第26話 ひとりじゃない


夜、新居にて呼出音が鳴り響く。内容はコンシェルジュからの来訪者に関するお問い合わせだった。
一応事前に今夜は客人が来ることを伝えていたつもりだが、今度のマンションは更にセキュリティが強化された分、はいそうですかとそう簡単にはいかないらしい。
私はパタパタと小走りで玄関へ向かい、彼の来訪をドキドキしながら待っていた。
インターホンが鳴り、最後のセキュリティを私自身で解除する。

「お疲れ様です、天くん」
「名前もお疲れ様」

扉の向こうから現れたのは、人気絶頂のアイドルグループTRIGGERのセンターであり、そして私が初めて恋をした相手である九条天であった。

「お邪魔します」
「はいどうぞ」
「ここ、本当にセキュリティが凄いね」
「何だかそうみたいですね。青山さんも来るたび言ってます」

私が他人事のように話すのには訳がある。
この一ヶ月の間、時田さんから事が解決するまで外出禁止だと言い渡され、私自身がこのマンションから出入りすることがなかったからだ。
ちなみにここを出入りしたのは引っ越した当日だけ。だから部屋に辿り着くまでのセキュリティがどうこう言われても、正直なところ分からない。

「夕飯はお食べになりましたか?」
「うん。撮影現場で軽く」
「そうでしたか。では紅茶をお入れしますね」

天くんとこうして会うのは、あの夜の出来事以来だ。


あの後残っていた父親との問題に対して、時田さんは私に一つだけ指示を出した。

『俺が全て解決するまでお前は一切外に出るな』
『一切って、本当にマンションから一歩も出るなってことですか?』
『そうだ。俺がいいと言うまでは絶対だ』
『はい……分かりました』

反論や追求は一切しなかった。いや時田さんの有無を言わせない圧力に、反論など出来る余地もなかった。
父親に対する不安は拭いきれなかったけど、聴力を失った間の仕事も随分と溜まっていたので、引きこもるには良い機会でもあった。
そうしてひたすら仕事をこなし一ヶ月が過ぎた頃。

『もう外に出ていいぞ』
『え?いいんですか?こんな急に』
『全部解決したからな』
『それはその、父のことも、ですか……?』
『ああそうだ。あの男がお前の前に現れることは二度とないだろうな』
『……そうですか。それはとても助かります』
『それから、天にも会いたきゃ会え。ただしすっぱ抜かれないようにはしろよ』

今度は突如好きに過ごしていいと、時田さんは言った。


「今まで通り、スタジオ見学とかコンサートの観覧とかも行ってもいいそうです」

ソファに座る天くんに紅茶を差し出すも、天くんはどこか不満げな表情を浮かべている。その理由を聞いてよいものか迷っていると、キミのせいじゃないよと言って天くんの方から口を開いてくれた。

「結局大人達に守られている自分に腹が立っているだけ」

会えない間の電話やラビチャで薄々感じてはいたけど、多分天くんはここ一ヶ月何があったのかを、多少なりとも把握をしているのだと思う。何回か電話でもこうして不満を漏らしていたこともあったし。
私には時田さんがどう問題を解決したのかはさっぱり分からないけれど、ただ一つだけ教えてもらったことはある。

『天はお前のことを本気で守ろうと行動してたみたいだ』
『天くんが、一人で……?』
『本人には絶対言うなよ』
『じゃあどうしてそれを私に教えてくれたんですか?』
『簡単な理由だ。お前の惚れた男は本当に良い男だってことを教えたかったんだよ』

私はこの時の時田さんとの会話から、天くんが自分を好いてくれているということ、再度実感させられた気がする。


「ん?」

ティーカップをカチャリと置いて、天くんがこちらを伺う。私が黙ってじっと見つめ過ぎたせいだ。先ほどとは正反対の柔らかい声と表情に、一瞬で体温が上昇した気がした。

端正で美しい顔立ち、スラッとした手足。抜群の歌唱力とダンススキル。それでいて誰よりも強い信念とプロ意識を持っていて、優しさと誠実さまで兼ね備えている。こう考えると改めてこんな素敵な人、世の中に二人としていないとすら思う。
そんな人が今私の目の前にいて、私なんかのことを──。

「名前?」
「……は、はい!」
「さっきからどうしたの?」

改めて天くんの魅力を噛み締めてた、なんて口が裂けても言えない。それにその綺麗な顔に覗かれると、どうしたってドキドキしてしまう。

「ドーナツ……そう、ドーナツです!紅茶にはドーナツって思って……!」

私は逃げるようにキッチンへと向かい、用意していたドーナツを急いで運んだ。

「これってこの前話してた近所のドーナツ屋さんの?」
「はい、そうです。覚えてて下さったんですか?」

もう一度ここに来ることがあったら、ドーナツ好きの天くんに食べてほしいと言っていたもの。それを天くんの前に並べる。

「何、この量」

全種類ずらりと。

「お好きなのをどうぞ」
「うん、ありがとう。ただ……どう考えても買いすぎでしょう」

そう言いながら天くんが俯いている。
え、え……どうしよう……。
もしかしてこれって明らかに呆れてる……!?

「あ、あのですね、外出出来なかったもので青山さんに頼んだんですけど、天くんの好みのドーナツが分からなくて……それなら全部買ったらどうかと思いましてですね……。別に無理して食べなくていいですからね!?私、ピザだけじゃなくてドーナツも山のように食べられるタイプなので、余った分は全て私が……っ」
「っ……ふふ」

あれ……これは呆れてるんじゃなくて、笑われてる……?

「ふふ、ごめん……笑っちゃって」

天くんが珍しく声を出して笑ってる。ごめんなんて言われたけど、天くんの笑顔が大好きな私からしたら正直得した気分だ。

「名前って本当面白いよね」
「そ、そうですか?」
「それに可愛い」
「え……これの一体どこが……」
「こうやっていつも一所懸命なところが、かな」

今度は私の方が俯いてしまう。
天くんにこんな風に言われて、ドキドキしない女の子なんていないと思う。例えばドラマの中での甘い台詞だったとしても、私が相手役だったらすぐに好きになっちゃう自信がある。
今だってまともに顔すら見れやしない。

「名前、おいで」
「どこへですか?」
「ここ。ボクの隣」

言われるがまま天くんに近づき、隣にちょこんと座る。少しだけ距離を置いて座ったのだけど、その距離は天くんによってすぐさま縮められた。

「やっとキミに会えた」

耳元で囁かれ心臓が跳ね上がる。

「私も、会いたかったです……」

精一杯自分の気持ちを口にしてみたけれど、照れくさくて顔が上げられない。それでも天くんは止まることなく、長い指先が耳を掠めていく。

「あの曲はどうしたの?」
「あの曲、とは?」
「ボクとの初めての曲」
「あ……っ、えと、あれは誰にも聞かせずにちゃんと隠しておいてます……時田さんには別の曲を提出しましたし……」
「そう。いい子」

だって天くんがボクだけのものだって言ったから。その独占欲が私にはとても嬉しかったんです。
そう心の中で呟いた。
指先が少しずつ移動し今度は唇を触れる。

「こうしてまたキミに触れたら、今度はどうなると思う?またこの前みたいな曲が生まれるのかな」
「天くん……っ、あの、ドーナツは……」
「うん。その前に」

天くんの唇が私の唇と重なり、一瞬にして酸素も思考も奪われてしまう。

「ん……っ」

一度の口づけで終わるはずもなく、角度を変えては何度も啄むようなキスが落とされる。口内に舌が侵入し、くまなく貪られるたびに、意識がふわふわと宙を浮いているかのようだ。そうしてキスに溺れていく私の体は、そのままソファで押し倒されてしまっていた。

「名前……好きだよ」
「私も、天くんが好きです……」
「……普通の恋をさせてあげられなくても?」
「え……?」
「普通の恋人みたいに好きな時に会うことも、それどころか外で会うことすらも出来ない。これ以上誰にも悟られないように、色んなことを隠して過ごさなきゃいけない。だからきっとこれからも苦しい思いをたくさんさせると思う……」

それは一瞬のことだった。どこか寂しげで自信の無い音がほんの少しだけ、確実に聞こえた。完璧主義で絶対にそんなことを表情には出さない天くんからだ。
こんな時、この特殊な聴力が自分にあることを心底有難く思う。あんなに恨めしいと思っていたのに。

「天くん、それは私の台詞ですよ」
「え?」
「私なんかとじゃ普通の恋なんて出来ませんよ?基本的に引きこもりで、作業を始めたら部屋から一歩も出ませんし。何か買うとしたらピザばかりで、女らしいところなんて一つもありません。誰にも昴のことは話せませんし、もれなく時田さんと青山さんが確実に付いてきます。それにろくでもない父親までいますしね……」

そう自虐気味に笑うと、天くんは少し驚いた表情をして見せた。
普通じゃないと言うなら私の方こそだ。きっと天くんならもっともっと素敵な女性と素敵な恋愛が出来る。そんなことは分かりきっていた。

「それでも私を選んで下さるというなら、こんなに幸せなことはありません」
「……名前」
「それに天くんは言って下さったじゃないですか。音楽が私達を繋ぐって」
「うん……そう言ったね」
「会えなくても苦しいことがあっても、音楽がある限りきっと大丈夫です。私はそう信じています……」

もう二度と迷ったりしない。自分の選んだ道を、私を守ってくれる人達を信じると決めた。だからこの恋を諦めることだって絶対にしない。

「天くん……?」
「ごめん、ちょっと……」

天くんが私の首元に顔を沈め、そのままフーっと大きく深呼吸を繰り返している。何をしているのか分からないまま、無言で体を硬直させていると、今度は優しく頭を撫でられた。

「……あんまり可愛いこと言わないでくれる?抑えられなくなるから」

抑えられ……、って──。

「このままソファでは嫌でしょう?」
「あ……え、っと……」
「ベッドに連れて行くよ」

今のは要するにこのままソファで抱きたくなってしまったから、深呼吸をしてそういう気持ちを抑えてたってこと……?
そして私と天くんはソファではなくちゃんとベッドで……つまり、これは2回目の……!

足りない頭でぐるぐる考えているうちに、気がつけばベッドの上で天くんが覆い被さっていた。
途端に緊張が走り全身に力が入ってしまう。
正直これほど緊張するものだとは思ってもみなかった。初めての時はこれが最後かもって思ってたし、ぐしゃぐしゃに泣いて全てを曝け出して、何というか今思えば信じられないくらい自分に勢いがあったのは事実だ。
けれど今回は違う。好き合うことを許されたうえでの、初めての甘い時間。

「もしかして、初めての時より緊張してる?」

そんな自分をすぐに天くんは見透かしてしまった。また呆れられるかもしれないと心配する私をよそに、天くんはほんの少しの笑顔を浮かべ、額に小さなキスを落としてくれた。

「大丈夫。今夜もちゃんと優しくする」

──凄く綺麗。

ああ、ほら。
世界で一番大好きな音色が私を包んでくれる。

「あ……っ、ん」

だからきっと大丈夫。

「ね。この前よりも濡れてる」
「そんなの、わかんな……っあ」
「そっか。それは残念だね」
「天、くん……っ」
「ん……?痛い?」
「だい、じょぶ……です」
「じゃあこのままもう少し」

ぐっとより深く天くんの指が胎内に沈む。あっという間に一番奥まで辿り着いたと思ったら、今度は少し強めに指がバラバラと動き出した。

「あっ……そこ、は……っ」
「そう。ここなんだ」
「ああっ、やぁ……っ!」
「ほら逃げないで」

どうしようもない感覚に襲われ体を動かせば、腰を強く掴まれ引き戻されてしまった。天くんの指は容赦なくある箇所を攻め続けている。
それが自分の良いところなんだということは、もう嫌でも分かっていた。分かったうえで自分がどうにかなってしまいそうで、それがたまらなく恥ずかしかったのだ。

「顔、見せて」
「やっ……絶対、ダメ、です……っ」
「へぇ。じゃあもう少し強くしようか」
「え……っ、あっ!待っ……て、ああ!」

加速する指の動きに反応して、一気に全身が震え出す。押し寄せる快楽に抗えない。

「天、くん……っ、こわ、い……っ」
「……怖い?止める?」
「ん……」
「それともこのままボクを信じる?」

卑怯な聞き方だ。そんな風に言われて止められる訳がない。
けれど卑怯なのは私も一緒だ。本当は離れたくなんてないくせに、天くんとこうしたいって思っていたくせに、怖いだなんて言って本当の自分を隠そうとしてる。

「どうしたい?」

優しく大きな瞳が私を見つめている。
大丈夫。きっと天くんならどんな私でも受け入れてくれる。もっとちゃんと信じて──。

「こわいですけど……きもち、いいから……やめないで……」

これが正解かは分からないけれど、自分の正直な気持ちを精一杯伝えてみせた。
すると少しの間をおいて、天くんの指が再び一番感じる箇所を刺激し始めた。

「名前、それは煽りすぎ……」
「あっ、ああ、ん!」
「大丈夫。怖いことは何もしないから」
「ん、あ……っ、ダメ、もう」
「うん。知ってる」
「も、これ以上は……っ、あ!」
「いいよ。我慢しないでイッて」
「やあっ、あ、ああ──っ!」

天くんに促されるまま、私の体はビクビクと大きく震えながら絶頂を迎えた。今にして思えば初めて結ばれたあの夜は、こんなにもはっきりと快楽を認識する余裕などなかった。
けれど今はどうだろう。ゆっくりと指が引き抜かれる瞬間すらも、はしたなく体が疼いてしょうがないなんて。

「……今度はこっち」

天くんの昂ぶったそれが入口にそっと触れる。どう言葉にして伝えていいか分からなかった私は、天くんの首に腕を回しぎゅっと目を瞑った。
そしてちゅっと頬に触れるだけのキスをされ、数秒後。

「ああ……っ!」

胎内が一気に圧迫されて一際高い矯声が漏れた。

「っ、名前……力、抜いて」
「はい……っ」

天くんもゆっくり動いてくれていることは分かっているけれど、そう簡単に上手く力を抜くことが出来ない。受け止めるだけで精一杯の私は、より強くベッドのシーツを握りしめた。
するとその手に天くんの手が重ねられる。

「握るならこっちにして」

絡まる指から彼の体温が伝わる。
その温かさに何だか涙が零れそうになってしまった。

「また怖くなった……?」
「違……っ、ん、あ」
「じゃあメロディーでも浮かんできた?」
「ううん……っ、天くんの声、しか、聞こえない……っ」

不意に律動が止まる。
何が起こったのか不安になり、頑なに瞑っていた目を開けると、ほんのり頬を赤く染めた天くんの姿が目に入った。

「ごめん……ここからは手加減出来ないかも」
「え……?」
「だから、このままボクの声だけ聞いていて」
「え、あ……っ、ん!」
「名前」
「ああっ、は、んっ」
「っ、好きだよ」
「天、くん……っ、あ」
「絶対に離さない……っ」

聞こえるのは天くんの声と、そこから溢れる私への愛情の音だけ。

兄が亡くなってから、ずっと一人で生きていくのだと思ってた。昴でなければ価値がない人間なのだとすら思ってた。
でもそれは全て間違いだったのだと、天くんに出逢って気づくことが出来た。
誰かに愛され愛する歓びを、もう絶対に離したりしない。


天くんと過ごし愛し合った夜、真っ白な世界に辿り着いた。辺り一面何も存在しないのに、何故だか温かくてどこか懐かしい。
微かに聞こえるのはメロディー……?
いや、そんなはずがない。
だってこれは。
このメロディーは──。

『名前』

その声を聞いた途端、涙が溢れてしまった。
振り向かなくても分かる。私を呼ぶ声から大好きな音色がするから。

『お兄ちゃん……?』

滲んだ視界に映るは、今日まで一度だって忘れたことはない、兄の優しい笑顔だった。

『お兄ちゃん……っ!お兄ちゃん!』
『はは。名前だ』
『ずっと、ずっと会いたかった……っ』
『うん。知ってた』
『じゃあどうして今まで会いに来てくれなかったの……!?私……っ、ずっと、会いたくて……夢でもいいから会いたいって……!』
『でも俺に会っちゃったら……お前、こっちに来そうだったから……』

そう言って兄は困ったように笑ってみせた。

『でも名前のことはずっと見てたよ』
『ずっと……?』
『名前が今日までずっと約束通り、自分の音楽を俺に届けてくれたこと、本当に本当に嬉しかった。俺の我儘をちゃんと聞いてくれてありがとう』
『そんなの、全然……っ』
『俺、やっぱりお前の……昴の音楽が一番好きだよ』

兄の手が頭の上に伸びかけて止まってしまった。思い出の中の兄は、私が泣いているといつも優しく頭を撫でてくれた。
でもきっと今はそれが出来ないんだ。

『でも、もう大丈夫だな……』
『え?』
『もう名前は独りじゃないって分かっただろ?』
『お兄ちゃん……っ?』
『俺はいつもお前の側にいるよ。お前の音楽と共に』
『待って……!まだ話したいことがたくさんあるのに……っ!』
『ああ、そうだ。最後にさ、お前の惚れた男。あれは格好良すぎだろ。俺から見ても本当に良い男だと思う。正直ちょっと寂しいし悔しいけど、俺も応援してるから』

兄の笑顔が消えていく。
必死に手を伸ばしても、その手が兄を掴むことはなかった。





ゆっくりと瞼を開けると薄暗い部屋の中、最近やっと見慣れた天井が目に入った。その次に感じた感触は頬に触れる誰かの指先。

「ごめん。起こしたかな……」

声のする方向へ視線を向ければ、ベッドに腰をかけながらこちらの様子を伺う天くんの姿があった。
少しずつ夢と現実の境目がクリアになっていく。

「すみません……私、あのまま寝てしまって……?」

行為の後、極度の緊張状態が続いたせいか、終わるや否や私はすぐに眠りに落ちてしまったようだ。そしてその眠りの最中に、兄の夢を見たのだろう。

「嫌な夢でも見た?」
「え……?」
「泣いていたから」

先ほど頬に触れた感触は、きっと天くんが涙を掬ってくれた感触だ。

「いえ……とても幸せな夢……でした」
「そう。なら良かった」

ギシリと音を立て天くんが立ち上がる。もうすでに天くんは着衣をし、ここを訪れた時と変わらない姿に戻っていた。

「じゃあボクは仕事があるから」
「あ……っ、私、お見送りします」
「そんなのいいから名前は寝てて」
「でも……」

天くんが行ってしまうって思ったら、何だか急に寂しくなってしまった。兄の言う通り、もう独りじゃないって分かったはずなのに。

「ボクも同じだよ。本当はもっと名前といたい、離れたくないって思ってる。でもそれは許されないから、だから最後にもう一回だけ充電」

今宵一番甘いキスが落とされる。
同時に聞こえるのは、寂しさと愛しさが溢れた音色。天くんも私と同じ気持ちだと言ってくれたことが、嘘じゃないということが分かる。
名残惜しく離れていく唇がとても艶っぽくて、再び私の中で鼓動が早くなるのを感じた。

「ドーナツ、ありがとう。残りはスタッフの皆と頂いていいかな?」
「はい、もちろん……!」
「じゃあまた連絡する」
「お仕事頑張って下さいね」
「名前もね」

天くんの手が私の頭を優しく撫でる。
夢の中の兄には出来なかったこと。そしてそれは私達が生きているという証拠でもあった。

私はもう独りじゃない。だからもう大丈夫。ちゃんと前を向いて生きていける。
愛する貴方と、そして愛する音楽と共にずっと。



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