第10話 貴方の音色に包まれて 前編 自分が何をしてしまったのか。頭が真っ白になって分からなくなってしまった。 “あんたが、昴……?” 八乙女さんにかけられた言葉で、やっと事態が把握出来た。 ──昴の正体は明かすな。 散々言われてきたことだったのに、ちっぽけなプライドが邪魔して、こんなにも簡単に約束を破ってしまった。 その場にいられなくなった私を、青山さんが引き止めようと追いかけてくる。けれど私は青山さんの声に振り返ることなく、そのまま控室に逃げ込み鍵をかけた。 「名前ちゃん……?名前ちゃん……っ!」 「……ごめんなさいっ、私」 「大丈夫。大丈夫だから、落ち着いて話をしよう」 「名乗ったらいけないって言われてたのに、私……なんて事を……!」 「大丈夫だよ。名前ちゃんは何も悪くないから」 青山さんが扉の向こうから、何度も私を宥めてくれている。それでも私に扉を開ける勇気など、ありはしなかった。 今まで納得のいかないレコーディングをしたことだって何度もある。そのたびどこかで上手く折り合いをつけてきた。 私の求めること全てに、他人が応えることなど出来ない。そんなのは無理だと諭され続けて、こだわりを持つことが正解じゃないことも知った。 それなのに今日のTRIGGERに対してだけは、どうしても譲れなかった。 だって彼等が見せてくれた最高の夜を知ってしまったから。あの日体中で感じた音を、私の楽曲でもう一度届けたかった。 私の想いはそれだけだった。 「名前ちゃん……っ?」 それでもこだわりなんかすぐに捨てれば良かった。そしたらこんな事にはならなかったのに。 青山さんの言う通り落ち着けば大丈夫。ちゃんと皆に謝って許してもらって……それからレコーディングを再開して──。 そんな簡単に話が進むだろうか。 今まで自分の正体を隠し通してきたけれど、バレた時の事なんて考えもしなかった。 時田さんはどう考えているんだろう。もしかしたら、もうこんな風に音楽に携われなくなるかもしれない。 扉を叩く音も大きく脈打つ心臓も、私の耳に大きく響く。その全てがノイズとなって聞こえ始めていた。 何も聞きたくない。 耳が痛い。塞ぎたい。 でも音の無い世界で私はどうするの?どうやって生きるの? だって私にはもう音楽しか残されてないのに──。 ──コンコン。 耳を塞いでしまおうと思った瞬間だった。青山さんが扉を叩く音とは違う音階。別な誰かが叩いたことは容易に理解出来た。 次に聞こえたのは彼の声。 「ドアを開けてくれませんか?」 綺麗な音、と何度も思った彼の声色だった。 「えっと、昴さん……って呼んでいいのか分からないですけど」 間違いない。九条さんだ。 九条さんが扉の向こうにいる。 彼の声が聞こえた瞬間から、先ほどまでのノイズが一気に消え去っていた。 そして今の九条さんの言葉で分かったことがある。九条さんは私の素性を知った上で、ちゃんと知らないフリをしてくれている。 その優しさに気づいてしまったせいなのか、何故か今になって涙が溢れてきた。 お互い何も発さず静まり返ってしまう。すると九条さんがもう一度私に問いかけた。 「ねぇ。聞こえてる?」 今度は他人行儀じゃない。電話で話す時のようないつものトーンだった。そしてその声が、私の心を一番落ち着かせてくれたのだった。 九条さんの呼びかけに、私はゆっくりと扉を開けた。扉の向こうには九条さんと青山さんが並んで立っていた。 青山さんがとても驚いた表情を浮かべているのを見て、涙を拭い忘れていたことに気が付く。 私はすぐに指先で目尻をこすり、涙を拭った。 「名前ちゃん……開けてくれて良かった……」 「……ごめんなさい」 私を一番心配してくれて、一番最初に駆けつけてくれた青山さん。彼の優しさに応えなかった自分が恥ずかしく思えて、上手く目を合わせることが出来なかった。 沈黙が流れる中、九条さんがある提案をした。 「すみません。彼女と二人でお話してもよろしいですか?」 その言葉に青山さんが再び驚いた表情を見せる。 「え!?二人で……!?そ、それはちょっとどうなのかな……!?」 「ほんの少しでいいんです。お願いします」 「九条くんにそう言われても、そこはほらやっぱり色々あれだから!ね、名前ちゃん……!」 「私は、二人でも……大丈夫です」 考えるよりも言葉が先に出ていた。九条さんになら事のいきさつも自分の気持ちも、全て包み隠さず話せる気がする。それに八乙女さんと十さんのことも話したい。私が言うことじゃないけど、多分この場は九条さんが一番適任なんだと思う。 「私も……九条さんとお話がしたいです」 「は!?名前ちゃん!?ちょっと何言って……っ!」 「ありがとう」 勝手に話を進める私達を、青山さんは必死に制止していた。 青山さんが九条さんの前に立ちはだかる。いつだって私なんかのために一所懸命になってくれて、青山さんには感謝してもしきれない。 「青山さん。大丈夫です」 「でも、僕は!」 「大丈夫ですから……私を信じて下さい」 もう一度目を見てお願いすると、青山さんは大きな溜息をついて扉の前から移動した。 「分かった……分かったよ。名前ちゃんがそこまで言うなら……九条くん。ご迷惑をおかけしますが、どうぞよろしくお願いします」 「ありがとうございます」 そう言い残して青山さんは、一時的にこの場を離れてくれた。 引きかえに九条さんが私の控室へと足を入れる。とりあえず九条さんには小さなソファに座ってもらい、私は向かい側に置かれたパイプ椅子に腰を下ろした。 向い合わせになり視線がぶつかる。 「……TRIGGERの皆様には、大変ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」 深く頭を下げ改めてお詫びを伝える。するとすぐに頭上から九条さんの声が聞こえてきた。 「まさかあんな簡単に正体をバラすとは思わなかったよね」 あぁ、いつもの九条さんだ。 その声は怒ってる訳ではないようだった。優しくとても落ち着いた声だ。 「……面目ないです。まさか自分がこんなおっちょこちょいだとは……」 「そう?今さらじゃない?ボクはキミに会うたび、そういう面しか見てない気がするけど」 確かに言われてみればそうだ。 ぶつかって楽譜を落としたり、自ら墓穴を掘って昴だとバラしたり、九条さんとはそんなことばかりだ。情けない自分しか見られていないとは情けない……。これじゃあ九条さんに呆れられてもしょうがない。そう思ったら目を合わせるのも恥ずかしくなってきた。 「一つ聞いておきたかったんだけど、昴の正体を隠してるのは苗字さんの意思?」 「いえ……時田さんが活動前に決めたことです」 九条さんが小さくなるほどね、と呟いた。 何がなるほどなのか、さっぱり分からない。 「つまり時田さんの策略ってことでしょ?正体不明というミステリアスさが世間の好奇心を煽ると同時に、まだ幼いキミを守る手段にもなる。さっきのキミのマネージャー?の様子からしても、キミを守るっていう後者の意図のが強そうだけど」 九条さんと再び視線がぶつかる。 「それで、楽と龍にも正体がバレた訳だけど、キミはこの後どうするの?レコーディングは続けるの?」 「続けたいとは思ってます……けど、八乙女さん達も怒らせてしまったままですし……っ」 「楽のことは気にしないでいいよ。暑苦しい男なだけだから」 「いえいえ!そんな訳にはいきませんよ……!」 何だろう。今一瞬だけ九条さんの声が変わった。怒ってる、とは違うけど反発したような声だった。 「そもそも私のこだわりが強すぎるせいで、皆さんに迷惑かけて……そのうえ自分で昴だって暴露して混乱させて、さらに泣いて引き籠って、しまいには九条さんに宥めてもらって、本当どうしようもないですよ私……!」 改めて言葉にすると、こんなに恥ずかしいことはない。勝手に墓穴を掘って勝手に落ち込んで、一体何をしているのやら。 すると九条さんはクスっと小さく笑って 「駄々っ子の相手は得意だよ」 と言った。 駄々っ子と言われ、変に顔が熱くなった。 何とも的確な言葉だ。 「でもキミが謝るようなことは、何一つないんじゃない?」 「え……?」 「正体を明かしてしまったことについては、時田さん達はどう判断するのかは知らないけど。少なくともボク達TRIGGERにとっては、迷惑な訳じゃないしね」 「で、でも」 「それに楽も龍も、大事な秘密を誰かに話すようなタイプじゃないよ」 その点に関しては強く共感出来た。先ほどのレコーディング風景からも、二人が真面目で誠実なことはひしひしと伝わっていたからだ。 「レコーディングに関しては、キミもプロとして譲れないものがあっただけでしょう?」 「……それは確かにそうです」 「だけど僕達もプロなんだ」 九条さんがこちらをじっと見つめる。その表情はとても真剣なものだった。 「キミの素晴らしい楽曲を、待っていてくれるファンの皆に届けたい。そのためならどんな努力もする。ボク達もその信念は譲れない」 お互い目指してるものは一緒だ。だからこそ共鳴し合うし、ぶつかり合うこともある。 「良い作品を作りたいという気持ちは一緒ですね」 「そう。お互いにまとまってないだけでね」 二人とも感覚だけで言葉足らずの私の指示に、一所懸命応えてくれていた。私の楽曲をより良い物にしようと努力をしてくれていた。 「キミが昴だと分かったからこそ、お互いに歩み寄ることが出来るんじゃない?」 九条さんが私を諭して導いてくれる。 失敗したからって逃げ出さずに、ちゃんと向き合うべきだ。素性は明かしてしまったからこそ、八乙女さんとも十さんとも本音で向き合うことが出来る。 こうして九条さんみたいに──。 「私、お二人とちゃんと話し合います。自分のことも気持ちも全部、自分の口から伝えます。そしてもう一度、TRIGGERのレコーディングを再開させます」 「うん、いい子」 九条さんはまるで、弟や妹を宥めるかのようなトーンで言った。 私にも本当の兄がいるけど、兄とはまた少し違う優しい音色。とても心地良くてどこか安心する。 でもこのままここにいても事態は改善しない。 「九条さん、お二人の元へ急ぎましょう」 扉を開けると、少し離れた場所に青山さんが立っていた。私達の様子を見てこっちに駆けつけてくれる。青山さんのことだ。きっと私達の会話が聞こえない距離で、でも私を心配して待機してくれていたんだと思う。 「心配かけてごめんなさい。九条さんと話をさせてくれてありがとうございます」 「……落ち着いたみたいで良かった」 「これから八乙女さんと十さんとも、ちゃんと話をしてきます」 「レコーディングはどうするの?」 「絶対今日中に終わらせますので、皆さんにはもう少し待っててもらって下さい」 音楽家昴として出来ることを。 聞こえるもの全てをTRIGGERの三人に説明しよう。 ◇ 九条さんに連れられて、TRIGGERの楽屋へ向かう。扉の前に立てばさすがに緊張するかと思ったけど、不思議と心は落ち着いていた。 ノックの後に九条さんが入るよ、と一声かけて扉を開けた。 「天……!どこに行ってんたんだ!?」 「おい天、さっきマネージャーが──って、あんた……」 最初に私の存在に気づいたのは八乙女さんの方だった。何か発さなければならないのに、互いに一気に気まずい雰囲気になる。 「彼女が二人と話がしたいって」 そんな私達を見かねて、九条さんが間を取り持ってくれる。 「あ、ああ……!それはもちろん!いいよね?楽」 「ああ。構わないぜ。だがその前に──」 話の途中で八乙女さんが私に近づく。何を言われるのか思わず身構えてしまう私に、八乙女さんは話を続けた。 「さっきはすまなかった。女の子相手だっていうのにムキになりすぎた」 「いえ……っ、それを言うなら、私の方こそ、上手くレコーディングを進められなくてごめんなさい」 「あんたは、その……えっと」 「私が今回TRIGGERに楽曲を提供した昴です。本当の名前は苗字 名前と言います」 私も八乙女さんと十さんに頭を下げる。そして改めて自分が昴だと言うことを口にした。 何だろう。頭も視界もとてもクリアになったように思える。自分が誰かを知ってもらえたら、こんなにも単純で話が早いなんて。 「……驚いたよ。昴はてっきり男性だと思ってたから」 と十さんが言った。 昴に関して男性だという噂や、嘘の情報が飛び交っていることは、私も耳にしたことがある。時田さんの言うミスリードが、実際上手くいっていたということなのだろう。 「歳はいくつなんだ?」 「18です」 「天と同じか……それなら尚更俺は、年下相手に大人気無いことをしたな」 「それを言うなら私は目上の方に生意気なことばかり言って、申し訳ないことをしました」 互いの謝り合う姿に互いが小さく笑う。そんな八乙女さんと私の様子を見て、十さんも小さく笑った。 「それでこの後のことはどうするの?」 九条さんが再び間に入り話を進めてくれる。 「その件ですが、私からレコーディングに関するお話をしてもいいいですか?」 「あんたが昴だって言うなら俺からもお願いしたい」 「俺もこの曲を歌うにあたって何を求めているのか、何が駄目なのか、もっと具体的に教えてもらいたい」 ああ、やっぱりとても真面目で誠実な二人だ。こんなにも真っ直ぐな気持ちが、音となってぶつかってくる。 欲しかったのはTRIGGERのこの音色。 「その前に私自身の話を少しさせて下さい」 三人がじっとこちらを見つめる。 私は自分が昴としてどう活動してきたか。この曲はどんなイメージで、どんな風に制作してきたか。そして自分には人には聞こえない音色が聞こえる──超聴覚について、包み隠さず話をした。 話を続けていると、十さんが超聴覚について一つの疑問を投げかけた。 「それは何を思ってるか声が聞こえるってこと?」 いきなりこんな話をしたら誰だって警戒すると思う。心の中を覗かれているようで、不快な気持ちになるのは普通のことだ。過去にはこんな自分が嫌だと拒絶されたことだってある。 「音楽というか、音や色で伝わってくるだけで、言葉が聞こえる訳ではありません。楽しいとか悲しいとか嘘をついてるとか、それが他の人より察知しやすいといいますか……」 「なるほど……そっか。そんな風に人より多くのものが聞こえるとなれば、大変な思いもたくさんしてきただろうね」 「ああ。確かに龍の言うとおりだな」 「感情まで聞こえるなら特にね」 しかしTRIGGERの三人は全く拒絶することもなく、それどころか私の心配までしてくれた。 何だか思わず目頭が熱くなってしまう。 「あ、でも悪いことばかりではないんです。たくさんの音に触れるからこそ生まれるメロディーもありますし、細かい音や色や感情や、他の人には分からない部分まで、音楽を楽しめちゃうお得感もあったりするんですよ」 ほら。今もこうして三人の温かい感情が、よりはっきり伝わる。 「先日TRIGGERのドームコンサートを拝見しました」 「この前のコンサートを?」 「はい。あの日誰よりもTRIGGERの音楽全てを聞いて、全身で感じ取って楽しんだのは、私自身だと思っています」 与えられたこの聴力を呪いながら生きたくはない。誇りとして生きているからこそ、貴方達の音楽に一番奥底まで触れたことは、誰にも譲りたくなかった。 そしてあの日を踏まえているからこそ、今日のレコーディングの違和感を妥協出来なかった。 「あの時感じた皆さんの強い気持ちや一体感が、今日は感じられなかったんです。どれだけレコーディングしても、三人の声が綺麗に重ならない。お互いの存在を意識して歌っていない気がして……」 「……そういうことか」 「生意気なことばかり言ってごめんなさい」 「だからあんたが謝ることじゃないだろ」 「TRIGGERの中で何か変化があったんですか?」 今日私がずっと感じていた疑問をストレートにぶつける。するとどういう訳か、三人ともそっぽを向いて無言になってしまった。 気まずい空気が流れる。もちろんそれをよりハッキリと私の耳は捉えていた。 「変化があったっていうか……むしろいつも通りなんだけどね……」 十さんが苦笑しながら言葉を濁す。 九条さんと八乙女さんの音が……凄いことになってる気がしないでもない。それに触れていいのか迷っていると、八乙女さんの方が先に口を開いた。 「名前の前では取り繕っても無駄ってことだな。二重人格のクソガキ」 それも私ではなく九条さんに向けて言い放った。その場の空気がさらに凍りつく。 「……その前に、なに馴れ馴れしく呼び捨てにしてるの?」 九条さんの声がワントーン下がる。八乙女さんに言い返した言葉で私も今気がついた。確かに今呼び捨てだったような……? 「確かにいきなり呼び捨ては失礼だぞ楽。女の子なんだから、ちゃんと名前ちゃんって呼んであげないと」 「それも違うでしょ」 あれ、何だろう……どんどん不穏な音が……! 「あ、あの……私は呼び捨てでも何でも全然構いませんよ?」 この流れを止めようと思って言った言葉が、更に二人を加速させた。 [ back ] |