつも世話してもらってるんだから。
言って、彼は何か頑なに断る。それは、少し奇妙だった。彼ならこの案に乗ってくれると踏んだのだが。……まあ、そこまで厭なら仕方が無い。ここは素直に彼の言葉に翻った。

「それより河川敷でサッカーやろうぜ!」
「そうくると思ったよ」
だが、そんな心配なんてどうも要らなかったようだ。
彼はまたいつものように笑う。それは、先ほどの悲しそうな笑みたちとは全く別物であった気がした。
そうだ、世界は何もかわっちゃいない。







「風丸ー」

呼ぶ声がして、思わず返事をした。

「ただ言ってみただけ」
「子供かよ」
「じゃあ、手でも繋ぐか?」
「なっ……!? そそそそ、そっそれこそ子供じゃないんだからっ!」
「んー、まあ端から見ても俺らまだ子供だと思うんだけどなー」

そういう問題じゃねえよ。
赤らむ顔を片手で覆い隠して吐き出す。まったくこいつはもう、要求不満か何かなのか。というか何でそんなこと、なんていい返したらあっちもあっちだ。いやさ、よくよく考えたら俺らって中学なってからあんま手ぇ、繋いだ事無いよな。
詳しく言えば高学年からだ馬鹿。

そもそも何故唐突にそんなことを言い出すのか。確かに彼の突然謎奇怪な行動には慣れているつもりだったが、案外そうでもなかったようだ。今日はなんだかはっちゃけているようにも見える―――いや、いつも通りか。
そんな、大きな交差点の前。


老若男女十人十色様々なひとたちが行き交う街。道。今。
ふと、変な違和感に襲われた。
なぜか今は、それが一本一本の線のように見えた。否、点が歩き行き交うからそれは軌道や線に見えるのだ。
まるで、自分の刻む時間だけが違うみたいだ。他の人たちが通常で、ただ自分が異常なのか。逆に、自分が正常で彼らが異常なのか。

「――円堂……?」
わけがわからなくて、とりあえず傍に居るはずの彼の名を呼ぶ。瞬間、元の世界は色を取り戻した。そのことに安堵する振り向く寸前、激しい頭痛に襲われた。



再び世界は暗く黒く色を変えた。

白い鴉が足下の陰に映る。
彼らは雫を落としていく。空に堕ちながら、アルビノの彼らは羽ばたいていく。赤い雫は波紋を呼び、足下へ広がっていく。それは、いつか見たような景色に似ていた。
あぁ、まただ。
暗い暗い何もない場所。世界。青すぎる空が眩しい。
赤い水溜りが、いつかを映した。

鳴り止まぬサイレン。真っ赤に燃え盛る炎。青いはずの空が黒に煤けていく。
橙の布がひらひら。蒼い炎に飲まれていく。黄色や赤い喚き声。急かす男の声が遠く聞こえる。
黒いアスファルトの上、何かが倒れていた。四肢は、赤く塗れてちゃんと揃ってはいなかった。
それは、既に死んでいた。



「―――風丸っ!!」

そこではっと目が醒めた。
信号は青に変わり、人々は歩き出していた。世界は確かに、色付いていた。

「円堂……?」
「どうしたんだよ、風丸……。急にしゃがみこむし……、お前本当は体調が――」

彼は心配して、その手で頭を撫でようと手を差し出した。橙のバンダナが目を、焼きついた。
ひらひらと炎に塗れる景色と、ひとつになった。


「大丈夫、大丈夫……だから、ここから離れよう」
とてつもなく、厭な予感がする。頭がガンガンと警報を止めてくれない。全身が寒気に襲われる。
「……風丸?」
わからない、といった表情で立ち尽くす彼の手を無理矢理引き連れた。
早く、此処から離れないと。逃げないと。汗がどっぷりと身体を伝う。全速力で逃げ惑う。神経はすべて、此処から立ち去る事に徹していた。
足がもつれそうに成りながらも、走る。走る。ただ駆けた。怖くて。あの景色が強く反照して頭を支配する。引きつられている彼が、時折声を上げる。だが、今じゃそんなもの聞こえやしなかった。
否、世界の音なんて、街の騒がしさなんて聞こえやしなかった。

昼間だというのに鴉が頭上を飛び通う。黒い羽を落として彷徨う。滑稽滑稽と笑うその様が更に滑稽だった。
その姿は、豪邸のような家で待っている彼を連想させた。
漆黒の姿は、何の証だっただろうか。
そこで自分は思い出す。
何も無い世界の話を。



「風丸っ、待てっ!止まるんだ!止まるんだッ」

何処まで走ればいいのだろう。わからなくて、息のが上がる。聞こえてきた声も、麻酔にかかったみたいに身体は言う事を聞かない。そもそもそんな考えを思いはつかない。

「これ以上っ、これ以上行っちゃ駄目だッ! じゃないと、お前がっ、お前が――!」


最後の言葉は大きな鴉に飲み込まれた。







目の前は赤に染まる。
事故でもあったのだろうか、大きな車たちが連なって空を引き裂いた。焦げ臭い炎のにおいが鼻をついた。
その中ひとつだけ、剛速球で黒い車が飛び込んできた。四輪がきぃきぃと火花を散らし、歩道のガードレールを飛び越え直進する。
瞬時手を離した事が幸いだと信じたい。
痛みは既に感じなかった。彼は、どうだったのだろうか。死には、しなかっただろうか。

そして誰かの願いはひとつ、あっけなく幕を閉じました。

鴉が黒く、空を覆い尽くした。




「私の記録はここまでです。二人とも――いえ、あなたはよく此処まで頑張りましたね。円堂守」


サイレンが鳴り響き、人々の悲鳴やら声が聞こえる。
黒いアスファルトは、今では赤く煤けていた。愛用のバンダナは風で何処かへ飛んだらしい。

黒い、傘を差し闇に塗れる彼は続ける。

「これで、三回中三回すべての"今"は終わりました。残念でしたね。此処で彼の手を引けばまだ望みはあったかもしれませんが。――これでわかったでしょう? 運命は覆らないということが」

鴉に似た男は淡々と、事実を繰り返す。
その隣、呆然と自分は座り込んでいた。三回目の現実に目が震えていた。あぁ、これでもうチャンスは終わったんだと、冷たい脳内が勝手に解釈した。
現実味が、無かった。
ある日訪れた悲劇を繰り返し、それを回避しようとした。だがついに、それもリミットを切ってしまった。つまり自分は、わかっていた未来を、三回も彼を死なせた。
一回目はあの大きな交差点。
二回目は商店街のT字交差点。
三回目の今回はどちらとも違う――――歩道。

「――もう、一度」

彼に逢いたかった。毎度そんなワガママが身体を突き動かしたのだ。それが、この結果だというのか。
ついに自分は、彼に云えなかった。あのひとつの言葉だけが、いえなかった。

「―――もう、一度だけ………チャンスを、」

ただただ、これ以上繰り返しても意味が無いという自分。
いやいや、次はきっと成功すると笑う自分。
ふたつが入り混じった感情で、ひとり死神に望んだ。光を。それが、黒くて醜くてもいい。ただ自分は、彼にまだまだ生きてほしかったんだ。

「何を云いますか。私は最初に言った筈です。これは条件つきだと。」

そんな願いを彼は、音も立てずに切り捨てた。
「条件というのは、ひとつは三回の内一回でも彼を生き残らせた時それは真実に変わるというもの。ふたつめは、繰り返す費用としてあなたの人生全てを差し出すこと。つまりもう一度するというには、不死身でもなければあなたには不可能なことです。」

かたり。時計がモノを申す。いつもなら此処でさっきに戻っていた"今"。だがもう、戻る事は出来ない。

「しかし、残念でしたねぇ。私も彼と一緒に住んでは見ましたが、殺すには少し勿体無い気もしました。ですが運命は捻じ曲げられません。これが俗に云う、"美人薄命"ということですかねぇ。私は私で、楽しませてもらいましたよ。あなたも、いい線はいったと思うんですがね。残念でなりません」

けらけら。
死神の彼は笑う。人間の自分は息をする。

「では、もしいつか会う日まで―――さようなら。初々しい御二方」


黒い羽が、消えて行く。
その中ひとり、大きく泣き喚いた。




(世界が終わる)