第8話 紅血に染まる二人


思い返せば鬼に成り立ての頃も、とにかく人間のいない場所を探して、こうしてひたすら歩き続けた気がする。生温い風が吹き抜ける暗闇の中で、額から流れる汗を拭う。
ここが一体どこなのかは分からない。
喉の渇き、蓄積される疲労、日に日に憔悴していく体を引きずりながら、名前は歩き続けていた。

「ちょっとだけ休憩……」

実弥から逃げるようにして辿り着いた山道で腰を下ろす。項垂れた頭を上げれば、欠けた月を見つけることが出来た。
月を眺めるのは好きだ。太陽の下で生きられない自分を照らしてくれる唯一の光は、鬼である自分をこうしてよく癒してくれた。

「鬼、か」

口元に手を当てればざらついた牙の感触がする。
自分が鬼の中でも特異な存在だということは、珠世と愈史郎に教えられ知ることが出来た。けれど何が違うのかを具体的に理解出来たのは、その後長い年月を鬼として生きてからだった。
人間にも鬼にもなれない私は一体何者なのだろう、と自問した夜も幾度となくあった。
そんなどっちつかずな自分が、人間に恋をした瞬間から鬼に進化していくだなんて、皮肉にも程がある。いや、そもそも鬼が人間に恋をするだなんて馬鹿げた話。罰が当たったんだと名前は苦笑した。

“名前”

どれだけ遠くに逃げようとも実弥の声が頭から離れない。ほんの少しでもまだ名前の中に、実弥を求める心が残っているからだ。

「いっそ全部焼かれてしまえばいいのかな……」

日のもとでこの体も心も全てをだ。

何もかも、それこそ人間の血ですら置いて出てきた名前だが、唯一手元にあるこの医療道具だけは手放すことが出来なかった。自分は確かに鬼だけど、これを使人を救ってきたのもまた事実。それを再認識するかのように道具をぎゅっと抱きしめる。
まだもう少しだけ。夜明けまで時間はある。
行けるところまでは歩こうと、名前は今一度荷物を背負い山の奥へと足を進めた。


こんな山奥に人間などいないだろうと思っていたのに、一軒の小屋らしきものを発見した。再度目を凝らして見るも、やはり見間違いではなさそうだ。
じっと身を潜め気配を探る。今のところ小屋の周辺に人間がいる様子はない。恐る恐る近づいてみれば思った以上に小屋は廃れており、誰かが住んでいるような形跡はあまり感じられなかった。

「生活用品はないけど、狩猟に使えそうな道具がいくつかあるみたい……」

この山で狩りをしている者が使用する小屋なのだろうか。様子を伺いながら中へと侵入した名前は、ぐるりと辺りを見渡しながらそう推測した。
家屋に足を踏み入れたせいか、抑え込んでいた疲労感がどっと押し寄せる。

「……ほんの少しだけでいいから休みたい」

誰の小屋なのかとか、これからどうするべきかとか、考えることはたくさんあった。
それでもとにかく今は体を休めたかったので、冷たい床の上に横になり目を瞑る。こうすれば名前の体力は鬼としては時間はかかれど、人間に比べるよりは早く回復するからだ。

微かに人間の匂いがする。
その残り香にあてられて、名前の意識が混濁し始めた。

「な、んで……こんなに早く……」

出発前に血を摂取してからの日数を考えると、いつもよりそれを欲する速度が速まっている。
駄目。そんなこと考えちゃ、絶対駄目。
私は人間を──。

「……食べたい」

朦朧とする意識の中で目を閉じれば、名前はすぐに眠りに落ちてしまった。





起きろ。

「誰……?」

おい、早く起きろ。

「だから誰なの……?私……今はとにかく──」

その声に反応して飛び起きれば、彼は軽く舌打ちをして不機嫌そうな顔を浮かべていた。

「は……?え……」
「寝起きとはいえ何だその不細工な面は」
「え……だって……実弥、さん?実弥さん……ですよね……?」
「あぁ?まだ寝ぼけてやがるのかァ?」
「どうして、ここに」
「どうしてって、今日中に薬を取りに向かうって約束を取り付けていただろうがァ」

そんな約束していない。
そもそも小屋で寝ていたはずのなのに、見渡せばそこは以前まで名前が住んでいた家の中だった。
一体何が起きているのか分からず、もう一度目の前の実弥に視線を戻す。

「おい、何だァ。本当に具合でも悪いのか?」
「あ……いえ、そうじゃなく……」

俯きながら口元に手を当てれば、あの受け入れ難かった感触が感じられない。

「牙が……」
「は?牙?」
「……牙が無くなってる」

名前の言葉に実弥は目を丸くしてみせた。

「実弥さんも見たでしょ……!?私に牙が生えてきて……それで──」
「何だそれ。テメェは鬼になる夢でも見てたのか?」
「鬼になる……夢?」
「いい加減目を覚ませェ。じゃねぇと今すぐここで犯すぞ」

そう言って実弥は意地悪そうに笑った。

何がどうなっているのか理解出来ない。
じゃあ今までのが悪い夢だったってこと?私には牙なんて生えてなくて、この家で暮らし続けてもよくて、こうして貴方といることが許されていて……。

私は鬼なんかじゃない──。

「な、何してるんですか……!?」
「何って今さっき犯すって言ったじゃねぇか。いつまでも呆けてるテメェが悪い」
「待っ、て……!待って下さい……っ、起きます!起きてます……!」

押し倒され衣類の下から実弥の手が入ろうとしたところで、名前が慌てて阻止する。そんな名前を見て、さっさと用意しろとだけ告げた実弥は背を向けた。
その背を見つめていた名前があることに気づく。

「あれ……実弥さん、羽織は……?」

背中に殺の字がない。

「羽織?」

よくよく見ればその服だって似ているようで隊服ではない。その横には鬼を狩るための刀もない。

「鬼殺隊の服と刀も……」
「きさつたい?何だそりゃあ」
「は……?実弥さんこそ、何を、言っているんですか?」

貴方は柱になるまでその全てを鬼殺隊に捧げてきたはずだ。鬼は皆殺しだと背中に掲げて。

「一つ聞いてもいいですか……?」
「何だァ」
「……私達ってどういう関係なんでしょうか?」
「テメェ……いい加減にしろよォ」

再び実弥によって名前の体が倒される。

「やっぱ犯す」
「え……や、」
「俺と付き合ってるってことを、もう一度体に教え込んでやらァ」

あぁ、やっぱりそうだ。そんな都合の良い話ある訳がない。
これは貴方であって貴方じゃない。貴方はこんな風に笑ったりしない。慈愛に満ちた目で私を見つめたりしない。

私と貴方は、鬼と人間。それ以上でも以下でもない。

だからこそ私達は出逢った。鬼殺隊である貴方だからこそ、息を潜めていた鬼の私を見つけてくれた。
私が惹かれたのは貴方の優しい殺意だから。
それがない目の前のこの人は幻にしかすぎない。だからさようなら。


──ガチャリ。

夢から目覚めた名前の耳に金属音が響いた。次に感じたのは額に当てられた冷たい感触。
咄嗟に目を見開けば、自身の脳天に向けて大きな銃を構えた男と目が合った。

「ここで何をしている?」

男は眉間に皺を寄せながら名前に問いつめた。
その格好と猟銃から名前の推測通り、ここは狩猟に関する小屋でこの男は持ち主と考えられるのが妥当だろう。
ならば勝手に上がりこんだ名前に対し、こうした行動を取ってしまうのも無理はない。

「ご、ごめんなさい……っ、私……」
「ここで何をしていたか聞いている」
「歩いていたら疲れてしまって、少し休ませてもらっただけで……」
「こんな夜更けにそれもこんな山奥で……お前みたいな女が一人でか……?」

人間……。人間がいる。
名前の心臓がドクンと脈打つ。
渇く。食べたい。
食べちゃダメ。

食べたい。今すぐにこの男を食べたい。

ダメ。そんなこと考えちゃ絶対ダメ──。

「な、何だその歯は……!?」

飢餓に襲われ開いた口から牙が見え涎が滴る。名前の異形に顔色を変えた男は、額に当てた銃により力を入れた。

「う、動くな!おいっ、動くなと……!」
「ごめんなさい……っ」

ガタガタと震える男の脇腹を右脚で蹴り飛ばせば、男の体は簡単に壁際へと飛んでいった。ほんの少し蹴っただけなのにこの有様だ。やはり鬼の力が増しているのだと、名前は確信した。

このままじゃこの男を食べてしまうかもしれない。もっと、もっともっと遠くへ。人間など一人もいない何処かへ。
必死に走り去る名前の背からズドンという大きな銃声が聞こえた。

「が、はぁ……っ!」

男が放った鉛弾が貫いたのは名前の左胸部――人間であれば心臓に該当する箇所だった。吐血と同時にそこからおびただしい量の血が吹き出る。
普通の人間なら致命傷に相当するものが、名前にはそんな常識通用しない。

それは名前が鬼だからだ。

名前は一度も後ろを振り返らずに走り続けた。先ほどの世界は夢だったこと、自分が鬼だというこの世界が現実だということを再認識しながらひたすら走り続けた。





「はぁっ……はぁ」

さすがに男が追ってこれない距離まで来たところで、速度を緩め足を止める。
一つだけ感じる違和感。撃ち抜かれた箇所から痛みも何も感じないということ。
初めてのことに恐る恐る胸元を見やる。

「……もう、再生している」

すると傷口はすでに塞がっていることが分かった。驚異的な再生速度に身震いした。
鬼化している自分をもう止められない。次に人間にあったら欲望を抑え込む自信もありはしない。だったらこのまま──。

ドサリと倒れ込み月を仰ぐ。
こんな風に日を浴びれたらどれだけ気持ちが良いのだろうか。青い空の下、風に吹かれて雲を眺めて……そんな人間だった時が確かにあるはずなのに。
このまま朝日と共に終わろう。そう決意をして目を閉じる。


“大丈夫か”

誰だろう。

“今のは一体……”
“こんな夜更けに女一人でふらついてんじゃねェ。鬼に食われても文句は言えねぇぞ”

これは私の……人間の時の記憶?

“血が出てるのか?”
“あ……さっき転んだ時の……”
“これを使え”

誰かに助けてもらった覚えがある。
一体誰に?ああ、でも思い出したところでもう意味もない。もう、このまま。


「名前」

また声がする。今度は過去の記憶からじゃない。

「起きろ」

……人間だ。人間の匂いがする。
その血肉を喉に流し込みたい。

「……早く、離、れて」

ううん、最期まで誰一人として食べたくなんかない。何度も欲望を押し込めながらそっと目を開く。これもまた都合の良い夢なのだろう。

「……実弥、さん?」
「この血はどうしたァ?テメェの血か?」
「大丈夫です……まだ、誰も……。でも、どうしてここに……?」
「俺から逃げられると思ってんのかよ。テメェが鬼である以上、俺はどこまでもテメェを捕まえに行くぞ」

これは夢だ。だから目の前の実弥さんも、この飢餓感も現実のものなんかじゃない。
夢だ夢だ夢だ。

「う、う"う"……人間……っ」
「おい、名前」
「人間……お前の……、ダメ……っ、ぐああっ」
「ちっ。血が足りねぇのか。瞳孔が開いてやがる」

混濁する名前の上に実弥が跨がり、力づくで抑えつける。すると途端に名前が大声を出して暴れ出した。

「どけ!離せ……っ!う"、う"う"!」
「馬鹿が。こんなになるまで我慢のしすぎだァ」
「う……っ、うう、やめて!」
「安心しろ。テメェだけ先に地獄には行かせねェ」

実弥は名前の目の前で左腕を差し出した。右手からはゆっくりと刀が抜かれていく音がする。

「お願い……!それだけはやめて!」
「黙れ」
「やだっ!飲みたくない……っ!」
「いいから黙れ」
「貴方の血だけは……好きになった人の血だけは飲みたくない……っ!お願い!やだぁ!」

実弥が刀で腕を切り裂くと、大量の血が叫び声を上げる名前の口元へと流れ込む。同時に飢餓感が徐々に消え、実弥の稀血により名前の興奮が少しずつ収まっていく。

「っ……ん」

ゴクリと音を立てて実弥の血が全身に流れ込む。瞬間名前が感じ取ったことは、その血は今まで飲んだどの血よりも凄まじいということだ。稀血がこれほどまでに鬼に影響を与えるなんて。

「は……、あ……」
「……少しは落ち着いたかァ?」

朦朧としていく意識の中、涙が零れ落ちる。

私は矛盾している。
貴方の血を飲んでまで無様に生きたくはなかったのに、本当は追いかけて来てくれたことが何よりも嬉しかった。

「……ごめん、なさい。貴方を好きになってしまって……」

名前はその言葉だけを残して、パタリと意識を失った。

「……テメェのせいじゃねェよ」

ゆっくりと牙が消えていく名前を見つめ頬を撫でる。

俺がいる限りテメェはもうどこにも逃げられない。死ぬことすら許されない。どこにいても地の果までも追って捕まえてみせる。

「俺に惚れられたテメェが不運だった。ただそれだけだァ」

そうして名前を抱き上げると、実弥は再び山奥の道へと消えていった。
その言葉はまだ名前に届くことはなく。


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