第1話 鬼を狩る風


まん丸いお月様が空に浮かんだ夜のことだった。

一人、暗い森の中を歩く。
女性一人でなんて物騒だ。襲われるかもしれないよ。危ないから明るいうちに歩きなさい。
そう言われてもどうしようもない。

名前は太陽の下を歩けないからだ。

「遅くなっちゃった……」

それでも子の刻は超えてしまっていたので、名前は早足に帰路を辿っていた。
その途中のことだった。決して油断していた訳じゃない。

“それ”に遭遇するのは久しぶりのことだった。

「……何だ、お前?何を見てやがる」

何だと問われても答える義務は一切ないし、なんならこっちが質問したい。
口元に加えた腕は誰のものなのか。

「こんな森の中に自ら餌になりに来るとは、ありがてぇもんだな」

そう言ってそいつは持っていた腕を噛みちぎった。
名前を餌と称したのは、今しがた呑み込んだ腕と同じように、自身を噛みちぎるつもりだからだろう。
主食とする人間を殺し喰べる。それがこいつの──鬼の常識。

「どうした?俺が怖いか?」

黙ったまま身構えていると、鬼はそんな名前を嘲笑った。

「すぐにでも食べて──」

鬼の足がピタリと止まる。じっと名前を見つめ、何かを悟ったような表情をしてみせた。
ああそうか。気づいたんだ。私が──。

「お前、違うな。人間じゃ、な──っ」

それはまるで突風が吹き抜けたかのような、一瞬の出来事だった。瞬きの狭間、目の前の鬼の頚は見事に切られ、ゴロリと地面を転がったのだ。
一体何が起こったのか、状況が把握出来ない。
一つだけ分かったのはその鬼の後ろには、血の匂いを纏わせた男が一人立っていた、ということだけだった。

「おい。襲われたのはテメェだけかァ」

こちらを凄む彼に肯定も否定も出来なかった。
襲われそうにはなったが、実際に襲われてはいない。

「あの、血が」

男の腕から血が滴り落ちているのを見て、思わず声をかけてしまった。
どうであろうと助けてくれたのは事実だし、手当をしなきゃと思った矢先のことだった。

「あ、れ」

ぐらりと視界が揺れ足元がふらついた。まるで酔ってしまったかのような感覚。名前は戸惑いを隠せなかった。
すると男の腕がまっすぐ名前に向かって伸びてくる。
よろけた体を掴んでくれたのだと思ったのも束の間、名前の体は地面へと叩きつけられていた。

「テメェも鬼かァ」

喉元寸前まで突きつけられた刀に、ゴクリと喉が鳴った。

「い、いえ……」
「嘘をつくんじゃねェ。今しがた俺の血に酔っただろうがァ」
「血に、酔う?」
「俺の稀血は鬼を酩酊させる力がある。テメェがふらついたのはそのせいだ」

そんな稀有な稀血があるなんて初めて聞いた。
だからこの状況も決して油断していた訳じゃない。

「もう一度だけ聞く。テメェは鬼だな?」

答えを間違えれば即座に頚をはねられるだろう。いやどう答えても男は頚をはねるつもりか。
ならばと名前は覚悟を決めて口を開いた。

「そうです……私は鬼です」
「ちっ。襲われたように見せかけて、さっきの奴とグルだった訳か」
「違います……!仲間なんかじゃありません……っ!」
「じゃあ聞くが、今まで何人食ってきたァ?」

鬼の主食は人間であり、人間を食わずして生きることなど出来ない。それが常識。だから何を言おうと絵空事にしかならないだろう。
それでも事実から、彼から、目を逸らすことだけは絶対にしたくはなかった。

「私は人を食べたことは一度もありません」
「……おいおい。その場しのぎの嘘とは言え、そりゃあお粗末すぎるだろォ」
「本当です……!私は人間を食べずとも──ぐあぁっ!」

喉元に突き付けられていた刀が胸元を貫いた。
名前の顔が一気に苦痛で歪む。

「少し黙れ」
「ふっ……ふぅ……」
「どうした鬼ィ。震えてるぞ。殺されるのが怖いか?それとも俺を食いたくてしょうがねぇのかァ?」

浅い呼吸を繰り返す名前に、男は不敵に笑ってみせた。
そして己の腕を名前へと差し出し、わざと血を滴らせた。

「殺してやるからさっさと食らいついてみせろ」
「嫌……っ、食べない」
「はっ。散々食い散らかしてきといて何を今さら」
「私は、絶対に人を食べない……!」

深紅の瞳が真っ直ぐ男へと向けられる。

「ならさっさと私を殺せばいい。鬼殺隊の貴方にはその力もあるでしょう」

あまりに強く一切の揺らぎのない瞳に男の動きが止まった。

鬼殺隊という、鬼を滅することを目的とした組織について聞いたことがある。
もしも巡り合えば殺される可能性があるから気を付けるように、と忠告も受けた。緑色の光る刀を目の前にして、これが鬼を狩る刀であり、そして彼が鬼殺隊の隊士なのだということはすぐに確信した。
同時に私の命はここで終わる、ということも確信した。

「仮にテメェの言ってることが本当だとしても、今後も食わねぇという保証はねェ」
「ごもっともです。だから早く──」
「おい、テメェ……っ」

名前は男の刀を掴み、自らの頚へと食い込ませてみせた。
己の死を誘導するなどそんな自殺行為、男が困惑するのも無理はない。

「っ……何してやがる」
「殺すと言ったのは貴方の方ですが……っ」

男が咄嗟に刀を引いたことに、今度は名前が困惑してしまった。
それでもきっと私は彼に殺されるのだろう。
名前はそう全てを悟って受け入れていた。

「私は人を食べたことがありません。けれどそれを証明することも出来ません。私は紛れもなく鬼です。だから……殺されることもちゃんと理解しています」

鬼が存在してはいけない生き物だと、自分自身がよく分かっている。

「死ぬ前に一つだけでいいんです。一つだけ……我が儘を聞いてもらえませんか?」
「……何だ?」
「貴方の腕の傷を治療させて頂けませんか?」
「あァ?俺の傷、だと?」

自分の命が奪われるという間際に何を言い出すかと思えば。
予想外のことを口にした名前に、男は更に眉間に皺を寄せた。

「これでも一応薬師の端くれとして生きておりました。ならば死ぬ直前まで薬師としての責務を全うしてから死なせて下さい」
「冗談じゃねェ。ふざけるのも大概にしろ」
「私は先ほどから一度も嘘はついておりません」
「こんなかすり傷程度の傷で治療だァ?」
「それでも傷は傷です。この森の先に私の家がございます。よろしければそちらで──」
「俺を食おうって算段か」

風が吹き抜け男の髪が揺れる。
信じられないのなら、先ほどの鬼のようにすぐに殺してしまえばいいものを。
揺れている瞳は女の方か。男の方か。

「私にはあまり鬼特有の強靭の力がありません。加えて貴方ほどの剣士なら、私を殺すことなど造作もないことでしょう」
「確かに人間の女に見えるほど、テメェはひ弱な鬼みたいだなァ」
「なら何をそんなに怯える必要があります?」
「テメェ……」
「治療が済んだら頚をはねてもらって構いません。約束します」

鬼と約束するだなんて正気の沙汰じゃない。それも鬼殺隊の自分がだ。それでもこの瞳から目を逸らすことが出来ない。
月明かりに照らされたその瞳は、まるで穢れなど一切ないとでもいうように綺麗に輝いていた。

「テメェ以外の鬼がいるかもしれねぇからなァ。敵の本丸を知るいい機会かもしれねェ」

そう言って男は名前の上から身を起こし、突き付けていた刀を引いた。

「鬼は基本群れませんけどね。どうぞ、こちらへ」

未だに彼の殺気は消えることはない。
それでも我が儘を聞いてくれたことに対する感謝を抱きながら、その殺意を背に名前は再び帰路を辿った。





10分程歩いたのち、男が通された家はとてもこじんまりとした質素な家だった。
その一角には確かに医療器具や様々な薬が置かれていたことから、薬師といったことはあながち嘘ではないのかもしれないと思った。

「こちらに座って下さい」

とはいえ、いつ鬼が本性を現すのかも分からない。血気術を使う可能性だって、他の鬼が現れる可能性だってある。
男は刀を握り締めたまま言われた通り、名前の横に座った。

「結構深い傷なのにあまり血が流れていませんね……」

名前の言葉に呼吸を解くと、血がタラリと流れ出した。

「え?今のはどうやって……?」
「うるせェ。さっさと治療しろ」

血が流れたことにより名前が再び酩酊する。
この女、鬼か人間か以前の問題だ。馬鹿すぎて話にならねェ。
男がそう思っていることなど露知らず、どうやって今血を流したのか。あるいは止血をし続けていたのか。
薬師として名前は様々な疑問を抱いていた。
教えてもらったところでもうすぐ死ぬのだから、無意味なのだけれど。

「痛くはないですか?」

返答は聞けないまま名前は黙々と縫合し続けた。最後の一針が終わりパチンと鋏の音が部屋に響く。
それは縫合が終わった音であり、そして名前の命が終わる音でもあった。

「綺麗に縫えたと思うんですが、何かあればちゃんとしたお医者さんに診てもらって下さいね」

不覚にも、そう言って笑う彼女が美しいなどと思ってしまった。

「これで悔いはありません。さぁ約束でしたね。どこからでもどうぞ」

名前が両手を広げ目を瞑る。


こうして死を覚悟し目を瞑っても、走馬灯のようなものは浮かんではこなかった。
名前は人間として生きていた頃の記憶も断片的にしかなく、鬼と成ってしまった瞬間も覚えてはいない。目を開けたその日から鬼としての生が始まっていた。
それでも今日まで誰も食したことはない。
そんな自分は鬼の中でも極めて稀な存在だったらしい。
体を研究材料として提供をする代わりに、薬師としての知恵をつけてくれた女性がいた。彼女には感謝しかない。

思い残すことはない。
誰も手にかけず心は人間として終えることが出来るのなら、今は目の前の彼にも感謝の気持ちでいっぱいだ。

「ムカつく女だぜェ……」

男が呟いたと同時に名前の体は森の中と同様、またも転がされる形となった。
何が起こったのかとそっと目を開ければ、男がこちらをじっと見つめ覆い被さっていた。

「どうして……?一体、何を……」

永遠に相容れない二人が、今宵月明かりの下で出逢ってしまった。
魅せられたのは人間の方か。
それとも鬼の方か。

斬り落とされるはずだった頚に、男の手がかかり力が入る。

生と死の狭間──それは刹那のことだった。
男の唇が重なっていたのである。
皮肉なことに食われたのは鬼である名前の方だった。


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