第20話 もう何も聞こえない スーツに身を包み、ネクタイをキュッと締める。 前日に全て確認済みではあるが再度スケジュールを確認し、今日やるべきことを頭に全て叩き込み直す。広報活動に営業、諸々の打ち合わせ、やることは山積みだ。そしてそれら全ては僕一人でこなさなければならない。 理由は至って簡単だ。 昴本人は表立った活動を一切しないからだ。だから楽曲制作以外の活動は全て僕が代わりに担う。 仕事に対して辛いとか辞めたいと思ったことは一度もない。何故なら僕は昴の専属マネージャーであることに、誇りを持っているからだ。 そして純粋に僕は昴の音楽と、苗字名前という人物に心底惚れ込んでいるからでもあった。 「おはよう、名前ちゃん」 『おはようございます』 電話の向こうから変わらない名前ちゃんの声が聞こえる。 「約束の時間だけど起きられる?」 『はい』 「あとこの前話した依頼の件、今日が締め切りだけど……どうかな?」 『大丈夫です。ちゃんと用意します……』 「そう、ならいいんだ。後で夕方そっちに行くからよろしくね」 『了解しました』 「……それじゃあまた」 電話を切り終えた僕から溜息がこぼれた。今の電話だけでも、いつもの名前ちゃんと違うと感じる部分は多数に渡る。理由など考えるまでもない。 ――全てのきっかけは九条くんへの恋心だ。 九条くんのことが好きだと言った名前ちゃんは、あの日九条くんから離れることを選択した。 「あんなに泣いてる名前ちゃんは初めて見たな……」 思い出すのは僕の胸で泣き続けていた名前ちゃんの姿だ。正直僕はあの時名前ちゃんに、何もしてあげることが出来なかった。 全力で守ると心に決めたはずなのに、土砂降りの中、僕は本当に無力で情けない男なのだと痛感させられた。 18歳の女の子なら恋をすることなんて当たり前のことだ。けれど名前ちゃんにはそれが許されない。そもそも恋に限らず普通に生活をすることすら許されてはいないのだ。 いくら富や名声を手に入れたとしても、それと引き換えに彼女が犠牲にしてきたものは計り知れない。 そして今後も大人の事情というものに、名前ちゃんの人生は搾取され続けていくのだろう。 「そんなことあってはならないはずなのに……!」 バンっと机を叩く音が響いた。 分かっていてどうにも出来ない僕も同罪だ。 ギュッと握りしめた手を見つめていると、部屋の扉がカチャリと開かれた。 「おい、青山。何の音だ?」 扉を開けた人物は時田さんだった。僕は思わず握りしめていた手を後ろに引っ込めた。 「あ、いえ……何も」 「まぁいい。で、名前とは連絡取れたのか?」 「ひとまずは取れました。ただ……その」 「その、何だ」 「……時田さん、あの、僕はやっぱりこのままじゃ駄目な気がするんです」 「あ?」 「名前ちゃんが何だか壊れてしまいそうで……っ」 ここ数日おかしな点は多々あった。 もちろん九条くんとの件で辛い思いをしたことも、傷つき泣き崩れたことも事実だ。 でも今の名前ちゃんに感じる違和感は、それとは違うまた別の何かだった。常に淡々としていて抑揚のない声は、まるで感情が消えてしまったのではないかと思えるほどだ。泣き喚いていた時の方がよっぽど良かったかもしれない。 それに名前ちゃんはどれだけ忙しくても、依頼された曲を締切当日に提出したことはない。僕が催促などせずとも、必ず仕上げ自ら報告してくれた。 「たまたま締切ギリギリだったって話なだけだろ。色々あったのは事実なんだ。そりゃ普段と違って当たり前だ」 「でも……!」 「あいつは全てを捨ててこの世界で生きてんだ。今更こんなことで壊れるかよ」 時田さんの言葉に僕は反論の言葉を呑み込んだ。 思い出すのは名前ちゃんがこの世界に入った当時のことだ。15歳の少女が生み出す音楽はこの業界だけではなく、あっという間に世間を巻き込み、そしてそれは様々な形で彼女に影響をもたらした。 中でも一番影響が大きかったのは金銭問題だ。 昴の音楽は莫大なお金を生み出し、時としてそれは同等の欲望をも生み出していった。 『あの子は私達の娘なのよ!?』 『そう仰られましても、これは名前本人の意思ですので』 『あの子が親である私達に、二度と関わりたくないだなんて言うはずないわ……!そうよ!あんた達が唆したんでしょう!?』 『そんなことは……』 『こんなはした金で引き下がるものですか!』 その中でも金に対する執着を一番みせたのは、名前ちゃんの両親だったという。親が子の稼いだ金を食い潰すなんてのは、芸能界ではよくある話だ。 元々名前ちゃんの家は金銭絡みで揉め事が耐えなかったこともあり、名前ちゃんも時田さんもこうなる事は予想していたらしい。そのうえで名前ちゃんは両親と縁を切ることを選び、時田さんは手切れ金と称して、一般人にとっては大金と言えるお金を用意した。 『あの人達、納得してくれました?』 『ああ。予定の倍の金額で、やっとな』 『……そうですか。じゃあ私は何が何でも売れて、時田さんにお金をお返ししなきゃですね』 『心配すんな。お前は絶対に売れる』 僕は名前ちゃんの両親に会ったこともないし、これらは全て時田さんから聞いた話でしかない。 幼少期から家庭環境に恵まれなかったこと、追い討ちをかけるように突然訪れた実兄の死。それらが名前ちゃんの口から語られることはあまりなかった。 でも僕は知っている。 名前ちゃんが時々、憂いを帯びた表情をする瞬間を。 『名前ちゃん、来月はもう少し休みを取ったらどうかな?』 『どうしてですか?』 『ここ最近働き詰めだからさ。ゆっくり旅行でもどう?ほら、この前海外に行きたいって言ってたし』 『うーん……でも今は曲を作っていたいんですよね』 多額の印税を手にしても名前ちゃんはそれを散財するどころか、生活はより一層忙しくなり、制作部屋に籠もることが増える一方だった。 『私には音楽しかないから……』 家族も友人も普通の生活すらも、全てを投げうって自分は音楽を選んだのだと。きっとそうやって口に出すことで、自分に言い聞かせていたのだと思う。 その瞬間はいつだって悲しそうな表情を浮かべていた。 『あれ、青山さんから苦しい音がする』 違う。本当は君からその音がするはずなんだ。 だから僕も苦しくなってしまうんだ。 『そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。ちゃんと働きますから、私』 だからそんな風に無理して笑顔を浮かべないでほしい。そうされると、いつか名前ちゃんが消えちゃう気がしてしまうから。 「あの、名前ちゃんと九条くんのこと……もうどうにもならないんですか?」 「あ……?」 「時田さんだって気づいていましたよね!?最近の名前ちゃん本当に楽しそうで、才能にだってまた一つ磨きがかかっていました!僕はそれを名前ちゃんが外に出たことによるものだと思っていたけど、実際は違った……!それはきっと九条くんが──!」 言いかけたところで、時田さんが僕の胸倉を思い切り掴む。息苦しさから思わず僕は言葉を詰まらせてしまった。 「テメェはうちと向こうの事務所を潰す気か?」 こんな時田さんは見たことがなかった。有無を言わせないほどの威圧感に押し潰されそうになる。 「この際あいつらが好き合ってることなんかどうでもいいんだよ。問題はそれがリークされてるってことだ」 「ぐ……っ」 「昴とTRIGGER、どちらも事務所の稼ぎ頭だ。こんなくだらねぇスキャンダルに潰される訳にはいかねぇ」 「くだらないってそんな言い方……!じゃあ名前ちゃんは恋することすら許されないんですか……!?」 このまま逆らい続ければクビになるかもしれない。それでも僕は僕のやり方で名前ちゃんを守りたい。その一心だった。 「テメェは今の今までままごとでもやってたのか?」 そうやって名前ちゃんを皆で守ってきたはずだ。 時田さんだって名前ちゃんを娘のように可愛がっているって、そう思っていたのに──。 「テメェの仕事は昴の活動を全面サポートすることじゃねぇのか?活動に支障が出るんなら、家族だろうが恋愛だろうが全て排除するのもテメェの仕事だ」 「そ、んな……」 「いいか青山。昴はビジネスだ。それを忘れんじゃねぇ」 そう言って去っていく時田さんの背中に、僕は何の言葉も言い返せなかった。 ──昴はビジネス。 何よりも正論だった。 昴と名乗る名前ちゃんがこれほど大きな存在となってしまった今、彼女の活動には多くの人間の生活が複雑に絡みのしかかっている。 どんなことがあろうと止まることはもう許されない。彼女が辞めたいと言ったところで、そう簡単に辞めることすら出来ない。 だからそうなることのないよう僕達周りの人間が……。 「クソ……っ!」 僕は腕を横に振り、やりきれない思いごと壁を殴った。 「結局僕だって名前ちゃんに何もかも背負わせて、世話になってる人間の一人なんだ……」 少しずつ何かがバラバラになっていくような感覚。それは僕を更に深い不安の渦へと陥れていった。 ◇ 時刻は夕方、名前ちゃんのマンションを訪ねる時間を迎えていた。 僕はいつも通りICカードをかざし、名前ちゃんのいる部屋へと向かう。きっといつもみたいに作業部屋に籠もっているのだろう。そんな想像をしながらも、扉に触れる僕の手には汗が滲んでいた。 「……名前、ちゃん?」 しかし予想外にも僕の視界に広がったのは、真っ暗な室内だった。 電気もつけないでどうしたんだろう。本当に籠りっぱなしだったのかな。 名前ちゃん、ともう一度名を呼びながら足を進めていくも、リビングに彼女の姿はなかった。 となればやはりこの部屋だ。 「名前ちゃん、入るよ?」 数回ノックした後、僕はゆっくり作業部屋の扉を開けた。 そしてすぐに僕は安堵の胸をなでおろした。グランドピアノの前に座る名前ちゃんを見つけたからだ。 「まだ作業中だったかな?ご飯は食べた?まだならこれから僕が作、って……」 一瞬で言葉を失ってしまった。 じっと鍵盤を見つめる名前ちゃんの顔を覗きこめば、彼女は何も発することなく、ただただ涙を流していたのだった。 「名前ちゃん……っ、一体どうしたの……!?」 その涙はあの土砂降りの日とはまるで違って、とても静かなものだった。 「青山さん……私、曲が作れないんです」 「……そ、そっか!よし、それなら僕が何とかして締切を延期させてもらうよ!あとどれくらいあれば……っ」 「違う、違うんです……」 「え……?」 「……音楽が何も流れてこないんです」 「名前、ちゃん……?」 「あんなにたくさん聞こえていた音色が何も聞こえない……!」 一体何を言っているのか。 状況が上手くのみ込めない。 ただ一つだけはっきりしているのは、目の前の名前ちゃんが絶望の淵に立たされているということ。 携帯を起動させる手が震えている。 僕はきっと今、大切な何かを失いそうになっている。それを本能で感じている。 『おう、何だ青山。謝る気にでもなったか?』 「…………時田さん、大変です」 『あ?どうした』 「名前ちゃんが……名前ちゃんから音楽が……」 私には音楽しか残されていない、と彼女は言っていた。 じゃあその音楽すらも彼女から取り上げてしまったら、一体どうなってしまうのだろうか。 『千をそっちに向かわせる……!お前はそのまま名前についてろ!』 ◇ 時田さんとの電話の後、僕はずっと名前ちゃんの横に付き添っていた。何も言葉を交わすことなく、いや、言葉なんて交わせる状態じゃなかった。 ただただ名前ちゃんの手を握り続けることしか僕には出来なかった。 しばらくすると僕の携帯から呼出音が鳴った。相手はRe:valeのマネージャーである岡崎だ。それはRe:valeの千さんが、このマンションに着いたことを知らせる電話だった。 時田さんの指示通り、千さんを室内へと通し名前ちゃんの元へ連れていく。 「名前……?」 「千、さん……?どうして、ここに……」 「……君が泣いてるって聞いたから」 「……っ、千さん……っ!」 名前ちゃんは千さんの胸の中で、声を押し殺しながら泣き続けていた。 昴に立ち止まることは許されない。 けれど昴から音楽が生まれなくなった場合はどうなるのだろう。 彼女の才能が無限に溢れ出るとでも思っていたのなら、とんだ勘違いだ。 結局僕達は音楽しか残されていなかった名前ちゃんを支えたつもりになって、その音楽さえも奪ってしまったのだった。 [ back ] |