第4話 月光


夢を見た。鬼の夢。
どこへ逃げようとその鬼は、氷のような笑みを浮かべ追いかけてくる。
永遠に終わらない鬼遊び。

ああ、でももう大丈夫。
あの人が私を殺してくれるから。
そしたらようやく終わりを迎えられる。
だから早く──。


伸ばした手はいつもと変わらない天井へと向けられていた。ゆっくり身を起こせば下半身に痛みが走る。
その痛みで昨夜の出来事が蘇った。まだ痛みがあるなんて、今回はとりわけ再生速度が遅い気がする。

「夢を見たのは久しぶりかも……」

誰に何に追われていたのか、今はもう思い出せない。
重たい体を起こし襦袢に体を通そうとする途中、胸元に残されたあるものに気がついた。

“もう一度忠告しておく。テメェは俺のもんだァ”

快楽に溺れる中、そう言って強く噛みつかれたことを思い出す。

「……これじゃあどっちが鬼か分からない」

刻まれた所有印を撫でながら名前は言った。
あの人もきっと物珍しさから、体を重ねているのだろう。自分には人間とはまた違う快楽があるのか。でもいつかそれにも飽きがくる。そうなればきっとこの命も終わる。
太陽の下に出ればすぐにでもこの命を終わらせられるのに、百年ほどこうしておめおめと生きてきてしまった。
自分は本当は生きることも死ぬことも怖くて堪らない臆病者で、そのうえ彼に命を託した卑怯者なのだ。

「薬草……取りに行かなきゃ」

彼の言う通り人間の真似事をしても現実は変わらないのに、懲りずに偽善を続ける自分を、彼はどう罵るだろうか。
そんな事を考えながら、名前は身支度を進めた。





曇天の空が広がる森の中をひたすら歩く。このへんを住処としたのには理由がある。
この森とその向こうにそびえる山は、多くの薬草が手に入る、名前にとって言わば宝庫のような場所だからだ。そのうえ人が住むような土地ではないときた。
様々な土地を転々としてきたが、こんな好条件滅多にあるものじゃない。

「あ、これ。珍しい」

何気なくいつもとは違うルートを辿ると、このへんではあまり見かけることのない薬草が目に入った。

「やっぱりこっち側の奥が一番豊富なのかも」

山の奥に視線を向けるも、名前には迷いが生じていた。
一度別方向から山奥を目指したこともあるけれど、何せ足場が悪く、目的の場所まで進むことは出来なかった。

「でも行ってみる価値はきっとある」

未開拓の地に足を踏み入れる直前、彼の顔と別れ際の言葉が浮かんだ。

“鬼なら鬼らしく俺にいつ殺されるか怯えて暮らしてろォ”

「誰が怯えて暮らしてなんてやるもんですか……!」

売り言葉に買い言葉のような言葉を吐いて、名前は山の奥へ奥へとどんどん進んでいった。


歩き続けて数時間は経過しただろうか。
先々で見つけた珍しい薬草達は、いつの間にか背中の籠を満杯にしていた。

「ふぅ……こんなにいっぱい。やっぱりここまで来て正解だった」

ただやはり足場の悪さから、ここまで来るまで一苦労だったことは否めない。何度もそう来れるところじゃないだろう。
早いとこ帰路につかないと、このへんはすぐに真っ暗になってしまう。
そう思い焦って歩調を速めたその時だった。

「きゃ、きゃあああ──っ!」

不覚にも踏み外した足元から、山の斜面へと転がり落ちてしまった。
どれだけ踏ん張っても加速して落ちていく体は、途中大きくそびえ立っていた木にぶつかったことで止まることが出来た。
体のあちこちから痛みを感じながら斜面を見上げる。ここから元々いた場所に登っていくことは不可能に近いだろう。遠回りにはなるけれど歩きやすい道を選んで進むしかない。

「痛……っ!」

歩き出した途端、右足に激痛が走った。痛みと腫れの状態から骨折の診断を自身に下す。
それでも立ち止まることは出来ない。このままここに留まり続けたとしたら、じきに朝日が昇り日光を浴びてしまうからだ。

「急がないと……っ」

名前は右足を引きずりながら、懸命に山道を進んだ。
しかし歩けど歩けど、元来た道に戻ることは出来なかった。重い体が次第に熱くなっていく。骨折に伴う発熱症状が出たのだろう。

「早く、家に……」

直後めまいに襲われ、名前はその場に倒れ込む形になってしまった。
腫れ上がる右足、上昇する体温、昨夜から続く倦怠感と下半身に残る痛み。このまま突き進むことが得策なのか。
それとも自身が持つ鬼の再生力を待って、全ての症状が緩和するのを待つことの方が良いのか。
横たわったまま息を整えていると、今度は頬に冷たい何かが当たる感触があった。

「もしかして……雨?」

ポツリポツリと降り出した雨が、徐々に激しい音を立てて名前の元へと降り注いだ。
今しがた上昇していた体温が急激に奪われ始めていく。何とか体を起こし辺りを見渡すも、雨宿り出来そうな場所など到底見当たらない。

このまま家に帰れなかったらどうなるだろう。朝日と共にここで朽ち果てていくのだろうか。
それでも……ううん。その方がいいのかもしれない。
あの人の言う通り私は紛れもなく鬼なのだから……だからこの世界に存在しない方がいいに決まってる。
人間を救おうとするのなら薬師なんかより、こうして消えてしまうことがきっと一番──。

意識を失う寸前、そんな考えが名前の頭をよぎった。
でもそれはあくまで聞き分けがいい自分になっていただけで、決して本心なんかじゃない。
本当は死ぬことも消えることも怖くて堪らない。だから名前は今日まで生きているのだ。





「……い」

誰かの声がする。

「おい……」

誰かの手が触れている。
誰だろう。もしかして死後の世界に来てしまったのだろうか。
ならば誰が私を呼んでいるのだろう。人間であった頃の記憶がないから分からない。

「おい。名前」

徐々に意識が戻ると同時に、聞き覚えのある声色が、風と共に名前の耳を掠めた。

「どうして……貴方が、ここに……?」
「それはこっちの台詞だ。こんなとこで寝てんじゃねェ」

目を開けた名前の視界に飛び込んできたものは、月光に照らされた実弥の顔だった。不覚にもその姿がとても綺麗で、何故か泣きたいほど切なくなってしまった。
月が出ていることからまだ夜明けは迎えていないことと、激しく降っていた雨が止んでいることが分かる。
反面周りの景色が変わらないことから、ここで意識を失って倒れたままだったことも予測出来た。

「右足はどうしたァ」
「大丈夫です……貴方に心配されるようなことは何も……」
「心配なんざしてねェよ。ただ──」
「ただ……?」
「このままここに寝そべり続けて、夜明けと共に死ぬ気じゃねぇだろうなァ?」

そうした方がいいと考えたのは事実だ。
何も言い返さず黙ったままの名前に実弥の手が触れる。

「勝手にくたばるんじゃねェよ」
「あ……!ちょっと……っ」
「テメェを殺すのは俺だってことを忘れたのかァ?」

何をされるかと思ったら実弥は名前の体を軽々と持ち上げ、あろうことかその背におぶってみせたのだ。

「あ、あの……一体何をしているんですか……っ?」
「何ってテメェの家に帰るんだよ」
「貴方……っ、本当に、おかしいですよ……!」
「あァ?テメェはこの場で叩き斬ってほしいのかァ?」
「そ、それは出来るなら……勘弁したい、ですけど……」
「なら大人しく運ばれてろ。迷子は迷子らしくなァ」

名前の濡れた体と、背中の殺の字が重なり合う。
互いに決して交わることのない相手のはずなのに、この体に何度も抱かれたことを思い出してしまった。
その途端に冷たかったはずの体が熱を帯びていく。

私……どうかしている。
心臓が大きな音を立てるたび、彼の背から伝わらないか心配するなんて……。

「なァ」
「は、はい……っ」
「こんなところで何してやがったァ」
「あ、えと……薬草を取りに……」

実弥はそれだけ聞いて会話を止めてしまった。
実弥も名前も終始無言のまま、それは家に辿り着くまで続いた。


「あの、もう歩けますから……」

家に着き背中から下ろすようにお願いしても、実弥はそのまま名前を布団の上まで運んだ。
しかし濡れたままではもちろん中には入れない。
着替えを取りに行こうとするも、既に箪笥の前にいた実弥から適当に見繕った服を投げ渡された。

「……ありがとうございます」

こんなに優しくされると、何か裏があるんじゃないかと思ってしまう。
あれほどまでに嫌悪感を向けられていたのに……。
その嫌悪感をわざと引き出す訳じゃないけれど、名前はいつもと違う様子の実弥にあることを頼み、彼を試すことにした。

「もう一つだけ取って頂いてもよろしいですか?」
「何だァ」
「そちらの一段目に入っている小瓶を……」
「小瓶?」

指示された通り棚を調べれば、中から数個の小瓶が並べられているのを見つけた。手に取ると赤い液体が小瓶の中で揺れている。

「人間の血、か……?」

渡される直前、実弥に問われ名前はコクリと頷いた。

「……私は人間を食わずともこれで──少量の血を飲むことで生きることが出来るんです。もちろん体の回復効果もあります」

瓶を開け赤い血を喉の奥に流し込む。静けさが漂う部屋にゴクリと飲み込む音が響いた。
きっとまたこれで鬼である自分に嫌悪感を抱くだろう。人間そのものでなくとも血を飲んでるというだけで、即座に頚をはねられる可能性だってある。
そう思っていたのに──。

「飲み終わったならさっさと着替えろ」
「あ……その」
「そうか、そんなに犯されてェのかァ」
「着替えます!今すぐ……!なのでちょっとむこうを向いててもらえませんか……?」
「今更だろォ。テメェの裸はもう見慣れた」
「か、勝手に慣れないで下さい……!」

それ以上実弥が何かを追求してくることはなかった。
例えば自分は幾度も寝床を変えて転々としていることや、輸血という名目で人間の血を提供してくれる人が僅かながらいること等、まだ話していないことはたくさんあるのに。
いや、自分が話したいだけなのかもしれない。

「床に伏してるテメェを殺しても何の楽しみもねェ。さっさと回復して俺を楽しませろ」

そう言って実弥は名前の家を後にした。一人取り残された名前は未だ混乱したまま。
彼がいつも自分に向ける殺意、鬼に対する憎しみ、刻まれる欲望、今日ほんの僅かに見せた優しさ。
どれが彼の素顔に一番近い感情なのだろう。
もっと彼のことが知りたい……。
空になった小瓶を握りしめ、名前は月明かりの下の実弥を何度も思い浮かべていた。





一度離れた名前の家を実弥が再び訪れたのは、夜が明ける少し前のことだった。
無言で部屋に上がり名前の顔を覗きこめば、規則正しい呼吸を繰り返している。どうやら容態は安定したようだ。

実弥が倒れた名前を見つけたのは偶然ではなかった。
早々に終わらせた任務の後にここを訪れた時、名前の姿は一切見当たらなかった。
名前は鬼だ。だから夜に活動することに何ら疑問はないはずだ。

ただこの土砂降りの中を──?

出しっぱなしの医療器具と、立て掛けられたままの傘を見つめそんな違和感を感じた。

そのまま山の奥へと足を進めれば、消えかかってる小さな足跡を見つけた。どれだけ広範囲だろうと柱の力を持ってすれば、このあたりの周辺の捜索など造作もないことだった。

「……っ!」

倒れた名前を見つけた瞬間、形容し難い焦りや感情が実弥の心を占めた。
冷静になれば、まだ頚の繋がった名前が死んでいないことなどすぐに分かる。鬼は頚を落とすか日光に当たらない限り、命を落とすことはないからだ。

「……おい」

何故こんなところで行き倒れてるかは分からない。
ただ許可なく死んでいたかもしれないと思ったら、名前に対する独占欲がおぞましいほど湧き上がった。


山での出来事を一人回想し、温くなった手ぬぐいを冷たい水に浸す。それを絞り再び名前の額におけば、微かに笑みを浮かべたような気がした。

「なァ……テメェは俺のもんだって何度言えば分かる?」

俺の許可なく地獄に行かせはしない。
いや……地獄に行くのは俺の方か。
誰一人殺してない鬼の行き先は天国か地獄か。

「なら名前、テメェも一緒に地獄に堕ちてこい」

眠る名前に呪いのような言葉を吐き、実弥は触れるだけの口付けを落としていった。





夢を見た。人間か鬼か分からない誰かの夢。
それは前に見た夢のように自分を追いかけることはなく、こちらに向かって手招きをしていた。

そちらに行けば何かあるのだろうか。
ダメ。行ってはいけない。
そう思うのに歩みはどんどん手の鳴る方へ進んでいく。

追われていたのは私?
それとも追っていたのが私?
いつか捕まるのなら、最後はあの人の手で。
そう思ったはずなのにどうして──。


伸ばした手は前と変わらず見慣れた天井へと向けられていた。ゆっくり身を起こせば、軽くなった体の上にぽとりと手ぬぐいが落ちる。

「まだ冷たい……」

これを額に置いてから随分と時間は経過したはずだ。
じゃあ一体誰が……。
その答えを追求してはいけないと分かっているのに、止められない感情が名前の中に芽生えていた。


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