最終話 空と星と雨と、永遠。


季節は過ぎ、桜も散りかけた頃。

「やばい……本当の本当に何も出てこない……もう昴はこれでおしまいだ……」

相変わらず私は音楽家として、多忙な毎日を過ごしていた。どれくらいかというと、こうして追い詰められるほどにだ。
頭を抱え床に倒れ込んでは唸る日々。いつの間にかこの作業部屋も、辺り一面ピザの空箱だらけになっていた。思い返せばこのところ、ピザ以外の物を口にした記憶がない。

『名前ちゃん、作業の進み具合はどう?ちゃんと食べてる?』

青山さんからの電話に、順調だしちゃんと食べてると嘘をついたのは数日前のこと。この惨状を見たら間違いなく説教されるだろう。いつも以上に口うるさくなる青山さんを容易に想像出来るからこそ、しばらくここへは呼べない。それどころか説教を通りこして過保護がさらに悪化したら……。
そんなことを考えていると、握りしめていた携帯が音を立てる。そしてディスプレイに表示された名前を見て、一気に悪寒が走った。

「げ、本当に青山さんから来た……!」

噂をすれば何とやら。絶対に出るものかと床に伏したまま、着信音が鳴り止むのを待つこと数十秒。

「ふぅ……諦めてくれた」

と思ったのもつかの間。追い打ちをかけるように何度も着信音が鳴り響く。
分かった。分かりました。観念して出ますよ。

「はい、お疲れ様です」
『名前ちゃん、良かった……!電話に出ないから心配したよ!』
「すみません、作業中だったもので……」
『ご飯は?』
「食べてますよ。ちゃんとピザ以外」

よくもまぁこうスラスラ嘘がつけるものだ。自分でも感心する。

『名前ちゃん。嘘だよね?』

それを毎度ご丁寧に見抜く名探偵青山にもね……。

「いいんですよ!ピザが一番捗るから」
『だから毎回言ってるけど、ちゃんと栄養バランスが……!』
「大丈夫です!もうすぐ出来ますから、とっておきの宅配ピザ3が!それでは」
『あ、名前ちゃん!待っ──』

心配してくれる気持ちはもちろん有難いし、自分でも相当不健康な生活をしてる自覚はある。それでもこうも曲が浮かばず追い詰められると、人間というものは──。

プルルルル。

だからそう。人間というものはこうやって追い詰められると……。

プルルルル。

あーもう青山さんってば……!

「だからピザ食べますから!いいんですピザで!今日はマルゲリータLサイズ2枚です!」
『…………は?』

電話越しに聞こえる一音が、確実に青山さんのものではないことはすぐに分かった。それどころか相手が誰なのかなど私にとって愚問でしかない。

『何だか前にもこういうやりとりをした気がするんだけど、もう一回同じことを言えばいい?』

たった一音でも分かってしまうに決まってる。

『ボクはピザ屋じゃないんだけど』

からかうように笑いながら、天くんが言った。

「す、すみません……!青山さんだと思ってしまって……」
『そんなことだろうと思った』
「本当に失礼しました……!」
『いいよ。謝らないで。それに初めて電話した日を思い出せて楽しかったし』

もう随分前の事のように感じる。天くんが初めて電話をかけてきてくれて、TRIGGERのコンサートに招待してくれた日。
あの頃はまさか天くんとこういう関係になるだなんて、微塵も思ってなかった。そんな余韻に浸りながら、改めて天くんに用事を伺う。

「それで、今日はどうなさったんですか?」
『急遽予定してた仕事が変更になって、一日オフになったんだ』
「珍しい。では今日はとても貴重なオフですね」
『そう思ってキミに会いに来たんだけど』

キミに会いに……?とは。それはつまり。

「あの……天くんは、今どこにいらっしゃるんですか……?」
『キミのマンションの下』

散らかるだけ散らかった作業部屋のど真ん中に立ち尽くしながら、一瞬にして血の気が引いていく。この惨状を天くんに見せる訳にはいかない。いや、ここには入ってもらわずリビングにいれば……!って、ダメだ。次来た時に新しい機材を見たいって話をして……。

「ご、5分……!5分だけ時間を下さい!」
『え?』
「今からこの箱だけでも……あ、きゃあああ!」
『名前!?』

片付けようとしたピザの空箱に足を引っ掛け、盛大に転んで箱に埋もれる。結局私は全てを諦め、天くんを部屋へと招き入れることにした。





「本当にこうやって箱に埋もれてたんだ」
「面目ないです……」

終わった。この有り様だけは見せまいと思ってたのに。さすがにこれには天くんも引いただろう。辺りを見渡す天くんの後ろで深い溜め息と共に項垂れる。
名前、と声をかけられた気がしたけど、上手く顔を上げられない。すると天くんの指先がゆっくりと頬に触れた。

「名前。どうかした?」
「いや、さすがの天くんも呆れちゃうだろうなって……」
「どうして?」
「こんなピザしか食べない、健康管理もなってない人間……そのうえ日も浴びず引きこもってばかりで、ろくに片付けもせず、それどころか山積みの箱に埋もれて……いくらなんでもひどすぎて、恐ろしいほどの自己嫌悪が今私を襲ってまして……」

恐る恐る顔を上げちらりと天くんを見上げれば、天くんの口角が上がった気がした。

「ボクはそういうキミが好きなんだけど」

顎を掴まれ近距離でハッキリとそう言われた。一気に顔が熱くなり、反射的にフイっと顔を背けてしまう。

「またそうやって……甘やかさないで下さい。これ以上私が人として駄目になったらどうして──っ」

背けたはずなのに、すぐさま天くんの顔が視界に戻る。向かい合うのは不服そうな顔をした天くんと、両頬を引っ張られ間抜けな顔をした私。

「ふぇ、ふぇんくん……?」
「キミには部屋の掃除なんかより、まずはちゃんとベッドで寝てほしいんだけど」
「寝てまひゅよ……?」
「目の下のくまでバレバレだよ。まさかまたここの床で倒れ込んで寝てるんじゃ……」
「ひょれは本当に、たまにあるくらいで……」

溜め息をつきながら、天くんの指が頬から離れていく。

「キミは甘やかされすぎなくらいがちょうどいいよ。誰よりも激務なんだから、もっと自分を大事にしてくれないと」

天くんの気遣いにほっと胸を撫で下ろしながらも、今後は食事や掃除を少しは気にかけた方がいいのだろうとも思った。
とはいえ没頭し始めたらどうしても自分を止められない。その術があるのだとしたら知りたいくらい。ほらまたすぐにこうやって音楽が──。

「名前」
「……はいっ!」

不意に名前を呼ばれ意識を戻される。

「どうせ甘やかすなら、今ここで甘やかそうか」
「え?」
「そうしないと名前はすぐに、ボクじゃなくて音楽のことばかり考えてしまうから」

ジリジリと追い詰められ、天くんの手が再び顎を掴む。今度は逃れられない。もとより拒む理由もありはしない。会えなかった分、私だって天くんに触れたいから。

「……っ、ん」

優しく唇を塞がれ全身に熱が走る。ほんの少しだけ口を開くと、そこから天くんの舌がゆっくりと侵入してきた。

「てん、くん……っ、ぁ」

歯列をなぞり口内に舌が這う。それを追いかけ絡め取ると、私の口端からは混じり合った蜜が零れた。
甘く深いキスに体がビクビクと震え、立ってることすらままならなくなった私は、何も考えず後方に身を委ね伸ばした手をついてみせた。

ジャーーーーン!

「わぁっ!」

寄りかかった先がピアノの鍵盤だとも知らず。
大きな音と共に私の体は飛び上がり、いつの間にか天くんを押し返す形になっていた。

「ご、ごめんなさい……!」
「いいよ。それよりも」

続きをと言わんばかりに、天くんに再び唇を塞がれる。もしかしたらこのままここで、なんて考えが頭をよぎるも、それはすぐに打ち消されてしまう。

こんな甘い気持ちのまま、ピアノに触れてしまったせいだ。ほら、鳴り始めてしまった。でも今は天くんに集中しないと……駄目なのに……何で私はいつもこうなの──!?

「あの!ちょっとだけ、待ってもらえませんか……!?」
「名前……?」
「今その、やっとメロディーが降りてきて……絶対これ逃したくないやつです……!」

倒れ込んでまで悩んでいたのが嘘のように、続々と頭の中でメロディーが鳴り始める。今すぐにでも形にしてしまわないと、二度と鳴ることなく零れ落ちてしまいそうで、必死に天くんに訴えかけた。
すると天くんがふぅっと短い息を吐き、髪をかき上げる。そのおかげで頑固な私に屈した珍しい表情を、垣間見ることが出来た。

「……分かったよ」
「ありがとうございます!すぐに終わらせますので!」
「そう言わずごゆっくりどうぞ」

最後には優しい笑顔を浮かべながら、天くんはリビングへと消えていった。





そうは言っても、貴重な時間を割いて来てくれた天くんを待たせる訳にはいかない。その一心で急いで作業を終えた私は、すぐさま天くんの待つリビングへと向かった。
まずはちゃんと謝罪とお礼を言って、それからお菓子とお茶の用意もしなきゃ。今日は何の話をしよう。この前のコンサートの話も聞かせてほしいな。
なんてあれこれ考えていたことは、全て叶わぬこととなってしまったようだ。

「天くん……?」

引き換えに目に入ったのは、リビングのソファには静かに眠る天くんの姿だった。
すぐに終わらせると言えども、それが5分10分の話ではないことはお互い分かっていた。そのうえ私がどんな性格かも天くんは全て承知の上で、ここで一人待っていてくれたんだ。せっかく会いに来てくれたのに……。

「私って本当つくづく駄目な人間……」

項垂れながらゆっくりと音を立てないように、天くんの横に座り込む。こうして改めて寝顔を眺めてみると、驚くほど端正な顔立ちだなと思う。歌もダンスも生き様全てが完璧で、誰をも魅了する唯一無二のアイドル。ここに寝ているのは間違いなくTRIGGERの九条天なのだ。

「……忙しい中、会いに来てくれたのにごめんなさい」

そっと囁くも反応はない。当たり前だ。天くんだって激務で疲れが溜まっているに違いない。

「てんてーん……」

それでも我儘な私はほんの少しだけでも構ってほしくて、意地悪な呼び方をしてみたけどやっぱり反応はない。本当の本当に寝てしまったみたい。
頬に触れたいと伸ばした指先をギュッと握る。

「私が悪いのは百も承知だけど、ちょっとだけでもイチャイチャしたかったな……」


「……へぇ。ちょっとでいいの?」


全身が石のように固まって声が出ない。気のせいだろうか。先ほどまで閉じていた天くんの目が、しっかりと開いてこちらを見ているのは。

「名前はちょっとなんかで満足なんだ?」

しかも心なしか段々とその手がこちらへ伸びてきて、いつの間にか耳を掠めて髪までといて──って、天くん……!

「お、おお、起きてたんですか……!?」

やっとのことで出た声が、情けないくらい裏返ってしまった。

「いや本当にいつの間にか寝てたよ」
「でも、今……!」
「少し前に名前の声で目が覚めた」
「ど、どうして目を開けて下さらなかったんですか……!」
「何だか名前の声が心地良くて」

そんな風に言われてもぜんっぜん嬉しくないどころか、恥ずかしくて死にそうなんですが……!

目を合わせていることさえ耐え難い状況に、ぐるりと勢いよく向きを変え背を向ける。するとそんな私を追うように、天くんがふわりと背中から抱きしめた。

「作業は終わった?」
「はい……お待たせしてすみませんでした」
「じゃあしようか」
「何を、ですか?」
「名前のしたかったイチャイチャ、だっけ」

恥ずかしさで再び体中の熱が上がるも、天くんの抱きしめる力が強まったせいで上手く逃げることが出来ない。首筋に髪が掠めたと思ったら、今度はチュッと唇が音を立てて触れていく。

逃げたいほど恥ずかしかったはずなのに、触れられるたびに今度は天くんに近づきたくてしょうがないだなんて。私は我儘な人間だ。

「天くん……そっちを向いてもいいですか?」
「うん。おいで」

ゆっくりと振り向けば、どこか満足そうに笑う天くんと目が合った。

「お待たせてしまって──」

もう一度謝ろうとする私の唇が、天くんの指によって塞がれる。

「悪いと思ってるなら、名前からしてみせて」

そんな顔で強請られて、断われるはずがない。恥ずかしさに震えながらも、言われるがまま唇をゆっくり寄せる。どれだけの時間触れていいのか分からなくて、私はほんの少しだけの軽い口付けをしてみせた。
音を立てて離れようとした瞬間、天くんの手が私の頭を強く引き寄せる。

「それじゃ足りない。もっと」
「っ、ん」

グイッと親指で唇を割られ、そのまま舌が口内へと差し込まれる。先ほどの甘いひと時を彷彿させるキスが、何度も私を攻め立てた。ただ一つ違うところは、今度はキスの先があるということ。
誘導されるがままソファに横たわると、覆い被さる天くんが視界に入った。

「……ベッドに行く?」

天くんに問われ、私は小さく首を横に振った。

「このまま、ここで……」

キュッと天くんの腕を握れば、一瞬だけその瞳が揺れた気がした。
先ほどまで重ねていた唇が今度は首筋を這い、いつの間にかはだけていた上半身へと流れていく。辿り着いたのは、あらわになった胸の突起物だった。

「っ、ん……ぁ」

舌先で転がされと思ったらきつく吸われ、指先で摘ままれたと思ったら強く揉みしだかれる。その動き一つ一つに甘い嬌声を上げては、天くんの名を呼んだ。
それはきっと体がより疼いてどうしようもなかったからだ。それに気付いた天くんが、長い指を下半身へと滑らせる。そうして入口を撫で上げると、天くんは嬉しそうに口角を上げた。

「名前、濡れすぎ」
「だ、だって……」
「そんなにボクとしたかったんだ?」
「違……っ、わない、ですけど……」

天くんの唇が優しく額に触れる。

「ボクも早く名前のナカに入りたいけど」
「っ、ぁ」
「その前に一度イかせてあげなきゃね」
「や、あぁっ!」

ググっと長い指が一気に奥まで差し込まれ、私の体は大きく反応してみせた。内側をなぞるように蠢き、掻き回されるたびに、きゅうっと激しく収縮をしているのが自分でも分かる。

「あ、やぁっ……そこ、ばっかり、っ」
「でも名前が一番好きなのところでしょう?」
「だって、すぐっ」
「うん。イッていいよ」
「待っ……まだ、っ、あっ!」
「ほら、我慢しないで」
「や、あっ、ああ──っ」

執拗に与えられた刺激に耐えられるはずもなく、一瞬で目の前が真っ白になってしまった。体は小刻みに震え、呼吸も乱れたままだ。そんな私を待つことなく、天くんの硬く主張したそれが入口に触れた。

「……ボクも名前とこうしたかった」

耳元で甘く吐息混じりに囁かれ、体の力が一気に抜ける。その隙を見逃さなかった天くんが、自身のそれを深く私のナカへ沈めた。

「あっ、んん──っ!」

求めていた圧迫感で満たされたと思ったら、強い快楽が私を襲う。達したばかりのそこは激しく突かれるたびに、再び意識を持っていかれそうなほど、敏感に仕上がっていた。

「天、くん……っ、また」
「っ、もう?今日の名前は凄いね」
「だって、んっ、天くんが、ああっ」
「ボクのせいなの?」

そう言って天くんは動きをピタリと止めてしまった。どうしてかと問うよりも先に、私の体は持ち上げられ、いつの間にやら体位を変えられてしまっていた。
天くんの上に私が跨り、向かい合って座る形となってしまったせいか、私を見上げる天くんと目が合う。そして天くんはにっこり笑いながら。

「じゃあここからは名前が動いてみせて」

と、とんでもないことを言ってみせたのだ。

「な、何をおっしゃいますか……!」
「だってボクのせいですぐイッちゃうんでしょう?」
「それは、そういうことじゃ……」
「なら名前に主導権を譲ってあげる」

全然譲る気なんて更々ない笑顔を浮かべてますけども!それどころか慌てふためく私を楽しんでる笑顔じゃないですか……!

「無理ですよぉ……」

か細い声で懇願するも、天くんの表情は変わらない。

「本当に……?私が……?」
「うん。名前が」
「うぅ…………下手でも引かないで下さいね……?」

きっとこの状況から逃れることなんて出来ない。そう思い意を決した私は、ゆっくりと拙いながらも腰を動かしてみせた。

「ん……っ」

いつもは天くんがしてくれる行為なのだから、自分で自分に刺激を与えるのは何とも言い難い感覚があった。気持ち良くなりたいしさせてあげたいけど、きっとどこかで理性が邪魔をしてしまうのだと思う。
ほら、その証拠に天くんはまだまだ余裕そうだ。

「んっ、やっぱり、私じゃ……っ」
「大丈夫。可愛いから続けて」
「そんな……っ、あ」

それでも自分なりに一生懸命動かしたり擦ったりを繰り返して、少しずつ感じられるようにはなっていた。けれど、これで互いに達せられるかと言えば難しい話なのも現状で。どうしたらいいのか分からず、段々と視界が涙で滲み始めたと思った矢先。

「ああ、っ!」

グンっと下から大きく突き上げる衝撃を与えられた。

「そろそろボクも手伝おうか」
「んっ、あ、あっ!」

その言葉と同時に一気に天くんの律動が私を攻めた。自ら動かす余裕などすぐに奪われ、ギュッと天くんに抱きつく形で快楽の波を受け止める。

「気持ち良い?」
「っ、はい……んっ、あ!」
「じゃあ今度は一緒に」

最奥で何度も容赦なく突き上げられ、私の体が大きく反り上がる。こんなところでこんな風に抱かれたのが初めてだったせいか。私の胎内がいつも以上に天くんを強く締め付けて離さない。
そうして次第に、先ほどまで余裕の表情を浮かべていた天くんの顔が、少しだけ歪み始めたのが私にも分かった。

「天くん、っもう」
「ボクもそろそろ……っ」
「はい、一緒に、っ、あ、ああ──っ!」

ビクビク震える私のナカで、天くんのそれも同じように震えている。それが何だか嬉しくなってしまって、余裕など微塵もないはずなのに、気が付けば私は天くんにキスを落としていた。
そんな私を見て、天くんが笑みを浮かべる。意地悪そうなそれとは違う、優しくて甘い笑顔。

すると天くんはそのまま私を寝室へと連れて行き、ベッドに横たわらせると、ソファの時と同じように再び私に覆い被さってみせた。
一度では終わらない行為なのだと察すると、うるさいくらいに胸が高鳴り始める。

「さっきの名前、可愛かったよ」

さっきのって……あんまり思い出したくはないのだけれど。そう思い顔を手で覆っていると。

「頑張ってくれたから、何かご褒美をあげなきゃね」

そんな私を見かねてか、天くんがまた私を甘やかす言葉を投げかけてきた。

「ご褒美、ですか?」
「そう。何がいい?」

冗談なのか。それとも本気で言っているのか。真意は分からなかったけれど、今なら何でも言えるような気がして。少しの沈黙の後、私はそっと口を開いてみせた。

「では……たった一度だけ。我儘を聞いてくれませんか?」
「我儘?」
「はい。一生で一回だけの我儘です」
「一生に一回だなんて言い方。逆にどんな我儘なのか気になるよ」

それはですね。


「たった10秒……ううん5秒。一度だけでいいんです。私だけのTRIGGERの九条天になってもらえませんか?」


天くんは私の側にいる時はただの九条天になれるのだと。そしてただの九条天に戻るその時だけ、一番に私のことを想ってくれるのだと言ってくれた。
それがどれだけ幸せなことか、重々承知している。同時にそんな私がTRIGGERの九条天まで望むことは、どれだけ浅はかで我儘なことかということも十分理解している。
もしかしたら我儘だなんて言葉で済ますことすらおこがましい、とても罪深き願いなのだろう。

それでも、一生に一度。たった5秒でいい。
その音を。世界で一番大好きなその音色を、ほんの一瞬だけでも独占出来るのなら。

他にはもう何も望まないから──。

天くんの指が静かに私の髪をかき分け、ゆっくりと耳に触れる。そしてその言葉は、私の耳元で紡がれた。


「世界中の誰よりもキミが好きだよ」


──それは確かに、TRIGGERの九条天の音をさせながら。


一生分の幸せを貰えた気分だった。どうしようもないほど嬉しくて、私の目からポロポロと涙が溢れ始める。これ以上困らせてはいけないのに。

「ありがとうございます……っ。もうこんな我儘は二度と……」
「名前」
「っ、天くんは何かありませんか……?どんな我儘でも構わないので聞かせて下さい……」

私の涙を掬いながら、そっと唇を塞がれる。優しく何度も啄みながら、徐々にそれは首筋を辿り、触れた箇所から熱がこみ上げていく。このままこうしてはぐらかされてしまうのだろうか。

「ボクは5秒とは言わずに……」

そう思ったのに。

「今夜だけ。ボクの音しか聞こえない世界にいて」

天くんはそう口にした。

「それは、我儘なんですか……?」
「そうでしょう。だって音楽しかないと言ったキミの世界から、それすらも奪おうとしてるんだから」

でもそれが我儘だと言うのなら天くんは大きな勘違いをしている。
だってそれならさっきからずっと、この世界は天くんの音しか──。







雨の中走り続ける。今度はもう二度と落とさないように、大事な楽譜を握りしめて。

「遅くなりました!」
「何だ名前。お前びしょ濡れじゃねぇか。何で青山を呼ばなかった?」
「だって、その時間すら惜しくて……」
「お前なぁ」
「そんなことより、例の新曲、こっちに変えさせて下さい!」

握りしめた楽譜を時田さんに差し出す。でもそれはまだ大まかなメロディーしか出来てない未完成な作品だ。

「三日で仕上げます」
「三日だぁ?」

そう言って疑う時田さんが、じっと楽譜を見つめる。でも時田さんなら絶対に分かってくれる。それがどれだけ素晴らしい楽曲になるのかを。

「お前、これをいつ書いた?」
「昨日です」
「誰といた?」

浮かび上がるのは、昨夜の天くんとの出来事だ。その楽譜に綴られてるのは、天くんを待たせてまで作業した一曲。無論それを知る者は誰もいないし、教えるつもりも毛頭ない。

「それ、プライバシーの侵害ですよ」

そう言って視線を逸らすと、何故か時田さんは笑い声を上げていた。

「何が面白いんですか?」
「いや。やっぱり天に任せて正解だったな」
「え?」
「さぁこれでまたあいつら三人と一緒に一儲けだ!頼むぜ昴」
「言われなくても最高の一曲にしてみせます。なんたってTRIGGERの新曲ですから」

私は今日もこの空にメロディーを紡ぐ。
散りばめられた星のように。
降りしきる雨のように。



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