番外B 桜風


いつか人間に戻れる日がやってきて、思いきり太陽の下を歩けたら。
あの頃の私は独り夜空に浮かぶ月を見上げながら、そんなことばかり思っていた。


「実弥さん。目的地まではあとどのくらいですか?」
「多分もうすぐだァ」

次は桜を見に行こう、と実弥が提案したのが先週のデートの帰り道。そういえば会社でも花見をするとかしないとか話題が上がっていた気がする。今が旬なのだからそれはそれは綺麗なのだろう。そう思いながらこの日をとても楽しみにしていた。
けれど迎えた当日、向かった場所は桜の名所でも大きな公園でもない。それどころか桜の木が全く見当たらない道を、名前はひたすら歩かされていた。

それでも名前は疲れたなんて言葉は絶対に口にしない。例え桜が見られなくても、実弥と一緒にいられるだけで十分幸せを感じられるからだ。
今はもう殺の文字が存在しない背中を見つめながら歩いていると、ピタリのその足取りが止まった。

「ここだァ」

実弥の背中越しから覗いた視界に、一本だけ大きくそびえ立った桜の木が映る。今日はあそこで花見をするのだろうか。

「名前、お前この辺りに覚えはねェか?」
「え、この辺ですか?多分初めて来たと思うんですけど……ここに何かあるんですか?」
「この辺は昔お前が住んでいた家のあたりだァ」

昔の、というのは鬼であった前世の名前を指している。それはすぐに理解出来たけれど、前世の記憶を探ってもこの土地に関するものは何も思い出せなかった。

「お前の家に向かう途中、桜の木が一本だけあっただろ」
「もしかしてそれだけで分かったんですか?」
「いやそういう訳じゃねェが」

元々全ての記憶を持って生まれてきた訳ではないが、名前と再会したことにより、実弥の記憶は全てに等しいほど呼び起こされた。そのうえ縁のある場所や物に携われば、強烈な記憶がなだれ込むらしい。
一方の名前は断片的な記憶しか思い出せていない部分も多く、実弥のような体験はまだ一度もない。

「じゃあこの辺を訪れた時に、よりはっきり思い出したんですか?」
「ああ。多分お前と出逢ったのもこのへんだろうなァ」

あの頃私が住んでいた大きな森の中。今は木々も減り、姿を変えてしまってはいるけれど……。

鬼とそれを狩る隊士。決して許されない恋だった。
とても辛く苦しく悲しい記憶ばかりだけど、実弥は決してあの日々を無下にしたりはしない。それどころかあの頃名前にしてやれなかったことを、この現代で全てやり尽くそうとでもいうくらい、過去も今も慈しんでいるようだった。
名前もまた実弥がこれ以上ないくらい優しい愛情をくれることに、時々泣きたくなるほどの喜びを感じていた。

「行くぞ」
「はい」

実弥が強く名前の手を引く。
こうして隣を歩けるだけで心底嬉しいなんて、普通の恋人には到底分からない気持ちだろう。

辿り着いた桜の木の下で、敷物を広げ二人並んで腰を下ろした。

「で、持ってきたのかァ?」
「一応は……でも期待しないで下さいね?」

実弥に催促されリュックから恐る恐る取り出した物は、朝から必死に作った大量のおはぎ達だ。花見と聞いてせっかくならお弁当でも作ろうかと思っていたら、実弥の方からおはぎを作ってほしいとリクエストされたのだ。

「先に言い訳しておきますけど、和菓子はあまり作る機会がないので正直自信がないです……」
「安心しろォ。お前の作るもんは全部美味い」
「買い被りすぎですよ」

謙遜する名前にどうすれば美味いという感情が伝わるだろうかと、実弥はいつも試行錯誤する。
お世辞じゃなく名前の手料理は格別に美味いと断言出来る。元々食べることが大好きなことと、食品開発部に所属していることも大きく影響しているのか。
名前の手料理を食べたいがために、ほんの少しでも空き時間があればマンションを訪れることもあるくらいだ。いや、名前に会いたいがために、と言う方が正しいか。

「美味い」
「本当ですかぁ!?」

この日のために何度も練習した甲斐があったと、名前はほっと胸を撫で下ろす。
そして作りすぎたかななんて思っていたおはぎは、次々と実弥の中へと放り込まれていった。

「実弥さん、本当におはぎが好きなんですね」

ふわりと笑う名前の目の前に、桜の花びらが舞い落ちる。

「……綺麗ですね」
「ああ」
「風もとっても気持ちが良いです」

名前の細い髪の毛が風に揺れてサラサラとなびいている。
俺にとってみれば桜なんかより、よっぽどお前の方が綺麗だと思う。なんて思ってはいても、実弥はそれを口に出来るほど器用な男ではなかった。
鬼として生きていた頃から思っていたことだが、名前は美人だ。それでいて気品と教養をちゃんと兼ね備えている。
鬼であったがために他人と深く関わることが一切なかった頃は、実弥自身も余計な気を回す必要はなかった。が、この現世ではそうもいかない。

「……お前、会社で言い寄られたりしてねぇだろうなァ?」
「言い寄られるって何をですか?」

さらりと髪を掬い問いかければ、とぼけた顔で返された。男に免疫がなさすぎるのも困りものだと時々思う。

「好きだ何だ言われたりしてねェかってことだ」 
「私がですか?ないですないです」
「……ならいいが」
「それに最近は彼氏がいるのでごめんなさいって言えるようになりましたので。えへへ」
「あ?いつどこでそんな台詞言ってやがんだァ?」
「だ、駄目でした?ご飯に誘われた時とかに使ってたんですけど……」
「テメェ、十分言い寄られてんじゃねぇか……」

実弥の眉間に思いきり皺が寄るのを見て、名前が慌てふためく。今ので実弥が怒ったことは、さすがの名前でも理解はしている。けれど実弥以外恋愛経験のない名前には、何に不機嫌になったのかまでは理解出来ていないのだ。

「来い。名前」

ちょいちょいと軽く手招きをされ、思わず後ずさってしまった。

「な、何の罰でしょう」
「違ェよ。ご褒美だァ」
「ご褒美?」

ご褒美という言葉に今度は実弥の近くにちょこんと座る。

「本当にご褒美ですか?」
「ああ。おはぎのな」

そう言って実弥は名前の後頭部をグイっと掴み、自身の唇へと誘った。

「……っん」

一度唇を離し角度を変え、今度はより深く口内を蹂躙していく。歯列をなぞり上顎を舐めれば、名前の口からは甘い吐息が漏れ始めた。
本来の花見をしていたら、大勢の人の中こんな事が出来るはずはない。
ここには実弥と名前しかいないから。二人の思い出の場所だからこそこうして──。

「名前……?」

ふと実弥のキスが止まってしまった。
名前の目から涙が零れていたからだ。

「これは違うんです……っ。嫌とかそういうんじゃなくて……」

優しく拭ってやるもその涙が次々溢れてくる。

「嬉しいはずなのに……」
「ああ……分かってる」

ずっとこんな風に太陽の下で生きたかった。
愛する人の隣で笑って過ごす普通の生活。
たったそれだけのことがあまりにも幸せなのだと、その涙が語っていた。
泣いている姿に鬼であった名前が重なる。
でもここには夜空も月もない。柔らかな日差しの中、笑顔を見せてくれるのは今この現世に存在する名前だけだ。

涙を伝う頬を撫でるように風が吹き抜ける。
とても心地が良くて、まるで泣いている自分を慰めてくれているみたいだ。

この強く優しい風を私は知っている。そう、ずっとずっと昔から──。

「……実弥さん、好き」

だからこの幸せな桜色の景色の中、一番溢れて止まらない言葉を伝えた。

「なぁ、桜を見に来たばかりだが帰りたいと言ったら怒るか?」
「……どうしたんですか?」
「お前を慰めたい」
「慰め……なら今して頂いてますよ?」

そうだった。鈍感な名前にはストレートに言わないと伝わらない。

「そうじゃねェ。お前を抱きたいって意味だァ」
「だっ……!」
「駄目か?」

赤く染まる名前の前に桜が舞う。

「いえ……私も実弥さんとそういうこと……したい、です……」

そして互いの想いが降り積もっていく。

「お前……他所でぜってェそういう顔すんじゃねェぞ」

このあと溢れ出る独占欲を受け止めたのは、実弥のマンションでのことだった。





一夜明け、実弥がゆっくりと瞼を開ければ、腕の中にいたはずの最愛の彼女の温もりが消えていた。
どれだけ抱き潰しても、名前は大抵自分より先に起きている。あんな細い体のどこにそんな体力があるのか。
そんなことを考えながら寝室からリビングへ向かえば

「おはようございます。実弥さん」

愛しい笑顔が実弥を迎えた。

「よく眠れましたか?」
「ああ」
「朝ご飯出来てますよ」

一人の時は味気ない朝食ばかりだが、名前がいる朝は違う。軽く作ると言っては、ささっと四、五品出てくるところなんか感心するばかりだ。

「今、お味噌汁温め直しますね」

名前がキッチンへと消えていく。その背を追い後ろから見つめていると、何とも言えない気持ちが広がった。
こんな時、名前が幸せだと言って涙を流す理由がよく分かる。

俺も同じように幸せを感じるからだ。

「名前」
「はい」

だからこそもう二度と手放したりはしない。

「結婚するかァ」

後ろから覆い被さり耳元で囁けば、見事なまでに名前はフリーズした。

「おい、味噌汁。吹きこぼれるぞ」
「え、あ……!あ!」

慌てて火を止め落ち着いたところで名前の顔を覗き込めば、昨日と同じく頬には涙が伝っていた。

「それは嬉し涙でいいのか?」
「もちろんです……」

幾度生まれ変わっても、必ずお前を見つけ出して捕まえてやる。今みたいな平和な世界だろうと、どんなに残酷な世界であろうと、俺達の運命が変わることはない。

永遠に逃げて追って捕まえて、そうして鬼遊びをし続ける。


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