第6話 牙を向く


優しく抱かれたあの日から、実弥はぱったりとここを訪れなくなった。
もちろん今宵も彼は現れない。
けれどそれが名前にとっては好都合だった。今日は大事なお客様との用事があったからだ。

髪を結い身支度を整え最後に紅をさす。そうすれば自分じゃない自分の完成だ。
その姿で待ち合わせの場所へ赴けば、一人の男性がこちらに向けて手を上げた。

「お待たせして申し訳ありません。西條様」
「いや、僕も今来たところだよ」

とても柔らかい笑みを浮かべながら、西條と呼ばれる男は名前の肩を優しく抱き寄せた。

「今夜は僕の屋敷に案内するよ」
「私なんかが西條様のお屋敷にだなんて……光栄です」
「さぁ行こうか。八千代」

八千代と呼ばれた名前もまた、男に負けないくらい柔らかな笑みを浮かべこくりと頷いた。

こうして偽名で呼ばれるのは何度目だろうか。人間と関わるたび街を転々と移るたび、数え切れないほど名前は素性を偽り隠してきた。
無論西條と呼ばれるこの男も、まさか名前が鬼だなんて知るはずもない。

「どうぞ。こちらへ」

案内された屋敷は予想通りとても立派で華やかなものだった。貿易商人である西條の家となれば、これくらい当たり前だろう。

「頼まれていたお薬です」
「いつもご苦労様。八千代の薬は本当に評判が良いから助かるよ」

名前にとって西條は自分の薬を高値で購買してくれる、大切な商売相手の一人だった。
お金はある人から貰うと以前実弥に話したことがあるが、今最もその割合を占めているのがこの男だろう。

「わぁ……凄い御馳走ですね」
「何が好きか聞いていなかったから、色々用意させたらキリがなくなってしまったよ」
「それはお手数おかけしてしまって……。お気遣いありがとうございます」
「さぁ、一緒に頂こうか」

大きなテーブルを挟んで向かい合わせに座る。
人間に紛れて長く生き続けていた結果、食事のマナーや知識は自然と身につけることが出来た。

「いつも思うけど、八千代は食事をする姿も美しいね」

人間が食べる食事など名前には一切必要ない。味わうことが出来たとしても、そこに満たされるという感覚は全くないのだ。
美味しいと笑顔を振りまきながら、食事を体に流し込むだけの作業を続ける。

「僕なら今日みたいな豪華な食事を、毎日でも食べさせてあげられるよ?」
「ふふ。そうしたらすぐにでも太ってしまいそうです」
「食事だけじゃない。君が望むものは何でも叶えてあげるのに」
「でも私には、これ以上望むものはもう……」
「ごめん、そうだったね。君はいつだって無欲な女性だ。でもそこが君の魅力でもある」
「魅力だなんてそんな。高貴なものに不慣れな庶民なだけですよ」

嘘で塗り固めた自分を、口説き落とそうとする男を見つめながらいつも思う。
愛とは一体何なのか。

「八千代……今夜は一緒にいられるんだよね?」
「……はい。西條様とお約束しましたから」

西條は薬師である名前にとって、この街で生きるための一番の支援者だった。
何度も添い遂げたいと言われたけれど、鬼である名前には到底無理な願いでしかない。もちろんそれ以前に彼に対して恋心を抱いたことは一度もないし、今後も抱くことは無いと断言出来る。

そんな名前に対して西條は、前回の逢瀬の時に、ならばせめて一晩の思い出が欲しいと言った。
名前は一つの街に長居は出来ない。いずれ彼の前からも姿を消すことを考えたら、お世話になった身としてそれも致し方ないと思った。
逆に言えば変な考えを起こされたり、逆上された方が後々面倒なことになる。
生娘でもないのだから、と名前は覚悟をして西條の前に座っていた。


食事の後、お風呂に浸かるように案内された。見たこともない広さのお風呂場に驚きこそしたものの、それを嬉しく思う気持ちはなかった。
名前の本当に欲しいものはこんなものではなかったからだ。

のぼせる前に湯から上がり、男の待つ部屋へと向かった。
敷かれた布団の上で自身を待つ姿を見て、名前はごくりと唾を呑み込んだ。
たった一夜。なんてことはない。
そう言い聞かせ西條の隣に座る。

「怖いかい?」

長く骨張った指が名前の頬に触れた。

「いえ……大丈夫です」
「そうか。一晩とは言えやっと君を手に入れられる。この日をどれだけ待ち望んだか……」

顎を掴まれキスが落とされる。最初はちゅっと音を立てて啄むだけのキスだったが、次第に口内に舌が侵入し深く交わり始めた。
それでも名前の反応を探りながら、その行為一つ一つがとても優しさで溢れている。

これほど優しくされて怖いことなどありはしない。
あの人のように、全てを奪い食らい尽くすような行為とは何もかもが違う。

「っ……八千代?」

咄嗟に西條から唇を離してしまった。
一瞬でも脳裏に実弥の顔が横切ったからだ。
キスも体温も全てあの人とは違う。
ううん、そんなこと自体考えてはいけない……。

「大丈夫です……続けて下さい」

西條の首に手を回し二人で布団へと沈む。
男の唇が耳から首筋へと移動していく最中、いつの間にか乱れた襦袢からは、名前の両の膨らみが露わになっていた。

「とても綺麗だよ……八千代」

西條の舌が胸の突起に触れた途端、名前の全身に鳥肌が立った。ゾクリと走るその感覚は快楽とは程遠く、名前の心はすぐさま不安と恐怖で埋め尽くされた。

違う。私は八千代なんて名前じゃない。

「……待っ、て」


“名前”


実弥の声が何度も記憶と共に蘇る。
思い出してはいけないのに。
それなのにどうして?

“テメェは紛れもなく鬼だ”

あの人だけが鬼である自分に気づいた。
世界でただ一人本当の私を知っている人間。
あんなに何度も乱暴にされたのに、彼に与えられた悦びを体中が覚えている。
なんてザマだろう。
彼をあれほど拒絶し嫌だと言いながら、今私は彼を求めてもがいている。

「ご、ごめんなさい……っ、これ以上はやっぱり」
「八千代……っ?何を」
「約束はなかったことにして下さい……っ」

起き上がろうとした矢先、とても強い力で身体を布団へと打ちつけられた。

「……なかったことに?ここまで来て出来る訳がないだろう」
「西條、様……」
「お前の薬にいくら払ったと思ってる」

まるで人が変わったようだった。
これまで穏やかで優しかった西條からは考えられないほど、冷たい視線を向けられた。

「……散々優しくしてやったのにつけあがりやがって」

その言葉に何も言い返せなくなってしまった。確かに彼の言う通りだ。ここまできて何もかも承諾しておいて許されるはずがない。
それでも本能が目の前の男を拒絶してしまう。

「や、やだ……っ」
「お前だって初めてじゃないんだろ?なら大人しく俺に奉仕しろ……!」
「んんっ!ん──!」

西條が名前の口を手で抑える。

だってもう知ってしまったから。憎しみだろうと殺意だろうと、鬼である自分の存在を認識してくれる人間がいる世界を。
誰にも悟られまいと生きてきた、臆病者で卑怯者の自分をあの人が見つけてくれた。

全身が拒絶する。
あの人以外は受け付けたくないと──。

「ぐああ……っ!」

瞬間、西條が苦痛の声を上げた。
その声と同時に名前の口内に血の味が広がる。

「っ、クソ……!このアマ!思いきり噛みやがったな……!?」

西條の右手からは血がダラダラと流れ出していた。拒絶するために咄嗟に噛んだとはいえ、ゴクリと喉を通ったその血を味わっている自分がいる。
おかしい。こんな自分は初めてだ。

もっと血が、もっともっと血が欲しい。

「お前……っ、何だその牙は……!」
「牙……?」
「うわあああ!誰か!誰かぁ──っ!」

ひどい形相をした西條が、大声を上げて部屋から逃げ出して行く。

「私も……早く、逃げないと……」

西條が使った通路からは逃げられない。逃げるなら2階の窓からが一番効率が良い。
そう思い乱れた衣服を直しそこまで走ると、窓に映る自分を見て名前は絶句した。

「何……この、牙……っ」

そこには鬼を象徴する牙を生やした自分がいたのだ。

「早くしろ!こっちだ!」

それでも今は迷ってる暇はない。
窓を開け名前は決死の思いでそこから飛び降りた。骨折ぐらいはするだろうと覚悟していたが、着地後も痛みを感じることは全く無かった。

「もしかして、体も強くなってる……?」

名前はそこから全速力で走り抜けた。家までの道のりが果てしなく遠く感じられる。もっと奥へ。誰にも見つからないようにあの森の奥へと逃げ込んだ。
そうして辿り着いた家に名前はなだれ込むように入っていった。

「はぁ……っ、はぁ」

恐怖で全身が震える。西條にされたことが原因じゃない。
自分の鬼化が進んでいることを認識してしまったからだ。
口の周りについた血を拭うと、より一層渇きが名前を襲った。
棚を漁り血の入った小瓶を取り出す。貪るように数本流し込むと、先ほどよりも少し衝動が収まった気がする。

「やだ……っ、これ以上鬼に近づきたくない……!」

そういえばこんな感情をどっかで抱いたことがある。
流れ込む血を全身で拒絶した記憶。
あの男は息絶えそうな私を、ゴミを見るような目つきで見下ろしていた。

全ての元凶である鬼舞辻無惨が──。


「おい」
「きゃあああ……っ!触らないで!」
「おい……っ」
「もう誰も私に触らないで……!怖い……っ!ううう……!」
「落ち着け」
「鬼になんてなりたくない……!助けて……っ、誰か助けて!」
「名前!」

名を呼ばれ名前の意識が現実へと引き戻される。気がつけばその身は誰かに強く抱きしめられていた。
涙を流しながら見上げると、そこには名前を見つめる実弥の姿があった。

「あ……、あ……」
「とりあえず落ち着けェ」
「ごめんなさい……私、今……」

トクントクンと聞こえる実弥の心音が、名前に安らかな静寂を与えてくれる。その音に身を委ねると、徐々に気持ちが落ち着いて正常心を取り戻すことが出来た。

「ありがとう、ございます……少し、落ち着きました……」
「テメェがこうなった理由に、その格好とこのキスマークは何か関係があるのか?」

首元を指でなぞられ悪寒が走った。

「これは……!その……っ」

今すぐ今宵の出来事を消してしまいたいと言わんばかりに、名前が必死で首元を擦り続ける。そんな名前をみかねて、実弥はその手を強く握ってみせた。

「止めろ」
「ほ、ほら……これで貴方も分かったでしょう!?私は欲深い鬼だから……こうして男を騙してお金を取って、それ以上のことだって!だから貴方も抱きたければさっさと私を抱けばいい……!」

名前が自身に現れた牙を剥き出しにして、実弥に食ってかかる。涙を流しながら訴える名前を、実弥は真剣な眼差しで見つめていた。そして再び名前を引き寄せ、腕の中で強く抱きしめる。

「テメェはそんな女じゃねェ。俺が良く知ってる」
「そんなことない……っ、私は鬼だ!この牙で今すぐに貴方を食べることだって出来る……!」
「テメェは人間を食わない」
「違う……!私は……っ」
「そう確かに俺に言った」

腕の中で暴れる名前を抑え込むように抱きしめた。
名前を抱いた時、自分が初めての相手じゃないことはすぐに分かった。でもその反応は男を知らないに等しいものだった。騙したり悪知恵が働く女なら、こんな風に不器用に生きたりはしない。
どれだけ実弥に屈辱的な扱いを受けようと、人間を食べないという強い意志と誰かを助けたいという優しい意志は、死を目の前にしても絶対揺らぐことはなかった。
それを実弥は知っていた。

孤独と暗闇の中で生きる名前が美しいと感じたのはいつからだろう。
鬼は皆殺しだと言いながら、俺は鬼であるこいつに確実に惹かれていた。

「うう……っ!私……誰も食べたくない……!」

泣き喚いて震える名前から、離れることはしたくなかった。そのまま布団に運び名前の瞼が落ちるその時まで、実弥は側に居続けた。


それから名前が事の詳細を口にしたのは、夜明け前の事だった。

「私が甘かったんです……薬をたくさん買い取ってもらって、それだけで終わらないと分かっていたのに……」

抱かれるのを覚悟で一度は男を受け入れたと聞いた時は、無性にその男を殺してやりたい気持ちになった。やっていることは実弥の方が幾分もひどいのにだ。
自分は浅ましい女なのだと名前は言ったが、そうすることでしか人間の世界では生きていけなかったのだろう。
それから名前は鬼舞辻無惨の記憶もほんの少し思い出したようだが、多くを語ることは怖がってしなかった。

「あの鬼が怖い……」

無惨に対する名前の恐怖心は、無理やり抱いた際に実弥に向けたそれとはまるで違った。
名前にとって鬼となったことは、死ぬことよりも苦しいことだったのだろう。

「もしまた無惨がテメェの前に現れたら俺を呼べ。無惨を殺すのが俺の役目だァ」
「その前に私を殺さないと……私が人食い鬼になってしまう前に……」

名前の瞼が少しずつ落ちてくる。

「男に売っていた分の薬は俺が買う」
「……え?」
「鬼殺隊は常時怪我人がいる組織だ。使い道は腐るほどある」
「でも……」
「次会う時までに用意しとけェ」

ダメ。想っちゃいけない。
私は鬼で、彼は人間──そして鬼を狩る隊士。
決して許されるはずがない。

「ありがとうございます……実弥さん」

分かっているのに、どうしようもないくらい彼を好きになってしまった自分がいた。

止まらない恋情は止まらない欲望を呼び寄せる。
何も欲してこなかった名前は、実弥への想いを引き金に鬼へと近づくことになる。
この先待ち受けるのは破滅への道とは知らずに。


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