最終話 光風霽月


実弥さんへ

貴方がこの手紙を手に取るかどうかは分からないけれど、どうか貴方への想いを綴らせて下さい。
実弥さん、私は貴方と出逢えて本当に幸せでした。
もしも私達の出逢いが運命だというのならば……私はもう一度貴方と巡り合うことを願いながら、生かされたこの命を全うしたいと思います。
どうか実弥さんの未来が幸多き日々でありますように。

愛しています。

追記
鬼舞辻無惨を倒せば全ての鬼は消える、という説を一度だけ聞いたことがあります。
もしもそれが本当ならば、私の命は実弥さんの手に委ねたままにしておいて下さい。





今宵のようなまん丸い月を眺めるたび、実弥と出逢ったあの日を思い出す。
あの家を後にする際置いてきた彼宛の手紙。きっと彼が再びあの家を訪れ手にすることなどないだろうに。

「春子さん。どうなさいましたか?」

背後からそう呼ばれ名前が振り返る。

「いえ、あまりにも月が綺麗だったものですから見惚れていただけです」
「なるほど。そういえば春子さんは月がお好きだとおっしゃってましたね」
「ええ。月を見ると少々思い出すことがありまして……」

平然と嘘を並べながら名前は目の前の男に笑顔を向けた。

実弥と別れた日以降、名前は拠点を変え再び一から薬師として生き続けていた。
もちろん鬼である正体は隠し、いつも通り偽名を使ってではあるが、新しい拠点での暮らしも板についてきたところだ。

「さぁ春子さん、夕食にしましょう」
「はい。ありがとうございます」

そして彼もまた薬師としての自分を全面的に支援してくれる富豪であった。
ただ西條達とは違って彼はとても大人で紳士的であり、名前に対し多くを求めることはなかった。もちろん性的な要求も含めてだ。
そのうえ彼は金銭の引き換えなく輸血にも協力的で、今自分が生きていくうえで最も大切な人であることは間違いない。

「お味はどうですか?」
「とても美味しいです。私にはもったいないくらい」
「春子さんは本当に謙虚な人ですね」
「いいえ、そんな」
「むしろ謙虚すぎるくらいです。薬師としての活動だってあんなに素晴らしいのに、夜に細々と活動する程度なんてもったいなさすぎますよ」
「私……本当に謙虚なんかじゃないんですよ」

彼の言う通り表立って活動出来ないのは私が鬼だから──などと口に出せるはずもない。
歯に舌を這わせる。けれどそこに牙の感触は一切ない。実弥と離れた影響なのか、以前のように鬼化が進んだり人間を食らいたい衝動に駆られるようなことは、名前の中から一切無くなっていた。

「あの……その、春子さんはこの先結婚については考えたりしていないんですか……?」

名前の箸が一瞬だけ止まる。
彼からの時々垣間見える好意に気づいてなかった訳じゃない。分かっていてずっとはぐらかしていた。

「ええ。全く」
「それは今のところは、という意味ですか?」
「いいえ、違います。今までもこれからも、という意味ですよ」
「失礼でなければその理由をお聞きしてもよろしいですか……?」

多分これからも私は嘘をつき続けて生きていくだろう。こうして必要のない食事を呑み込み、思ってもいない言葉を吐き続けていく。それは鬼であることを悟られず、人間として生きていくための術だからだ。
でもたった一つだけ、この気持ちにだけは嘘をつかずに生きていきたい。

「大切な人がいるんです……生涯その人しか愛さないと決めた、たった一人の人が」

実弥さんを想うこの気持ちだけは譲れない。

「参ったな……貴方にそんな表情をさせる方がいるんですね」
「そんな表情?」
「ええ。恋をしている女性の、とても可愛らしい表情ですよ」

思わず動揺して俯く名前に、男は楽しそうに笑ってみせた。

「はっきり言ってもらえて何だかすっきりしました」
「あの……私」
「ああ、ご心配なさらずに。これは僕の勝手な想いですので。ご迷惑でなければこれからも引き続き支援はさせて下さい」

彼のような人と一緒になれる女性は、さぞかし幸せになれるだろうと思う。ただその幸せは名前が望む幸せではない。
零れ落ちた幸せを思い出して、名前の胸は強く締め付けられた。


食事を終え彼の館を後にした名前は、その足でとある場所へと向かった。今から迎えば朝までに間に合わないかもしれないと思い、必死に息を切らして走り続ける。
少しずつ近づく景色に、名前の胸は大きな音を立て始めていた。

「……懐かしい」

木々がそびえ立つそこへ足を踏み入れれば、名前を取り巻く空気が一変していく。
ここは思い出の森。そう、実弥と出逢った大切な場所だ。そして今まさに名前が向かった先は以前自分が住んでいた家であった。
あの日読まれるはずのない手紙はどうなったのか。
本当はどこかでずっと気になっていた。だけど改めて、実弥が自分の元から去っていったという真実を突きつけられるのが怖かった。

名前が恐る恐る足を踏み入れる。
ちらりと視線を向けたのは最後に手紙を置いた場所。

「え…………これ……」

目を疑った。
そこにはあるはずだった実弥に宛てた手紙は無く、代わりに何度か見かけたことがある巾着袋が一つ置いてあった。名前の記憶が正しければ、その袋は実弥が薬代としてお金を入れてたものに間違いない。
つまりこれは実弥が置いていったもので、無くなった手紙は実弥が手にしたという解釈になる。もちろん都合の良い解釈かもしれない。でも名前にはそれで十分だった。

「実弥さん……っ」

もう二度と会えなくなっても、ここに来れば実弥さんと繋がっていることを感じられる。
それだけで私は独りでも生きていける。
寂しがるな。欲しがるな。突き放し生かしてくれた優しさを踏みにじるな。
精一杯実弥さんから逃げて、生きて、そしてもう一度巡り会うためにいつか訪れる死を迎えいれよう。


『無惨に存在を把握されていない。その名を口にすることも出来る。けれど呪いは完全には解けてはいない……何とも不思議な状態ですね』
『珠世さんでも分からないのですね。やはり鬼化が進行していないことが原因でしょうか?』
『多分それが一番の要因だとは思います。それから一つだけ貴方にお伝えしたいことが』
『何でしょう……?』
『無惨を倒せば全てが終わる、というのは全ての鬼がという意味です』
『それじゃあつまり私も……』
『引き続き呪いを外す方法を私も探してみます』


今にして思えば方法が見つからなくて良かったと思っている。
私は実弥さんが鬼舞辻無惨を倒してくれることを信じて待っていればいいのだから。





それから名前の手紙と実弥の薬代のやりとりは何度か続けられたものの、ある日を境にパタリと止まってしまう。そして最後に実弥が名前の家を訪れたのは、無惨を倒し全ての戦いを終えた後のことだった。
ここに来ると必ずいるはずのない名前の気配を探してしまう。
怯えた瞳を向けていた姿。殺してほしいと懇願していた泣き顔。何気ない仕草も笑顔も全て焼き付いているのに、あの気高く美しい鬼はもうどこにもいない。
残されていたのは一通の手紙のみだった。
実弥はそれを手に取りゆっくりと文字を追う。


お疲れ様です。ありがとう。


書かれていたのはたったそれだけだった。
もしもあのまま逢瀬を続けていたら、名前は一体どんな運命を辿っていただろうか。
ただ今は数えきれないほどの苦しみから解放され、彼女がこの空の上で笑顔でいることを祈る。

「安心しろ。俺ももうすぐそっちへ行くからよォ」

必ずもう一度お前を捕まえてみせる。
今度は太陽の下できっと──。

そう願いながら、実弥は手紙を握りしめた。





──そうして時は流れ現代。


「おはよう名前」
「おはよー!」
「なに?何か今日はやけに気合入ってない?」
「うん。今日は大事な企画会議があるから」

信号待ちをしている間、名前はトートバッグから一冊のファイルを取り出し同僚に広げて見せた。
数年前大学を卒業した名前は無事第一希望の会社に就職し、今日まで社会人として忙しい日々を送っている。それはとても充実した毎日であり平和な日々だ。
そんな名前の毎日が変わったのは、今日という日の出来事が全てだった。

「ひったくりーー!誰かっ、誰か捕まえて!」

背後から女性の大声がしたと思ったら、急にひったくり犯が名前と同僚に思い切りぶつかりながら、二人の間を物凄い勢いで駆け抜けていった。その拍子で名前の体は倒れ込み、バッグとファイルが無造作に地面へと散らばっていく。

「いったぁ……!お願い……っ、ちょっとこれ見てて!」
「え!?名前!?ちょっと……!」

昔から困っている人がいると見逃せない性分のせいか、気がつけば体が勝手に犯人を追って走り出していた。

「誰かそのひったくりを捕まえて下さい!誰かーーー!」

大声を出し全力で追いかける。
とはいえ向こうは男のうえにこっちはハイヒールだ。
徐々に遠ざかっていく犯人の背中に歯を食いしばったその時だった。

「ぐはぁっ!」

突如目の前に現れた男によって、ひったくり犯が地面へと倒れ込んでしまった。
何が起きたのか分からないまま現場へ駆け寄ると、そこには鼻から流血して気絶している犯人と、その犯人を仕留めたであろう男が立っていた。

「先輩……もしかして気絶させちゃいました?」

その男の後ろからもう一人の男が現れる。

「手加減したつもりだったがまともに入っちまった」
「本当に手加減しました……?」
「うるせぇ。テメェはさっさと署に連絡してこい」
「了解しました」
「ったく……非番なのによ」

署?非番?もしかしてこの人達、警察の人?

「被害者はテメェか?」

急に犯人を捕まえた男性と目が合い、名前の体がビクリと跳ね上がる。

「あ、いえ……!被害者は私じゃなく別の女性です」
「あぁ?じゃあ何だ。テメェは代わりにひったくり犯を捕まえるために走っていたのか」
「でも結局何にも出来なかったですけど……」

男の目線が足元へと向けられる。

「血が出てるのか?」
「あ……さっき転んだ時の……」
「これを使え」

そう言って差し出されたハンカチを掴もうとした瞬間、名前の中に一瞬覚えのない記憶が流れ込んでくるのを感じた。

どうしてだろう。鼓動が大きく高鳴っている。
これは一体何の記憶?誰の記憶?
彼は一体──。

「あの、前にも一度……ううん、二度……?」
「どうした」
「私達、どこかでお会いしたことありました……?」
「何だ。朝からナンパか?」
「ち、違いますよ……!そうじゃなくて、その。あぁ、でも違わなくもないのかも……」

この気持ちを上手く言葉に出来ない。
でも今はこのまま貴方を逃したくはない。だから。


「一目惚れって信じますか……?」


とんでもないことを口にしたと思う。でも本能が細胞が彼を離すなと言っている。

「……信じるに決まってんだろ」

ポソリと呟いた言葉は名前には届かなかった。

「出来れば参考人として署まで同行願いたい」
「あ、はい。それはぜひ協力させて下さい。でもその前に会社に連絡しないと」
「おい。携帯を出したついでだ。番号を教えろ」
「どなたのですか?」
「テメェ以外に誰がいる」
「え、だってそんな私のなんて」
「あ?俺に一目惚れしたんじゃねぇのかよ」


意地悪そうに彼が笑う。
永遠に終わることはない私達の鬼遊び。
願っていた太陽の下で、今度は私が貴方を捕まえてみせる。


FIN


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