第32話 君に捧げる君だけの曲 後編 僕が初めて名前と出逢ってから、名前が本格的に活動するまでにそう時間はかからなかった。 「そういえば名前の活動名って何になったの?」 「昴、です」 「昴か。その名前を選んだ理由は?」 「亡くなった兄の名前なんです」 「そう……お兄さんの」 「あ、このことは誰にも話してないので、時田さん達にも内緒にして下さいね」 この頃すでに名前も僕達Re:vale二人には、すっかり心を開いてくれていたように思う。 「そういえば名前って、作業に入るとピザしか食べなくなるんだって?」 「百さん……どうしてそのことを……」 「この前名前にマネージャーが付いたでしょ?何でもうちのおかりんと同年代みたいですっかり意気投合しちゃって。体調管理が上手くいかないって嘆いてたみたいだよ」 「ダメじゃない、名前。ご飯はちゃんとバランス良く食べないと」 「お肉とお魚を食べない千さんには言われたくないですー」 「でもほら、名前は年頃の女の子なんだしさ」 「お酒を飲んでばかりの百さんにも言われたくないですー」 「モモ、また飲みに出たのか?」 「行ってない行ってない……!」 「嘘ですよ千さん。巧妙に隠してますけど微かに二日酔いの音がします」 「名前、それズルいってば……!」 「付き合いとはいえ、そんなことを続けてたらモモの体が持たないだろって何度言えば……」 こうして三人で集まれば、他愛もない話をして家族のように過ごした。まだ名前もこの時までは、音楽を抜きにすると年相応の子だったように思う。 それからしばらくして、名前は昴として本格的に活動を始めた。時田さんの言うとおり名前の曲は瞬く間に人気を博し、リリースをすれば必ずと言っていいほど売れた。 評判は世間だけに留まらず、業界内やプロの間でも昴の話題を頻繁に耳にするようになった。 「名前も性別も年齢も全てが非公表らしい」 「誰か一人でいいから昴の正体を知ってる奴はいないのか?」 「噂ではあそこの事務所の……」 的外れな噂を耳にするたび、僕はどこか安心した気持ちになっていた。誰も名前へと辿り着いてほしくなかったからだ。昴の正体が名前だと知られたら、この大きな関心の全てが名前へと一気に向けられる。そうすれば確実に今のような生活は送れなくなるだろうし、時田さんの読み通り最悪名前そのものが潰されかねない。 現に名前は今の時点でも、すでにギリギリの状態だった。 「最近何だか上手く曲が出来なくて……」 「いつも以上に顔色が悪いな。ちゃんと眠れてるの?」 「眠たいはずなんですけど、次から次へと仕事が入ってるから早く曲を作らなきゃって思ったら、音の渦がずっとうるさくて……」 「名前、いくら仕事だからって君は何でも抱え込みすぎだ。ちゃんと時田さんに話して仕事の量を減らしてもらうべきだよ。今は少しでも休息をとって……」 「嫌……そんなことしたら、絶対ダメです……っ」 「どうして?」 「これくらいの仕事はこなせないと、呆れられてもういらないって言われたら……私には音楽しかないのに……」 まるで昔の自分を見ているようだった。 溢れる音楽を上手く形に出来なくて迷走を繰り返すばかり。大好きな音楽に溺れて苦しくなって、明けない夜がいつまでも続く錯覚に眠れなくなる。 そのうえ名前は曲を提供する側の人間だ。僕と違って好きな音楽ばかり作るわけにはいかない。不本意でも求められたものを作曲することだって多々あるはずだ。名前の小さな体には世間の期待や批評、莫大なお金の流れ、汚い大人の世界の事情に、関わる人達の人生すらも全てのしかかっている状態だった。 「眠れないなら子守唄を聞かせてあげようか?」 「子守唄、ですか……?」 名前のことを思うとメロディーが鳴る。これは僕が初めて名前のためだけに作った、名前だけの曲だった。鍵盤を優しく弾きゆっくりと奏でると、先ほどまで強張っていた名前の表情が和らいでいくのが分かった。 「……私、この曲大好きです」 「そう。良かった」 「ありがとう、千さん……」 名前がゆっくりと目を閉じる。 友達も家族も普通の生活も、全てを捨てたこの子の覚悟は相当なものだろう。僕には万やモモがいたけれど、名前の抱える孤独には計り知れないものがあった。 だからこそ出来る限り側にいてあげたかったし、ほんの少しでも孤独を消し去ってやりたかった。名前が弱音を吐きたくなったり眠れない時は、どんな時間でもこうして家に迎え入れた。 それでも僕には名前の心を完全に満たすことは出来なかった気がする。 「出来ない。無理。やだ。もう止める。ピザ食べたい。今度こそ言う。絶対に言う。無理だって言う!」 「頭に思いついた言葉を一通り全部吐き出したのは分かったんだけど、ピザは違くない?」 「え……私ピザって口に出しました?」 その日の名前は珍しい弱音の吐き方をしていた。 「だって時田さん、今度の曲は作詞までやれって言うんですよ?それも恋愛の歌詞だなんて」 「じゃあ印税は二倍だね。そんなに稼いでどうするの」 「それそのまま時田さんに言ってやって下さい。私なんて持ってても使い道もないんですから」 この世界にいると売れたり大金を手にして変わっていく人間を、嫌でもたくさん目にしてきた。それに比べて名前はとても無欲な子だった。欲しいものもやりたいことも特にないといつも口にする。もちろん彼女の環境や忙しさが邪魔をして、欲があったところで手に出来ない現状があるのも事実だ。 「そうだな、それならマンションの前にピザ屋でも建てるってのはどう?」 「千さん。それいいですね……!」 「え、嘘でしょ。冗談のつもりだったんだけど」 「ピザ屋かぁ……そこから生まれる恋なんてのもありかもしれませんね。あ、何かいい感じに湧いてきたかもしれません!イントロは可愛らしく、全体的にアップテンポでサビは跳ねるような感じで……」 「名前、今回の曲はバラードだよ。しかも切ない恋をテーマにした映画の主題歌」 「そうでした……やっぱり私には無理です……そもそも恋愛が何かもよく分かってないのに……」 いつか名前も誰かに恋をする日が来るのだろうか。その時僕はどんな反応をするだろう。 ふざけた奴だったら殴ってしまいそうだ。うん、確実に手が出る。そこらの奴になんか絶対に名前を渡せない。いやそれよりもそこらの奴なんかじゃ名前と一緒にいられるはずもない。名前の才能と人並み外れた生活を理解し、対等でいられる相手じゃないと。 「千さん?どうかしました?」 「ああ、うん。これじゃあ兄って言うより親の心境だなって思って……」 「え?一体何の話ですか?」 そんな相手が本当に現れるのか。半信半疑の中、その日は思ったよりも早くやって来た。 名前の変化に初めて気づいたのは、音楽番組の生放送で体調不良になったピアニストの代わりに、名前が出演することになった時のことだ。 『天くん』 それは今まで一度も目にしたことも聞いたこともない、初めて見る名前の表情と声色だった。 『……名前の音が少し変わった気がする』 『どんな風に?』 『少し柔らかくなった……かな』 名前の全てとも言える音楽すらも変えてしまうほどの相手──それがTRIGGERの九条天だということは僕にはすぐ分かってしまった。 同時に僕の中で嫉妬という感情が駆け巡る。正直動揺もした。自分の一番奥底に眠っていた感情が呼び起こされる感覚。 それはつまり僕は兄でも仲間でもなく、名前のことを──。 その気持ちに蓋をするかどうか、僕はしばし悩んでいた。 それからしばらくして名前が音を失った。 『大好きな音楽を聞いてるはずなのに、やっぱり何にも聞こえない……。千さんの気持ちが何にも分からない……っ』 もう二度とあんな名前を見たくはない。僕にとっても思い出すだけで胸が張り裂けそうになるほどのことだった。 音楽が認められようが、たくさんの仲間が出来ようが、家族のような存在がいようが、名前の心はずっと欠けたままだった気がする。あの時名前の側にいて分かったことは、その欠けた部分を埋める最後のピースが天くんだということだった。 『君にしか名前は救えないんだよ』 僕がそう伝えた通り、彼は見事に名前を音楽の世界に連れ戻してみせた。愛し愛される歓びを知った名前は、僕が見た中で一番幸せそうな笑顔を浮かべていて。不思議と僕の心の中には、いつの間にか安堵の気持ちが広がっていた。 ◇ それが出逢ってから今日までの僕と名前の思い出だ。その全ての記憶を辿り終えると、僕は一つの決意をした。 先日のスタジオではあのまま帰ってきてしまったけど、ここいらでちゃんとしないと。それに原因を作ったのは僕だしね。 『千さん、お疲れ様です』 「名前。今から僕の家にこれる?」 『行けますけど、何かありましたか?』 「うん……君に聞かせたい曲があるんだ」 電話で名前を呼び出すと、急だったにも関わらず名前はすぐに僕の家に駆けつけてくれた。 「思ったより早かったね。もしかしてもの凄く急いで来てくれた?」 「はい……だって千さんが……」 名前のことだ。きっと電話越しでも僕の音から感情を読み取ってくれたのだろう。まだ呼吸の整わない名前をソファに座らせ、他愛もない会話をする。 回想した過去と同じだ。名前と過ごしてきた時間は出逢った頃から今もこうして変わらない。 そしてこれからもきっと僕達は変わることはないと、そう信じて僕は名前をピアノの前に呼んだ。 「もしかして今からその聞かせたい曲というのを、弾いて下さるんですか?」 「うん。そうだよ」 「それって共同制作に関する曲ですか?」 「いや、この曲は誰にも聞かせる気はないし、世に出ることもない曲なんだ。これは名前のために作った名前だけの曲だから」 「私の……?」 「随分前に出来上がってたんだけどね。本当は聞かせるかどうか迷ったりもしたんだけど……名前にも一回しか聞かせないからよく聞いてほしい。君のその聴覚で」 そう名前に告げると、部屋の中が静寂に包まれた。鍵盤に置いた指が微かに震えている。僕は一度だけ深呼吸をして僕の音楽をゆっくりと奏でた。 口下手な僕はいつだって曲に思いを乗せて歌ってきた。だから名前にも同じように音楽で伝えようと思う。音楽で繋がっている僕達には一番相応しい方法だろう。それに名前ならその聴覚で、きっと僕の思いを一つ残らず拾い上げてくれるはずだ。 名前。 僕はいつだって君の音楽が、そして君自身が好きだよ。同じ音楽を生み出す者として、可愛い妹の兄として君が好きだ。それはこれからもずっと変わらない。 でも本当は君を一人の女性として愛した瞬間も確かにあったんだ。 たった一度だけでいい。 この曲に乗せて伝えさせてほしい。 僕は君に恋をしていたと──。 全てのメロディーを紡ぎ終え、鍵盤から静かに指を離す。ゆっくりと名前の方に視線を向けると、名前の頬には一筋の涙が流れていた。 「千さん……私……っ」 「いいよ。何も言わなくていい。伝わっていればそれで十分だから」 自然と笑顔を浮かべる僕とは正反対に、名前の涙は次々と溢れてくる。そっと手を伸ばしその涙を拭いながらも、僕はどこか清々しい気持ちでいっぱいだった。 「名前。天くんと仲直りしておいで」 「天くん、と……っ?」 「多分もう大丈夫だと思うから」 「でも……っ」 「お互い立場や状況を理解したうえで、側にいる覚悟をしたんだ。そう簡単に壊れたりしないよ」 本当は名前と会う前に、天くんには事前に連絡をしていた。だから二人がもうすぐ仲直りする確信が僕にはあったんだ。 『あんまり可愛い妹をいじめないでやってくれないか?』 『……いじめてるつもりなんてありませんよ』 『まぁ元はと言えば僕が挑発したのが原因なんだろうけど。心配しなくても奪ったりしないよ』 『別にボクは……』 『今回だけだよ。名前を奪っていく君に少しだけいじわるしたくなったんだ』 『さっきの台詞、そのままお返ししますよ。できればあんまりいじめないでくれませんか?』 『そうね。でも僕は名前のお兄さんだから。何かあれば黙ってないし、名前の側には家族として居続けるよ。だからこれからもよろしく』 そうだ。僕はこれからも家族として名前の側にずっといるよ。変わらずにずっと。 だから泣かないで。僕の隣でその笑顔を見せて。 そしていつだって君の幸せを願っている。大好きな君の音楽を聞きながら──。 [ back ] |