第11話 もう一度あの殺意を 時間が出来たらまた来る。 実弥がそう言った日から一ヶ月の月日が流れた。 会えない日々も名前は実弥の言う通り、外へ出ることは極力控えていた。 実弥がここへ来ない理由が、鬼殺隊の任務のせいなのかどうかは分からない。ただその間一度だけ薬代と、どこかで採血したであろう血液だけ置かれていたことがあった。 覚えているのは最後に会った日の実弥の後ろ姿。一度も振り返らずに去っていった彼の様子が、どこかおかしいのには気づいていた。 「もしかして避けられてるのかな……」 もて遊ばれて終わっただけだとしても不思議じゃない。何せ自分は鬼なのだから。 それも鬼殺隊の彼となんて──。 『鬼殺隊の…………人間……、ね……』 何、これ。 誰の声……? 鬼殺隊という言葉と共に頭の中に記憶が流れ込む。 その反動なのか名前は頭が割れそうなくらい強い頭痛に襲われた。 『意識が朦朧としていますね』 『わ、たし……』 『もう大丈夫ですよ。愈史郎、血の用意を』 愈史郎くんの名前を呼んだということは、この声の持ち主は珠世さんだ。これは鬼になり行き倒れていた私を、珠世さん達が救ってくれた時の記憶……? 『これを……お返ししたい人が……』 『この手ぬぐいをですか?どなたに?』 『刀、で……鬼を斬って、助けてくれたんです……』 『……それは』 『死ぬ前に……その、人に…………会いたい──』 そして私はゆっくり目を閉じた。 『……気を失ってしまいましたね』 『珠世様、こいつは希少な鬼のようです。今のうちに研究用の血を採っておきましょう』 『待ちなさい。それはちゃんと彼女の許可をとってからじゃないと』 でもこの時私には僅かな意識が残っていた。だから耳に残っていた珠世さんと愈史郎くんの会話が、こうして記憶として蘇ってくる。 『これの持ち主は鬼殺隊の隊士かしら……。きっと人間だった頃に出逢った人なのでしょうね』 『鬼殺隊と鬼だなんて不毛だ。次にもう一度出逢った時には殺し合いになる可能性だって……』 『……そうね』 『珠世様、一体何を』 『ちょっと暗示をかけるだけです。彼女が鬼として生きていけるように。そうですね……百年くらいがいいですかね』 それが記憶している最後の言葉。そこからはプツリと意識が途切れ、次に自分が目を覚ますまでには数日を要したと聞かされた。 「珠世さんの、暗示……だった?」 鬼になって百年近く生きてきたのだと思っていた。人間の頃の記憶は全く覚えていなかった。それら全ては暗示のせいだったとでもいうのだろうか。 でも確証はない。それすらも記憶違いかもしれない。ならば──。 「……珠世さんに確認しに行こう」 ◇ 一人、暗い森の中を歩く。 空に昇る月を見上げながら、実弥と初めて出逢った日もこんな月だったことを思い出す。 欲張りになってもいいのなら彼と共に生きたい。そのために自分が何者なのかを知りたい。 一心不乱に歩いていたその時だった。 「ぐああああ!」 森の中から男が絶叫する声が聞こえ、名前は一度足を止める。このまま息を潜めじっとしていれば良かったのかもしれない。 けれど名前の体は本能的に、声がした方へと向かっていた。誰かを助けたいとか正義感からそうした訳じゃない。 一瞬だけ自分と同じ気配──鬼の存在を感じたからだった。 茂みの中を走り抜け辿り着いた先には、見るからに異形な鬼と、うずくまりながらも刀を構える一人の男が対峙していた。 あの隊服……刀は──。 「鬼殺隊……!」 鬼の大きな腕が負傷した男に振りかかる。 無意識だった。その一瞬の間に名前の体は男を助けるために走り出していた。 「……ぐっ!」 間一髪のところで男を抱えながら地面を転がり、鬼の攻撃を免れる。 「はぁはぁ……た、助かりました……っ!」 「いえ。お気になさらずに」 「貴方は、一体……?」 「……私は──」 不敵な笑みを浮かべる鬼と目が合った。 互いが同族だと感じる瞬間。 「お前……鬼だな。何故鬼が人間を庇った?」 「え……っ鬼!?鬼が何で俺を……!」 そうだ。私は鬼だ。 目の前にいるこの醜い鬼と何も変わりはない。その真実から逃れることなんて出来ない。 「私が奴を引きつけますので、貴方は隙を狙って頚をはねて下さい」 「でも……っ、あんた……!」 「お願いします」 無謀なことは分かっていた。でも愛する人の仲間を放っておくことも出来なかった。 名前が鬼に向かって走り出す。振り下ろされる大きな腕を避け、鬼の顔面に蹴りを入れるもビクともしない。それどころか空いていたもう片方の手が振り下ろされ、まともにくらった名前の体が吹っ飛んでいった。 「あまりにも弱すぎるな。お前……本当に鬼か?」 鬼じゃなかったらどれだけ良かっただろうか。地面に血を吐き少しずつ再生していく傷を見ながら苦笑する。 このままじゃ到底こいつには敵わない。あの隊士が味方してくれるかも分からない。でもやるしかない。 だからもう一度歯を強く食いしばり、名前は全力で鬼へと向かっていった。 「はあああっ!」 「真正面から来るとは愚かだな」 「ぐっ!あああ!」 「どうした俺の腕を抑えるだけで精一杯のようだが」 「っ、だとしても、貴方を倒すのには十分……!」 「そこで震えてるだけの男に頚を狩れるとでも?」 「出来る……!だって彼は……鬼殺隊は、鬼を狩るための剣士なのだから……!」 「はっ。お前先ほどから人間のような口ぶりをしているが、よもやお前も狩られる対象だということを忘れたわけではあるまいな?」 「っ、もちろん。でも、私を狩っていいのは彼じゃない……!」 ──私を殺す剣士は実弥さん唯一人。 「……奇妙な鬼だな。だがいい目をしている」 目の前の鬼がニタリと笑った瞬間、名前の背筋に悪寒が走った。 この鬼にとって今の今まで名前と戦っていたのはお遊びのようなものだったと、気付いた時にはもう遅かった。目にも止まらぬ早さで伸びてきた鬼の腕は、全く動くことが出来なかった名前の腹部を思い切り貫いていた。 「がっ……は、っあ」 「心配するな。剣士なんかに貴様は殺させない」 「くっ、……は」 「責任持って俺が食ってやろう」 ぐちゅりと腕を引き抜かれ名前が膝から崩れ落ちる。 顔を上げると正に自分に目がけて腕が振り下ろされようとしている瞬間だった。その光景は驚く程ゆっくりと一秒一秒刻まれるように流れ、その時の中で名前が絶対的な死を確信する刹那だった。 「──ない」 ポソリと名前が呟いたコンマ何秒の世界。 名前を確実に仕留めようと伸ばされた腕は、それを上回る早さで繰り出された名前の蹴りによって千切れ飛んでいったのだ。 「ぐ、ああああああ!」 肩で呼吸を繰り返す名前の目の前で鬼が絶叫する。 「はぁ……はぁ……」 「てめえ……っ!今何しやがったぁ!?」 名前が鬼をじっと見つめる。その目は深い紅色に光りながらもとても冷たい目をしていた。 「……まだ死ねない」 「くそっ……腕が、ぐあ!」 「まだ……死にたくない」 その言葉の後に歯列を舌でなぞれば、二度とは感じたくなかった感触がそこにはあった。それが鬼の牙だと分かった時には名前の頬に涙が伝っていた。 死にたくない。 ずっと実弥さんと生きていきたい。 でもそれはきっと叶わない。 彼が側にいてくれると人間らしくなれるけれど、彼が側にいるからこそ鬼と化してしまう。 人間にも鬼にもなれないと嘆いていた私は、彼との出逢いで皮肉にも人間にも鬼にも成ってしまったのだ。 「お前……っ、傷が」 指摘された通り貫かれた腹部に目をやれば、傷は跡形もなく無くなり元通りに再生されていた。それはまた前回鬼化した時よりも、格段に再生速度が上がっていることを物語っていた。 「これ以上は時間がない……」 再び名前が真正面から鬼に向かっていく。その速度は先ほどとは比べ物にならないほどの速さだった。 気が付けば今度はその速度に全く反応出来なかった鬼が、名前の腕で腹部を貫かれていたのだった。更に名前の蹴りが側頭部に思い切り入り、鬼の体が地面へと叩きつけられる。 「がああっ!」 「早く!刀を構えて!」 「え……っ!え!?」 「貴方が斬るのよ!この鬼を……!」 転がった鬼を持ち上げ名前は全力で隊士の方向へと鬼を蹴り上げた。なす術のない鬼が宙を舞う。そして鬼が地面に落ちる直前、男の振るった刀が見事に頚を斬り落としたのだった。 「や、った……やった!鬼を倒したぞ!」 「はぁ、はぁ……良かった……」 「ありがとう……!これも全部あんたのおかげ……」 「っ、来ないで」 鬼を倒した反動なのかは分からない。でも今独り占め出来るという感情が湧いたのは確実だ。独り占めというのが何を指しているのかなんて考えなくてもすぐ分かる。 そんなの人間である彼しかいない。 「お願いだから来ないで……!」 「え……な、なぜ?」 「早く離れて!じゃないと──」 ──食べたい。 欲望が名前の全身を一気に駆け巡る。 「うああああ!」 男が大声を上げたのは、名前が涎を垂らし牙を剥き出しにして襲いかかってきたからだ。 「何で!こんな……!」 「う”ううう”!」 「俺を食うために騙したのか!」 違う。貴方を救いたかった。 男の頬にポタポタと大粒の涙が落ちていく。泣きながら牙を向ける名前の姿に、男の気が緩んだその一瞬だった。 正に今名前が食いかかろうとした瞬間、男の目の前から名前の姿が大きな衝撃と共に消えたのだ。 男が体を起こし名前が転がっていった方向を見つめる。どうやってあそこまで飛んでいったのか、その理由は一人の男の正体ですぐにはっきりとした。 「風柱様……!」 そこには表情一つ変えずに佇む実弥の姿があった。 「おい……一体どういう状況だァ?」 「さ、最初は違う鬼と戦っていたんです……!そこへこいつが現れて鬼を倒したと思ったら今まさに俺を食おうとして……っ!こいつは俺を騙したんです!」 「ちっ……そういうことかよォ」 「風柱様!俺も一緒に……!」 「いい。こいつは俺が始末する。テメェは先に戻ってろォ」 有無を言わせない実弥の圧に男の体から冷や汗が噴き出す。ここにいることすら許されないような空気を察し、男は一目散にその場から去って行った。 その後ろ姿が見えなくなるのを確認した後、実弥はすぐさま名前へと近づき体を抱き上げた。 「ふっ……う、うう」 「名前」 「人間を……っ、ぐ、あ……違うっ……ダメ」 「名前。しっかりしろ」 「はっ……、はぁ……さ、ねみ……さん」 男に跨って貪り食らおうとしていた名前を見つけた時、一瞬で頭の中が真っ白になり気がつけば名前を蹴り飛ばしていた。その時に様子に比べたら幾分か落ち着いたように見える。 「今、血をやる」 そうすれば名前の鬼化を止めることが出来る。そう思っていた実弥の腕を、名前は震える手でそっと握って阻止した。 「……いらない、です」 「あ?そんなこと言ってる場合じゃねぇだろ。さっさと飲んで──」 「もう……十分です。これ以上は、もう……っ」 名前がゆっくりと口角を上げ笑顔を見せる。 その笑顔が何を訴えているのか察した自分を全否定したい。それを言葉にしようとする名前の口を今すぐ塞いでしまいたい。 けれど実弥の体は心とは裏腹に微動だにしなかった。 「実弥さん……ふりだしに戻りましょう。鬼である私と、鬼殺隊である貴方が出逢ったあの頃に……」 違う名前。それは違う。 「私は貴方から十分すぎるくらい幸せを頂きました……。だからもう十分です」 俺は与えたんじゃない。お前から幸せを奪ったんだ。 「私を殺して下さい……」 名前の目から一筋の涙が流れていく。 どうすれば名前を救ってやることが出来るのだろうか。この願いを叶えたら名前は解放されるのだろうか。何度考えたって答えは見つからない。 ただ一つだけ実弥が分かっていることと言えば、自分と出逢ったことで名前にこれだけの変化をもたらしてしまったということだ。 今までずっと独りでひっそりと暮らしていたのだろう。良くも悪くも起伏がない日々は、決して名前を鬼化させるようなことはなかったのだと思う。 正の感情が大きくなればなるほど、その分負の感情も大きくなって現れる。 名前をより人間らしくさせるのも、より鬼と化せるのも、自分だということに本当は実弥自身も気づいていた。 「実弥さん……お願い、私を殺して……っ!」 「……名前」 「私は鬼……っ、だから!」 悲痛な声を上げる名前を実弥は強く抱きしめた。 「うう、う……っ、鬼になんてなりたくなかった……っ」 でも鬼だったから実弥に見つけてもらえた。 本当はあの時殺すだった自分を生かしてくれた。それどころかこんな自分を好いてくれた。 それだけで十分なのに涙が溢れて止まらない。 「名前……泣くな」 もうこれ以上一緒にはいられない。互いを想うからこそ。だから──。 「望み通り俺がテメェを殺してやる」 その目には殺意などは一切なく、ただただ不器用な優しさと深い悲しみだけが映し出されていた。 ←back next→ |