はじまりはじまり 1


生まれ育った里は、空に一番近い場所。ずっとそう聞かされてきた。本当に標高が高い場所にあったのか、その言い伝えが事実なのかは、実際には分からない。
その里はそびえ立つ山々やたくさんの自然に囲まれた場所で、時には深い霧に里全体が覆い隠されてしまうこともあった。
そういった地形や天候のせいなのかは分からないけれど、この地に外部の者が訪れることは滅多になかった。

「名前。はい、おにぎり」
「ありがとう。ふふ、私お母さんのおにぎりが大好き」
「美味しさの秘訣は、里に伝わる塩加減と握り方よ」
「その秘訣、今度私にも教えて」

母の作ってくれたおにぎりと、体に似つかわしくない刀を抱えて、名前は玄関へ向かう。

「何だ名前。こんな朝早くから稽古か?」

見送りをする母の隣に、まだ寝癖がついたままの父が姿を現した。

「師匠が朝早く来てもいいって!」
「名前は本当に熱心だなぁ」
「だって早く宙の呼吸を覚えたいんだもん」

いってきますという大きな声と共に小さくなっていく名前の姿を、両親はいつも笑顔で見送っていた。

「あの子、素質があるみたいね」
「名前は女の子なんだから、無理して刀を握る必要はないんだけどなぁ……」

父は溜息をついて、いつもの小言を口にした。

里に生まれた男児は、皆揃ってある剣術を学ばされた。名前が師匠と呼ぶその人もまた、次の世代へ剣術を繋ぐための育手であった。

「いいか二人共、大事なのは呼吸と心だ。特に宙の呼吸を会得するには森羅万象と繋がるための心が必要だ」
「穏やかに……心に凪を」
「そうだ。名前」
「ちぇっ。女のくせによ」
「こら!お前はそういうことを言ってるから全然成長しないんだ!」

もちろん女の子が教わってはいけないきまりなどない。里では珍しかったけれど、名前も立派な継承者の一人だった。こうして隣に住む幼馴染の男の子と修行をする毎日が、名前は何よりも大好きだった。

師匠はたくさんのことを教えてくれた。
呼吸には様々な流派があり、全ては日の呼吸から始まったということ。その呼吸を使い鬼と対峙してきたこと。そして人々を鬼から守り退治するために作られた、鬼殺隊という組織があること。

「だからどうして俺達は鬼殺隊じゃねぇんだよ?」
「この流派は鬼を殲滅することが目的じゃない。鬼を理解し鬼と話し合い、最終的には共存していくことが目的なんだ。だから鬼殺隊とは違う」
「私達は鬼と仲良くするってこと?」
「ああそうだ」
「……でも鬼は人を食べるんでしょう?」

名前の純粋な質問に、師匠は苦笑した。

「そうだな……鬼は人を食べる」
「それなのに仲良く出来るの?」

師匠は幼い二人に、自身の昔話をしてみせた。
師匠には今の名前達のように、一緒に宙の呼吸を学んだ幼馴染がいたそうだ。ただ彼は里に受け継がれている、鬼と仲良くするという考えを、どうしても理解出来なかった。そのため彼は鬼殺隊に入隊する道を選んだという。この里から鬼殺隊の隊士となった者は、後にも先にも彼だけらしい。

「その人はどうなってしまったの?」
「さぁ……音信不通になってしまったからね……。里にも戻ってくることはなかったから、接点は一切なくなってしまった」

その時師匠はとても寂しそうな表情を浮かべていた。今にして思うと大切な人を失った悲しみを、この時師匠も背負っていたのだろう。

「お前達に毎日剣術を教えておきながらあれだけど……二人共、自分の思う道を選んでいいんだ。どちらが正しいかは俺にも分からない。鬼と仲良く出来るのかだって正直分からないんだ」

宙の呼吸を受け継いでも、鬼殺隊に入隊しても、刀を捨てて普通に暮らしても、どんな道でも構わないと師匠は言った。

「お、俺……この先、どうしようかな……?」
「私はこのまま修行を続ける」
「おい……っ」
「だって強くなって、大切な人を守れる自分になりたいから」

師匠の大きな手が、名前の頭を優しく撫でる。
鬼がどんなものなのか、本当に存在するのかも分からない。だけどいつ里に鬼が現れるかだって分からない。その時何も出来ない自分ではいたくないし、鬼と争わずに共存出来る道があるのならそれを探したい。

「鬼だって元は人間なんだもの」

だから傷つけずに済むなら、それにこしたことはない。当時の名前はそう思っていた。

宙の呼吸は基本的に、攻撃を主体とした剣技ではなかった。相手の攻撃を回避するものと、攻撃から身を守るもの。全ての型はその二つで出来ている。

「とにかく壱ノ型を極限まで極める。これが基本だ」

壱ノ型は相手の全ての技を無効にする技。壱ノ型だけじゃない。宙の呼吸を取得するために必要なのは、殺意や闘志を一切無くすことだった。鎮めた心と磨き上げた超神速の剣技を合わせたもの、それが宙の呼吸だ。

「森羅万象と心を通わせろ。そうして自分とこの大いなる自然を融合させ、一体化させるんだ。そうすれば邪念や闘志、全てが無になり宙の力を扱えるようになる」
「はい!」
「宙は全てを包み込む。日も月も、ありとあらゆるものの全てをだ」

師匠の教えはその一点張りだった。それを数年に渡り、名前はひたすら修行を繰り返した。毎日毎日誰よりも努力し続けた。

「宙の呼吸の始まりは女性だったと言われている。その方はどんな時も笑顔を浮かべて戦っていたそうだ」
「笑顔?」
「ああ。名前に素質があるのも、もしかしたらその人の血を濃く受け継いでいるのかもしれないな。里に流れる稀血のように……」

宙の呼吸と里の者だけに受け継がれる稀血が、この里の秘密だった。それらをいつか出逢うであろう鬼と戦うために磨き上げた。
そうして子供だった名前達も少しずつ大人へと近づき、季節は春を迎えていた。

「なぁ名前」
「ん?なぁに?」

名前は相変わらず幼馴染である男の子と並んで修行を続けていた。背丈はとっくに追い越されていたから、名前を呼ばれた名前は、彼を見上げる形となった。

「……お前さ、守りたい奴っている?」
「んー。里の皆」
「あぁいや、そうんじゃなくてさ……守りたいっていうか、大切っていうか……」

口籠る彼に名前が不思議そうに覗き込む。そんな名前を見て、彼は照れくさそうに顔を背けた。

「そういう自分はいるの?」
「それは……その、あれだよ」
「あれって?」

赤く染まった顔は夕日のせいではない。そのことにもちろん名前は気がついていない。それがとてつもなくもどかしいのだけれど、気持ちを伝えるための心の準備が、まだ彼には出来ていなかった。

「……明日、時間あるか?」
「うん。というか明日も一緒に師匠のところで修行じゃない」
「お前に話したいことがあるんだよ」
「話したいこと?今じゃ駄目なの?」
「……本当鈍いよな。こんだけ一緒にいんのによ。とにかく明日絶対に伝えるから……じゃあな!」

そう言って彼はいつもの帰り道を、一人駆け足で行ってしまった。彼が伝えたかったことが何だったのか。それを知ることはもう二度と出来ない。この日の夜こそ、いつか来ると思われていた、鬼が里に現れた夜だったからだ。名前の全ては、この夜に奪われてしまったのだ。


「鬼だ!鬼が出たぞ……っ!」

夜も深くなった頃、里に鬼の出現を知らせる声が響き渡った。名前もすぐさま布団から飛び起きて、日輪刀を握りしめる。
すぐに師匠のところに……っ!
全速力で玄関へと向かう。けれどそれを阻んだのは、名前の父親だった。

「待て……!名前!」
「お父さん!?どうして……っ!」
「外の様子がおかしい……!」

名前を制止させたまま、ゆっくりと外の様子を伺う。父もまた名前同様、日輪刀を握っていた。家族三人息を潜めていると、次第に父の手がカタカタと震え出したのを、名前は見逃さなかった。

「お父さん……?」
「何、だ……あいつ……っ」
「何?一体何があったの……!?」

再び外を覗こうとする名前の体を、父が今までにないくらいの力で押しのけた。その反動で名前は後ろへ尻餅をついてしまう。
一体何が起こったというのか。
もう一度父に問いただそうとするも、そんな状況ではないことは一瞬で理解出来た。こんな風に顔面蒼白の父を見たのは初めてだったからだ。

「名前を隠せ!」
「あなた!一体何が……!?」
「いいから早くしろ!」

聞いたこともない父の怒号に身震いした。父の命令により、母が名前を抱え上げる。そして母は嫌がる名前を、部屋の奥の押入れへと押し込んだ。

「お母さん……っ!」
「……ここに隠れていなさい!」
「嫌だ!離れたくない!」
「息を潜めて全集中の呼吸常中を!早く!必ず宙の力が貴方を守ってくれるから……!」
「うう……っ!」
「そう。いい子ね」

ただならぬ父の様子と変わらない母の笑顔に、極限の恐怖と安堵が入り混じる。もう一度母の名を呼ぼうとした時には、押入れの扉は閉められた後だった。
母は剣術など全く出来ない。それなのにどこへ向かったというのか。いや母には父がいる。父もまた宙の呼吸の使い手だ。私なんかよりずっと力もある。

「うおおおおーー!」
「あなたぁーー!」
「ぎゃあああっ……ああ!」

私だって毎日修行したんだ。鬼と仲良くするために分かり合うために、ずっとずっと頑張ってきた。早くここから出て鬼と……鬼と──。

「逃げろ……っ!早、く」
「あ……やめ、……っぎゃああ!」

父と母の断末魔を聞きながら、名前はそこから一歩も動くことが出来なかった。いくら修行をしたからとて、命のやり取りをしてきた訳じゃない。名前のやってきたことなど、所詮真似事にすぎないのだ。
怖くて怖くて怖くて。何も出来なかった。
息すら出来ないほどの狂気と殺意に突き刺され、名前も襖の向こうの鬼に殺されるのだと、死を覚悟した。

「何故、鬼にならない」

一気に静まり帰った部屋に、父と母以外の声がする。
間違いない。

──鬼の声だ。

その声は身も心も凍ってしまいそうな程、ひどく冷たい声だった。名前は恐怖で全身が震え出しそうなのを必死に抑えた。息をすることすら出来なくなりそうだったけど、母に言われた全集中の呼吸常中を本能で続けていた。
頭の中は真っ白だった。何が起こったのか。考えることすら放棄していたのだと思う。
するとひたりひたりと足音と共に、鬼の気配は遠ざかっていく。自分に気付いていないのか、それとも何か別の目的があるのか。

今のが、あれ程までに恐ろしいものが鬼だというの?お父さんとお母さんはどうなったの……?早くここから出て鬼と戦わなくちゃ。心を鎮めて森羅万象と心を通わせて宙の呼吸を使うんだ。
早く……ほら、動か、なきゃ……。

極度の緊張状態のせいか、極限の状況で全集中の呼吸常中をし続けたせいか。名前はそのまま押入れの中で、気を失ってしまった。





次に目が覚めるまでどれくらいの時間が流れていたのかなど、名前には分かりはしなかった。
ただ一つ。襖を開けた先には、冷たく変わり果てた両親がいる現実が広がっていた。

「お父さん……?お母、さん……」

声をかけても返事はない。体を揺さぶっても反応はない。

「お願い……っ、起きて、ねぇ」

信じがたい光景に、名前は何が起こったのか受け入れられないでいた。そのままの足で外へと向かうと、容赦なく目の前には地獄が広がり続けていた。
家を出てまず最初に目に入ってきたのは、隣家の幼馴染。それも胴体を真っ二つに切られ、死体となった彼の姿だった。

“……お前さ、守りたい奴っている?”
“とにかく明日絶対に伝えるから……じゃあな!”

当たり前に明日が来ると思っていたのに。こんな、こんなことって……。
彼の手に握られたままの日輪刀を見て、何もかもがこみ上げてきた。

「く……っ、うっ……!ううーーっ!」

あまりにも凄惨な光景に、名前は大粒の涙を零し、何度も嘔吐をした。だからと言ってこの現実が消える訳じゃない。里の者は皆、彼と同じように殺されていた。
里全体に漂う死臭。音一つしない静寂。夢なら早く覚めてと何度願っただろうか。自分一人だけ未だに動いているこの心音すら、忌々しくてしょうがない。

本当に自分以外、誰一人生き残ってはいないのか。

そう思った名前の目に飛び込んできたのは、血塗れになった師匠の姿だった。

「師匠……?師匠!師匠っ!」

名前は師匠が横たわる桜の木の下へと、一目散に駆け寄った。

「まだ息をしている……っ!生きてる!師匠!ねぇ、師匠……っ!」

師匠は僅かだが、消え入りそうな程小さな呼吸を繰り返していた。

師匠を早く助けなきゃ……!医者がいるかは分からないけど、とにかく里の診療所に連れて行こう……っ!

師匠を担ごうとしたその時だった。

「…………名前」

か細い声が、名前の名を呼んだ。

「師匠……!師匠分かる!?」
「良かっ、た……お前、生きていたんだな……」
「うん……っ、うん!お父さんとお母さんが……っ、私を、隠してくれて……っ!」

師匠の顔を見た途端、再び大粒な涙がボロボロと零れ落ちた。名前にとっては孤独に打ちのめされそうになっていた心に、光が灯ったような感覚だったのだ。

「そんなことより師匠……っ、今すぐ診療所に行かなくちゃ!」

そうだ。泣いている場合じゃない。涙を拭い師匠の腕を肩にかけようとするも、何故か師匠は名前の体をぐいっと押し返した。

「師匠……っ?」

名前の腕に師匠の血がべとりとつく。目の前に咲く桜の色とは、比べ物にならないくらい真っ赤な色だ。

「俺はもう……ごふっ!助からない……」

その血は師匠の口元も真っ赤に染めた。
一体何を言っているのか。今だって師匠はちゃんと息をしているし、はっきりと言葉を交わしているではないか。

「何……言ってるの?」
「自分でも、よく分かる……っ。俺の命は……あと、少しだ」
「やだっ!絶対に諦めない……!」
「……名前」
「絶対に師匠を助けるから……っ!だから──」
「名前」

先ほどまでのか細かった声が嘘のように、今度ははっきりとした声で名前の名を呼んだ。そしていつもと変わらない大好きな笑顔を浮かべたのだ。

「よく聞け名前……俺からの、最期の言葉だ……」

覚悟を決めたその表情に、名前はもう何も言葉を発せなくなっていた。名前もどこかで分かっていたのだ。師匠の傷が致命傷だということを。

「里を襲った鬼は……あの強さと、様子から言って……っ、鬼の始祖である鬼舞辻無惨で間違いないと思う……」
「鬼舞辻無惨──?」
「里の者を鬼にしようとしたみたいだが……上手くいかなった、ようだ……」

師匠の言葉に先ほどの鬼の言葉を思い出した。

“何故、鬼にならない”

──あれはそういう意味だったんだ。


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