第2話 行方知れずの楽譜 ない。 ない。 やっぱりどこにもない。 「一体どこにいったの……!?」 半泣き状態でリビングに座り込む。これだけ探してないとなれば、思い当たることは一つしかない。 「やっぱりあのぶつかって落とした時かなぁ……」 ちゃんと拾ったつもりが拾いきれてなかったんだ。でももうあそこには二度も探しに行ったし、あったとしても雨でぐちゃぐちゃかもしれない。 唯一可能性があるとすれば、ぶつかってしまったあの人。眼鏡にマスクをしてたから顔はよく見えなかったけど、あの声色は……確か──。 プルルルル。 突如鳴り響いた電話に体が跳ねた。ディスプレイに浮かぶ名前をそっと覗き見ると、出るのを数秒躊躇してしまった。 とはいえ出ない訳にもいかない。 『おい!楽譜を探すって言ったまま、いつまでかかってんだ!』 「ご、ごめんなさい……!それがどこをどう探しても見当たらなくて……」 『データは取ってんだろ?ならそれを持ってくれば済む話じゃねぇか』 「でも譜面に起こすところまでが、私には必須工程なんですよぉ……!」 『じゃあ今日でその無駄な工程を無くすいい機会だ。素直に諦めろ』 「……時田さんは相変わらず分からず屋です」 もちろん無くした私が悪いけど、時田さんの横暴ぶりも相変わらずだ。 この際一日中携帯の電源をオフにしてやる。それで見つけられないくらい遠くに行ってやる。ああ、海外なんて良いかも。そうだ、この前雑誌で見たバリ島にしよう。なんてやけくそな考えがどんどん浮かんでくる。 でも現実は時田さんの言う通りだ。データさえあれば済む話なのに、私のちっぽけなこだわりのせいで、全員の作業が滞っている。 私の楽譜……一体どこへ行ったんだろう。 これ以上皆に迷惑はかけられないし、今回はさすがに諦めるしかない。そう思いかけた矢先。 『ちっ、分かったよ。もう一日だけ待ってやるから、さっさと見つけてこい』 「え……!いいんですか!?」 『そのかわり遅れた分の責任は取れよ』 「もちろん!ありがとう時田さん!」 とは言ったものの、どこをどう探しても見つからず、結局私が楽譜を落とした場所が最後の砦となった。 場所は自宅マンションのすぐ側。実は家から出てちょっとのところで、私は例の男性と衝突してしまったのだ。 あの人に会えれば何か手がかりがあるのかもしれないけど、肝心の名前も連絡先も聞いてない。そんなんで私は彼に、どうやってお詫びをするつもりだったのか。 「でも彼の声は、凄く綺麗な音と色だった」 “キミの方がひどく濡れてる” 心地良い透明感の中に、優しさと強さがあったあの声を思い出した。 もう一度会えたらなぁ……なんて。 ◇ 「九条さん、この前は本当にすみませんでした」 「いえ。結果的には間に合いましたし、致し方ないことですから」 今日一つ目の仕事は、TRIGGER全員での雑誌のインタビュー。それを終え二つ目の仕事へ向かう車内で、突如運転席から謝罪をされた。 彼はボクが所属する八乙女事務所の社員であり、先日渋滞のせいでボクを迎えにこれなかった人でもあった。 「あの……この前の生放送のTRIGGER、凄くカッコ良かったです!」 「ありがとうございます」 「今度新しいアルバムも出るんですよね?」 「ええ。今まさに制作中です」 「僕もすっごく楽しみにしてますんで!」 「ぜひ期待してて下さい──って……そういえばこの道」 「気づきましたか……?この前渋滞した、僕にとってトラウマの道です。はは……」 ということは、ここをもう少し先に言ったところが楽譜を拾った場所か……。 体を起こし窓から外を眺める。この道を真っ直ぐ行って。確かあのあたり。 「──待って、止めて!」 「は、はい……っ!」 ボクの声にすぐさま車は急停止をした。 「……ど、どうかしましたか?」 見間違いなんかじゃない。今確かにあの場所に、あの時の彼女が立ち尽くしていた。 もしかして彼女、楽譜を探してるんじゃ……。 ボクは鞄から茶封筒を取り出した。中には、どうやって返そうかと考えていた楽譜が入っている。本当は今すぐこれを渡しに行って、色んなことを話したい。 この曲は誰が作ったのか。キミはこの楽譜とどんな関係があるのか。あの日急いでいた理由。それから凄く綺麗だと言った真意。 けれどむやみやたらに女性と接点を持つことが、アイドルとして正しいことではない。誰がどこで見てるかも分からない。頑なな理性がボクを躊躇わせていた。 「……すみません。一つだけ、貴方に頼み事をしてもいいですか?」 「頼み事、ですか?」 彼女にもう一度会いたい。ボクは一番の本音を押し殺して、運転席の彼に茶封筒を渡した。 ◇ やっぱり何度探しても見つからない。最後の当ても外れてしまった。 一応データはちゃんとあるんだし、別に譜面なんてなくても作業に影響はない。時田さんの言う通り素直に諦めるより他ない。 「……あの」 落ち込むだけ落ち込んで、マンションに帰ろうとしたその時。背後から私を呼び止める男性の声がした。 「私、ですか?」 「ちょっとお尋ねしますが、今ここで何か探し物をしていましたか?」 「はい……していましたけど」 「その探し物は、先日ここで男性とぶつかって落とされた物ですか?」 「そ、そうです……!まさしくそれです!」 でもどうしてこの人が……?あの時ぶつかった人と違う人だとすぐに分かった。声が全く違うからだ。あの時ぶつかった彼から感じた音色が今はない。 「えっと僕は代理人みたいなもので、そのぶつかった本人からこれを、落とし主に渡してほしいと預かってきまして……」 「これは?」 「中は見ないようにと言われているので僕も分かりません。なので念のため今ここで、中身を確認してもらってもよろしいですか?」 「……分かりました」 渡された茶封筒をそっと開ける。するとそこにはあの日からずっと探していた、大事な楽譜が入っていた。 「あった……あった……っ!良かったぁ!」 楽譜を見た瞬間、私は安堵でいっぱいなり、思わずその場に座り込んでしまった。 「ありがとうございます……!私の物で間違いないです」 「そうですか。見つかって良かったです。では僕はこれで」 「え、ちょ……!ま、待って下さい……!」 座り込んでる場合ではない。今度こそちゃんと聞かないと。彼のことを。 私は咄嗟に男性の裾を掴み、この場立ち去ろうとする彼の行動を阻止した。 だって、まだ肝心なことを聞いていない。 「これを拾って下さった方はどなたなんですか?今どこにいらっしゃるんですか?」 「それは……」 「お礼がしたいんです!」 傘を差し出してくれたあの人にもう一度会いたい。ちゃんとお礼が言いたい。こうして引き下がらない自分に、正直自分でも驚いている。普段特定の人としか関わりを持たない私が、誰かにこれほど興味を示すことは、極めて珍しいことだったからだ。 「すみません。それは言えない約束なんです」 「どうしてですか?」 「それも言えません」 「そう……ですか」 この人の真剣な表情を見ていたら、それ以上問いつめることは出来なかった。何か事情があるんだ。この人にあるのか、彼にあるのかは分からないけど。 「そうだ……!」 私はおもむろに小さなメモとペンを取り出した。今度こそ何かあった時にと、ポケットに忍ばせておいて正解だった。そして急いでペンを走らせ、自分の名前と電話番号を走り書きした。 「これを、その方に渡して下さい」 そしてそのメモを二つ折りにして、代理人だと言う男性に渡した。 「私からこれ以上詮索することは一切しませんので」 「配慮して下さってありがとうございます」 「そんな!お礼を言うのは私の方ですから!これは命……みたいなものだったので」 「分かりました。その気持ちとこのメモは、ご本人にちゃんとお届けしますのでご安心下さい」 代理人の男性が柔らかな笑みを浮かべた。 大丈夫。綺麗な音色。この人なら信用出来る。彼の背中を見送りながら、私はもう一度安堵の溜息をついた。 それからタクシーに乗ること15分。到着したのは皆が待つスタジオだ。はやる気持ちを抑えられなくて、エレベーターのボタンを何度も押す。腕時計を見ると、皆がスタジオに集まってから既に3時間は経過していた。 「すみません!遅くなりました……!」 勢いよく扉を開けたせいか、皆が一斉にこちらを振り返る。 「おー来た来た!」 「お疲れ様、名前ちゃん」 「もっとゆっくりでも良かったのに。お昼はちゃんと食べた?」 集まっていたのは編曲家や各楽器の演奏者、事務所の関係者、所謂いつものメンツってやつだ。皆が次々に優しい言葉をかけてくれる。いつもそうだ。私のせいで作業が遅れてしまっても、彼等は嫌な顔なんて一つも見せない。 「お昼は後で大丈夫です。それより早く作業を進めましょう」 「あ?いいから先に食ってこい」 スタジオの奥から聞き慣れた声がした。 「時田さん……!」 「お前、作業し始めたら一切飲食しなくなるだろうが。とっとと飯に行ってこい」 「嫌です。とにかく一回でいいので、この曲を先に聞いて下さい」 「何だ。自信作なのか?」 「私の中では」 「わーった。一回聞いて納得したら飯に行ってこい」 「はい!」 時田さんの了承も得たところで、早速用意してたデータと楽譜を渡す。 楽譜に書かれた曲の仮タイトルは宅配ピザ。 自分では凄く良い曲が出来たと思ってる。けれど皆は、特に時田さんはどう判断するのか。いつもこの初聴の瞬間が一番緊張する。最初の一音が流れるその時まで、私の心臓はバクバクと音を立てていた。 パソコンから流れる音楽が終わりを迎えるまで、誰一人言葉を発しなかった。こんな時、最初に口を開くのは決まって時田さんだ。 「かなり良い出来だ」 ニヤリと口角を上げて時田さんが笑った。 「本当!?やったぁ!」 「名前ちゃん、凄く良いよこの曲」 「これはまた人気が出るだろうなぁ」 良かった……これで安心して皆と作業を進められる。 「TRIGGERのアルバム曲だったな」 「はい。TRIGGERへの楽曲提供は初めてだったので、どんな曲を作れば良いか少し迷いましたけど」 今や大人気グループのTRIGGER。 素晴らしい音楽はもちろん、それを表現し世に届けるメンバーは、恐ろしい程に洗練されている。彼らはあっという間にトップアイドルへの道を駆け上がっていき、なるべくしてスターになったのだ。 「TRIGGERって本当に凄いですよね。歌もダンスも完璧なうえに、三人のバランスがとにかく絶妙ですし、あの年齢であの高級感……あげたらキリがないですけど、グループとしてあの圧倒的な完成度は、いつ見ても尊敬します」 「確かTRIGGERのところのセンターは、お前と同じ歳だったか」 「そうみたいですね。そう考えると益々凄いなぁ」 「……よし、とりあえずお前は飯だ」 「はーい」 興奮冷めやらぬ私の背中を、時田さんが押す。 「おい、名前」 「はい?」 「お前も十分凄いってことを忘れるなよ」 「時田さんってば。いきなりどうしたんですか?」 「さすが天才音楽家の昴だよ。宅配ピザ、想像以上に良い出来だ。これならきっとTRIGGERも喜ぶぞ」 時田さんがこんな風に褒めてくれるなんて珍しい。何か企んでると疑ってしまうほどだ。 それでも思わず顔がにやけてしまった。 「ありがとうございます。ではピザでも食べてきます!」 とても気分が良い。体が弾む。 私は自作した曲──宅配ピザを鼻歌で歌いながら、スタジオを後にした。 [ back ] |