第23話 世界で一番綺麗な音色


私には家族皆が笑って過ごした思い出が、ほとんどといっていいほど存在しない。
記憶にあるのは両親の飛び交う怒声と、それを怖がる私をいつも守ってくれた兄の姿だけだった。

大好きな兄の名は苗字 昴。
年齢は私より八歳年上で、生きていればRe:valeの千さんと同じ歳だ。
兄はとても温厚で優しくて、父の言う通り文武両道でとても優秀な人だった。中でも一番秀でていたことは、音楽の才能であったと言えるだろう。

私は部屋の片隅に置かれたピアノを弾く兄の姿が、何よりも大好きだった。

「小さい頃は母さんがよく弾いてくれたんだけどな」

思い出話と共に兄の指が鍵盤の上を走る。
元々このピアノの持ち主は母であり、私が生まれる以前の兄は、ピアノ教室に通っていたこともあったらしい。

「やっぱりお兄ちゃんは凄く上手だね」
「上手なんかじゃないよ。今はもう好き勝手弾いてるだけだから、技術も理論もめちゃくちゃだし」
「そうかなぁ。もの凄い綺麗な音なんだけどなぁ。ねぇ、私も弾いてみてもいい?」
「いいよ。名前は何の曲を弾いてくれるの?」
「今お兄ちゃんが弾いてた曲」
「今の曲って……名前に聞かせたのは初めてだよね?」
「うん。でも一回聞けば大体弾けるから」

ちゃんとしたレッスンを受けてきた訳じゃない。私達にとって音楽に触れることはあくまで遊びの延長だった。そしてそれは世界で一番楽しい時間でもだあった。

「やっぱ名前は凄いよ。絶対音楽の道に進むべきだと思う」
「凄いのはお兄ちゃんでしょ?だって私はお兄ちゃんの真似をしているだけだもん」
「いやいや、ちゃんと自分で作曲してるでしょ」
「見様見真似でね」
「俺は名前の曲、好きだよ」

兄はいつも笑顔でそう言ってくれた。
もちろん嬉しくない訳じゃない。

「お兄ちゃんこそ音楽の道に進んで、早く有名になったらいいのに。私、お兄ちゃんの曲をたくさんの人に聞いてもらいたい」

でも私は兄こそが音楽に携わる仕事に相応しいとずっと思っていた。兄が奏でる音色は何よりも美しかったからだ。願わくば今のようにずっと隣で兄の音色を聞いていたい。それが私の一番の願いでもあった。

「だってね、お兄ちゃんの曲を聞いてると嫌な音が聞こえなくなるの」

呪いのように付きまとう特殊な聴力は、私の心をたくさん傷つけてきた。
両親も友達も見知らぬ人からでさえも、音に乗って負の感情が聞こえてくる。父のように一言も言葉を交わさなくとも、私を邪険に思う気持ちは伝わってくる。友達だよと言いながら、私を薄気味悪いと思っている感情を感じ取ってしまう。

何もかも塞ぎたくなるこの世界で、兄の音楽だけが私を救ってくれた。兄がいたから私は音楽を嫌いにならずにすんだ。
昴として活動するまで、実際に私の聴力を受け入れてくれた人は兄しかいなかった。

「ねぇ、何かもの凄く嬉しいことでもあった?」
「どうしてそう思った……?」
「音、弾んで凄いから。初めて聞いた。お兄ちゃんのこういう音」
「……やっぱりどれだけ隠しても名前にはバレるか」

この時は好きな人と付き合った直後のことだったらしい。兄を取られたような気がして、面白くなかったことを覚えている。
けれどその数年後、とても悲しい音をさせながら、私の大好きな海の曲を弾いていたことがあった。海の曲は私が落ち込んだり嫌なことがあった時によく弾いてくれた曲だ。兄が彼女と別れたのだと、私はその音色からすぐに察した。

「……お兄ちゃん、海に行こうか」
「ん?何か嫌なことでもあった?」
「うん……ちょっと」

それは兄の方だとは言えなかった。
この時私は好きな人と別れると、こんなに悲しい音がするものなのだと初めて知った。今なら痛いほど兄の気持ちが分かる。

「やっぱ俺、この海が好きだな」
「私も。ありがとうね、連れてきてくれて」
「いや……お礼を言うのは俺の方だよ。名前には全部聞こえてるんだろ?」
「え、何の話?」
「何だよ、とぼけちゃって。あーあ、俺も妹に慰められるようじゃまだまだだなぁ」

夕日に照らされて笑う兄から、少しだけ嬉しい音がしていた。疎ましいこの聴力も少しは役に立ったような気がして、私にも嬉しい気持ちが広がった。


そんな兄との生活は、ある日突然終わりを迎えることとなる。

「本当に出ていくの……っ?」
「うん。もう決めたことだからね」
「でも……!」
「こんな良い条件の会社なんて滅多にないよ。これで名前の学費も心配いらなくなる」

兄は音楽の道には進むことなく、普通の会社員として生きる道を選んだ。

「はい、社宅の合鍵」
「私に……?」
「何かあったらすぐ俺のところにおいで」
「……うん、分かった」
「本当言うと名前をここに置いて行きたくはないんだ。あの人達の酷さは俺が一番良く分かってるから」

私がいるせいで兄は好きな事すらろくに出来ない。それでも優しい兄は一度も文句を言わず、両親から私を守り続けてくれた。
もうこれ以上兄の重荷になってはいけない。一人でだってちゃんとやってみせる。
そう誓った私は、渡された合鍵を使って兄に甘えるようなことは一度もしなかった。


兄と距離を置いていくつかの季節をまたいだ頃、ある知らせが両親の元に届いた。

「お前、昴から病気のことを聞かされてたか?」
「病気?一体何のこと……?」
「スキルス胃癌だってよ。それも末期のな」
「え……?嘘……そんなの、嘘だよね……?ねぇ!」

父の言葉に全身の血の気が引いた。
今にも倒れそうな思いで兄の入院する病院に駆けつけると、そこには変わらない笑顔を浮かべた兄が横たわっていた。

「あー……ついに名前にもバレたか」
「何で……っ、どうして何も言ってくれなかったの……?」
「仮にも俺はお兄ちゃんなんだから、妹に情けない姿なんか見せられないだろ……?」

その笑顔とは対照的に、そして病気の深刻さを物語るように、兄の体は以前に比べかなり痩せ細っていた。
後に知ることになったのは、兄はほとんど仕事を休まず働き続けていたということ。そして体調の変化に気付いていながらギリギリまで我慢し続けていたことだった。
もしも自分が兄の家を頻繁に訪れていたのなら、もっと早く兄の病気を見つけられたかもしれない。後悔してもしきれないほどの気持ちを抱えながら、私は毎日のように兄の病室を訪れた。

「名前、一階のエントラスホールにあるピアノだけど、許可をとれば弾いてもいいんだって」
「本当?じゃあお兄ちゃんのピアノがまた聞けるの?」
「いや、弾くのは俺じゃなくて名前だよ」
「私?そんな、私みたいな素人の演奏なんて誰が……」
「俺が聞きたいんだ。俺、名前の奏でる音楽が世界で一番好きだよ」

それは一度も頼み事なんてしたことがない兄の、最初で最後の願いだった。
他の誰のためでもない、たった一人の兄の想いを叶えるために私は音楽に触れ続けた。

「……名前はやっぱり音楽の才能があるよ」
「だからそんなの私にはないって。本当に才能があるのはお兄ちゃんの方だって何度も言ってるでしょう」
「それは違うって俺も何度も言ってるだろ……」
「じゃあ仮に……仮にもし本当に私に才能があったとしても、目の前のお兄ちゃんを助けることが出来ない才能ならそんなのいらない」
「もう十分助けてもらったよ……。名前のおかげでこうやって最後まで大好きな音楽を聞くことが出来た……。俺、凄く幸せだよ……」
「最後、とか……っ、冗談でも言わないでよ……!」
「……俺、空の上で聞いてるから、ちゃんと名前の音楽を届けてくれな……」
「無理だよ……私一人じゃ出来ないよ……!」
「分かった分かった……じゃあ俺は空から雨でも振らせてセッションするから……」

ずっと苦しい気持ちも悲しい気持ちも音になって私に届いていた。それでも最後の最後まで兄は一度も弱音を吐くこともなく、笑顔だけを私に向けてくれていた。

そうして兄は23歳という若さでこの世を去ることになった。
同時に私の全ては悲しみに支配される。
そのはずだったのに、兄が灰になり空へと上がっていったその日から、私の頭の中には洪水のようにメロディーが湧き出るようになった。
音楽が呪いのように私を縛り付けて離さない。例え一人きりになろうとも、兄の大好きだった音楽までも死なせてはいけない。そんな宿命を背負ったような感覚だった。

それから私は朝から晩まで狂ったようにメロディーを生み出し続けた。
やがて両親にピアノがうるさいと追い出され、ならばと私は外で音楽を生み出せる場所を探して回るようになった。そうして見つけた場所の一つが最寄駅のストリートピアノだ。そしてそこで私は時田さんと出逢い、運命の歯車が回り始めたのだった。





「ごめんね、お兄ちゃん……。雨が降っているのに何も聞こえないの……」

真っ暗な海を眺めポツリと呟く。ここは嫌なことがあった時、兄とよく訪れていた海岸だ。
音楽を生み出せなくなってしまった私を兄は空からどう見ているだろうか。

「あのね……私ね……」

好きな人が出来たの。
カッコよくて優しくて真面目で努力家で……歌って踊ることがとても大好きな人だよ。お兄ちゃんの海の曲も褒めてくれたし、私の音楽も好きだって言ってくれたの。それから嘘みたいな話だけど私のことも……。

“ボクは名前のことが好きだよ。キミの音楽だけじゃなく、キミ自身のことも”

あの日の天くんが鮮明に蘇る。宝物のような時間だった。
もう誰の重荷にもなりたくない。兄の時のように守れなかったと後悔はしたくない。だからこれでいいんだ。

二度と会えなくてもそれで──。


「……名前!」


暗闇の中から聞き覚えのある声がした。
聞き間違えるはずなどない。それは大好きな彼の──。

「天、くん……?」

恐る恐る振り返れば、そこには予想通り天くんの姿があった。
雨の中、傘もささずに現れた天くんの髪から水が滴り落ちている。その様子を見て私は咄嗟に大きな声を上げてしまった。

「何をしているんですか……っ、こんな雨の中……!」
「うん。でもボクなんかよりも──」
「どうして……っ」

「キミの方がひどく濡れてる」

ゆっくりと一歩ずつ近づきながら天くんは言った。それも初めて出逢った日と全く同じ台詞をだ。
蘇るは私が天くんに恋に落ちたあの日。

「……キミがいなくなったって聞いて探しに来たんだ」

天くんの言葉で一気に現実に戻される。確かに父の言葉にショックを受けて、誰にも内緒でここへ逃げてきたことは確かだ。でもまさか天くんが探しに来るだなんて思いもしなかった。

「私……あの」
「時田さんとユキさんから全部聞いた。ボク達のことも全部」

こんな顔をさせたかった訳じゃない。私はただ今度こそ大切な人を守りたかった。

「ごめんなさい……っ、私、また迷惑をかけて……もう天くんには会わないって決めたのに、こんなところまで……っ」
「そうやってキミは一人で全部抱え込む気?」
「だって私のせいで……っ」
「違う。悪いのはボクだ」
「天くんは何も悪くない……!」
「ボクがキミを好きになったのが全ての原因だよ」

濡れた髪から覗く天くんの目が、こちらをじっと見つめている。これ以上近づいてはいけない気がして後ずさると、足元がバシャリと音を立て仄暗い波間に沈んだ。

「名前……っ!」

慌てて駆け寄る天くんが思いきり私の腕を掴み、そのまま私の体を抱き寄せる。こんな風に触れることなど望んではいなかった。だってそんなことしたら、貴方を好きだという気持ちを押し殺した意味がなくなってしまう。

「ごめん……全部ボクのせいだ」
「っ、……違います」
「それなのにどうしたって名前を好きだという気持ちが消せない」
「天……くん」

溢れ出る涙が雨と共に流れていく。

「でも……私、もう何も聞こえないんです……」
「……うん」
「天くんに好きになってもらうような自分は、もうどこにもいないんです……っ、もう何の音楽も生み出せない……!」
「ボクはキミが昴だから好きになった訳じゃない。前にも言ったはずだよ。キミの音楽だけじゃなく、キミ自身のことも好きだって」
「勘違いですよ……っ、だってそんなの……!」

瞬間、私を抱きしめる力がギュッと強くなる。

「例えキミであろうと、ボクの想いを否定することは許さない……っ」

天くんの声が頭の中に響いて、私の体から徐々に力が抜けていく。そして今度は雨で冷たくなっていた体が熱を帯びていく。

「ボクの気持ちが名前を追い詰めるものなら、ボクももう会いたいだなんて言わない。もちろんキミ一人に今回の件を全てを背負わすつもりもない」
「天くん……」
「ただそのかわり約束して」
「何を……?」
「音楽から離れることだけはしないと」

その真剣な眼差しは、亡くなる直前の兄の眼差しを彷彿とさせた。天くんもまた私に音楽を諦めるなと言っている。

「キミにとって今音楽は、キミを苦しめるだけかもしれない。でも音楽が無ければボク達が出逢うこともなかった」

より一層強さを増した雨が私達を打ちつける。

「私の音楽なんて、そんな立派なものじゃありません……」
「どうしてそう思うの?」
「だって、本当はずっと兄のためだけに音楽をやってたんです……っ。兄に喜んでほしくて、ただそれだけだった……!TRIGGERやRe:valeの皆さんみたいに、立派な志なんて私には一つもありません……!」

こんなこと誰にも言うつもりなんかなかった。あまりにも未熟な感情をぶつけて、また天くんに迷惑をかけてしまう。
そんな自分に嫌気がさして堪らないのに、顔を上げると天くんは何故か笑顔を浮かべていた。

「それはボクも同じだよ」
「え……?」
「たった一人の弟が喜んでくれるから歌ってた。最初はそれだけで良かったんだ」

抱きしめられていた体が離され、天くんの力強い瞳が私を捕らえる。

「きっかけは大切な人のためだけだったけど、でも今はそれ以上のものがボク達には存在している。名前もどこかで分かってるはずだよ。ボク達はもうこの世界から離れられないんだ」

天くんの言う通りそして千さんの言う通り、どこかで分かっていた。どれだけ遠ざけようとも逃れられない運命なのだと。
だって私はもう知ってしまったから。自分の曲が愛される喜びを。自分を支えてくれる人達が存在することの喜びを。
そして音楽があったからこそ、一番欲しかったものを与えてくれる人──九条天という人間にめぐり逢うことが出来た。

「ボクはキミに出逢えたことをとても感謝している」
「それは……私も、同じです。天くんに出逢えて、初めてこんなに幸せを感じられた……」
「例え離れ離れになっても、キミを想い続けるよ。キミの作った音楽を聞きながら」
「私の音楽……」
「音楽があればボク達はいつだって繋がっていられる。だから音楽から離れないで」

あぁ、やっと聞こえた……。

塞いでたはずの耳に貴方の音色が聞こえてくる。それは初めて会った時と同じ、世界で一番綺麗な音色。
その音に乗って貴方の感情が伝わってくる。

──私を好きだという音が。

全てを捨てようとしても、この音色が何度だって私を呼び覚ます。

何かを強請ったことなど記憶にない私が、唯一手放したくないと強く願ってしまった。きっともう私は、貴方の音色がない世界で生きられないんだ。

「……っ、離れたく、ないです」
「名前……っ?」
「私、天くんと離れたくなんかない……っ」

今度は私の方から天くんに抱きついてみせた。

「本当は、ずっとこうして、側にいたい……!」
「……名前」
「だって、私は……天くんの歌も、いつも聞こえてくる綺麗な音も、それから天くん自身のことも、全部大好きだから……っ」

みっともないくらい泣きじゃくりながら、自分の思いの丈を天くんにぶつけた。こんな姿、兄にも見せたことはない。
呆れられたとしてもこれで最後になったとしても構わない。もう二度と後悔だけはしたくなかった。

「ごめんなさい……っ、好きになって、ごめんなさい……」
「名前が謝る必要なんてどこにもないでしょ」
「でも、また迷惑かけちゃいます……」
「これが迷惑だとしたら最高に嬉しい迷惑なんだけど」

これもまたいつもと変わらない天くんの音色だ。

「……今のはボクの側にいる覚悟が出来たってことで捉えてもいい?」
「覚悟……はい……」
「離せって言われても、もう二度と離さないよ?」
「私だって離れろって言われても離れませんよ……?」
「望むところ」

天くんが私の顎を掴み持ち上げる。

「名前……好きだよ」

そう言って天くんは濡れた唇を強く重ねた。

「っ……ぁ……」

何度も角度を変えては貪るような口づけに、思わず溺れてしまいそうになる。でもその苦しさが今はとても甘く心地良い。

「キミのことはボクが全力で守るから」

天くんが耳元でそっと囁いた。
何も聞こえなかったはずの私に、再びメロディーが溢れていく。
まだ全てが解決した訳じゃない。だけどこの恋だけはどうしても譲れなかった。



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