ああ、姦しや 1 とある昼下がりの蝶屋敷。 「驚きましたね。症状はほぼ改善しています」 「本当ですか?」 「相変わらず驚異的な回復力ですね」 しのぶの診断に、名前はほっと胸を撫で下ろした。これなら思ってたより早く任務にも戻れそうだ。 「せっかくなんで、ついでにいつもの採血もよろしいですか?」 「はい。もちろんです」 隊士の診療所としての役割も果たしている、ここ蝶屋敷には、普段から名前もお世話なっている場所であった。よく訪れる理由には、名前の稀血が深く関係している。 しのぶは医学・薬学共に精通した貴重な隊士であるが、貴重という点では名前の稀血も同様である。その血に関してしのぶは、血の解明や応用──例えば鬼を人間に戻す方法に繋がらないか、鬼に対して有効な使い道はないか等、様々な研究を行っていた。 「で。先ほどの話の続きですが、二人は晴れて婚約者になったと」 「一応肩書きとしてはそうなりました」 名前はいつも以上に満面の笑みで、先日のいきさつを説明した。 「今更すぎますけどね。正直今すぐにでも結婚してしまえばいいじゃないですか」 「一応結婚に関しては、鬼との決着がついてからにしようって話になったんです。確かに今と何が変わったかって聞かれたら、正直何も変わってないんですけど……あえて言うなら一つだけ」 「何ですか?」 「今後私が義勇さんの婚約者ですって名乗れる権利を頂きました!」 周囲の誰もが認めるような関係なのに、何を今更そんなこと……と、しのぶが心の中で呟く。 「……今日は死ぬギリギリまで血を抜きましょうか」 「え……!?し、しのぶさん?」 「何だかその幸せいっぱいでだらしない顔を見てたら、無償に腹が立ってきたもので」 「え、え……!?」 なんて冗談はさておき、と付け加えしのぶは話を続ける。 「以前にも、冨岡さんが愛の言葉を囁くことなんてあるんですかって、質問をしたと思うんですけど」 「ありましたね」 その手の話なら今まで何度も聞かれてきた。そのたび真実をちゃんと伝えるのだが、何故かあまり信じてもらえないのが現状だ。 「その冨岡さんがプロポーズするなんて、正直今までで一番想像出来ない話なんですが」 ここまで言われる義勇は、普段自分以外に対してどれだけ口下手なのだろうか。 「私もしのぶ様と同意見です。そういった類の冨岡さんなんて全く想像出来ませんね……正直想像するのも怖いです」 「そんな、アオイちゃんまで……!」 「でもひとまずはおめでたいことですよね!」 「そうですね。おめでとうございます!」 「名前さん、おめでとうございます!」 「なほちゃん、きよちゃん、すみちゃん……!ありがとう!」 続々と集まり出した彼女達は、この蝶屋敷に住みながら、負傷した隊士の治療や機能回復訓練の補佐をしている、言わば看護師のような存在である。 蝶屋敷に来るたびこうして皆で集まり、女子特有の恋愛話をすることもいつもの光景だった。 「で、冨岡さんは名前さんは何と仰ったんですか?」 「俺の妻になるかって言われました!」 アオイからの質問に躊躇なく名前が答えると、皆が揃いも揃って吃驚した顔をした。 「……あの冨岡さんが!?嘘ですよね!?」 「それは名前さんの妄想じゃなくて?」 「アオイちゃんもしのぶさんも、しれっとひどいですよ!」 毎度のことながら彼女達の義勇に対する評価はとても辛口だが、特に今日は一段とその傾向が強い気がする。 「結婚かぁ。私は強くて優しくて笑顔が可愛い人がいいなぁ」 「それ全部義勇さんが当てはまりますよ」 「冨岡さんは笑顔が皆無じゃないですか」 「鮭大根を食べた時は笑顔になりますよ?」 「嫌ですよ!鮭大根限定なんて!」 鮭大根を食べて笑う義勇さん、凄く可愛いのに。 「カナヲは?ほら最近ちょっといい雰囲気じゃない」 「ち……違うよ。そういうのじゃない……つ」 アオイの言葉にカナヲは首を大きく横に振るも、その顔は真っ赤に染まっている。 自分の感情を吐露することなど滅多にないカナヲから、恋愛の話が出るなんて、それもいい雰囲気の相手がいるなんて初耳だ。 最近カナヲが一緒にいる男の子……? 「それってもしかして炭……っ」 「名前さんっ!いいですから!」 思いついた名前を口に出そうとするも、カナヲに思いきり口を塞がれた。 「……っ、苦し」 「ほらほら、カナヲ。それくらいにしておかないと」 「は、はい……っ」 「さぁお話はこれくらいにして……名前さんもこれだけ元気なようですし、早速行きましょうか」 「機能回復訓練ですね、師範」 「いいえ違いますよカナヲ。今日は私が直々に手合わせをします」 毎日蟲柱として忙しい日々を送っていしのぶ本人が手合わせをしてくれるなんて、カナヲ達はもちろん名前自身も驚きを隠せなかった。もちろん大変ありがたく貴重な経験だ。 多忙である柱は基本継子以外に修行をつけない。もちろんそれは水柱である義勇も同様で、名前にだけは特別稽古をしてくれていたのだ。 しのぶの一言により、全員で稽古場へと移動する。その間名前もしのぶも先ほどとは打って変わって無言のまま。 そして辿り着いた稽古場で、二人が日輪刀を手に構え始めると、その場にいる全員がゴクリと息を呑んだ。 「こうして手合わせするのは三回目でしょうか?」 「そうですね。しのぶさん直々に稽古して下さるなんて光栄です」 「遠慮せず全力でどうぞ」 互いに笑みを浮かべたまま。 しかし刀を抜くその瞬間は、目にも止まらぬ速さだった。 しのぶに言われた通り、名前が全力で襲いかかる。その速さたるや柱にも匹敵する速度だ。しかししのぶはその全ての攻撃を、笑顔のままヒラリと全て交わしていった。 『水の呼吸 参ノ型 流流舞い』 『蟲の呼吸 蝶ノ舞 “戯れ”』 二つの刀が凄まじい速さでぶつかり合う。 どちらかが剣技を見せれば、すぐにどちらかがそれを相殺する。これは互いの実力が拮抗していないと到底出来ない芸当だ。 「互角……!?」 「いえ。師範の速度が上回り始めました」 カナヲの指摘通り、両者の形勢はすぐに傾き始めていた。次第に速度を上げていくしのぶと、ついていくのに必死な名前。 『水の呼吸 漆ノ型 雫波紋突き』 『蟲の呼吸 蜂牙の舞い “真靡き”』 名前が自身最速の突きを放つも、しのぶの自身超最速の突きがそれを上回り跳ね除けてしまった。 「くっ!……がはっ!」 結果、名前の体が後方へと大きく飛ばされ、壁に激突してしまう。畳み掛けてくるかと思いきや、しのぶは一定の距離を取ったまま微笑んでいた。飛ばされた拍子に自ら唇を噛んでしまい、名前の口内に血の味が広がる。 「前に手合わせした時より動きにキレがない気がしますが、私の勘違いですかね」 「さぁ、どうでしょう……っ」 「冨岡さんとのことで浮かれていらっしゃるとか?」 ここへきて更に速度を上げたしのぶに、最早名前は防戦一方だった。決して以前より名前が遅くなった訳じゃない。しのぶが今までの手合わせで、一度も本気を出していなかったのだ。 「くっ!」 「名前さん。冨岡さんに伝えてもらえますか?」 「何をですか……っ?」 「名前さんだけじゃなく、私達にももう少し愛想をよくして下さいと。この前の柱合会議も色々ありましてね」 これだけ攻め込んでも、まだ名前の表情にも笑顔が張り付いている。しのぶはそれをどうにかして壊そうとしていた。 最初に言った全力でというのは、もっと感情剥き出しにして向かってきなさいという意。 「そんなだから嫌われるんですよ、と」 そう伝えてほしい、としのぶは笑顔で言った。 「義勇さんは嫌われてないです……っ!少なくとも私は大好きですから!」 「ふふ、怒らせちゃいましたかね。でもやっと笑顔が消えました」 しのぶの言う通り名前から笑顔が消え一変する。 二人を見守っていたカナヲもアオイも、もちろんそれを肌で感じ取っていた。 そうです名前さん。私は貴方のそういう顔が見たかった。以前、炭治郎君に聞かれたことがあります。 “怒ってますか?” 私はずっとずーっと怒ってるんですよ。親も姉もカナヲ以外の継子も皆殺された。蝶屋敷にいる子達だってそう。皆大切な人を失ってここに辿り着いている。 貴方もそうでしょう?名前さん。大切な家族も里も奪われた。天涯孤独でここに辿り着いた。いつだって張り付いたような笑顔を浮かべてにこにこしているけど、本当はずっと腹の底で怒っている。 ──名前さんも私と同じ。 だから憎悪に塗れた貴方を引きずり出してさしあげます。強がる必要なんかないんですよ。私はそのままの貴方を受け止めたいのですから。 溜めこみすぎて全身を巡らないように、貴方の心からも毒を出して下さい。 「貴方もそんな顔をなさるんですね」 「……義勇さんのことを悪く言う人は、誰であろうと許さないです」 「そうですか。相変わらず名前さんの愛は真っ直ぐで歪んだ愛です」 名前がゆっくりと構える。それはしのぶ自身も一度も見たことがない構えと間合いだった。 そのうえ先ほどまでの怒りも闘志も、一瞬にして消えてしまった。流れるのは静寂のみ。 「……何と奇妙な。でもやっと本気を出してくれるんですね。ずっとそれが見たかった」 しのぶの笑みに名前も笑みを浮かべる。 ……あまりにも静かで末恐ろしい闘気。 まるで嵐が突然凪いだかのよう。 しのぶはゴクリと唾を呑みこみ、刀に手をかけた。 一瞬だった。 しのぶの刀が弾かれ宙を舞う。確かに剣技を繰り出したはずなのに。自身の最速をも上回る速度とでも言うのか。 そうしのぶが思ったのも束の間。一気に詰められた間合いに、名前の弐撃目が襲いかかろうとしていた。 「師範──っ!」 刀を抜いても間に合わない、そう思ったカナヲが大声を上げたその時──。 今度は名前の刀が宙に舞った。ただ、刀を交えたのはしのぶでもカナヲでもない。 「あれ……義勇さん……?」 名前が視線を向けたその先には、刀を抜いた義勇が立っていた。その表情を見るや否や、名前から血の気が引いていく。 やばい。これは相当怒っている。 我に返れど、時すでに遅し。 彼が怒っている理由など容易に予想がつく。 あれだけ止めろと言われていたのに、宙の呼吸を使ってるところを見られてしまった……。 「診察だけと言う割に時間がかかっているなと思えば……」 「こんにちは、冨岡さん。わざわざ名前さんをお迎えに来て下さったんですか?」 しのぶの言葉に義勇は背を向け、名前の刀を拾いに行く。相変わらず名前以外には愛想がない義勇は、無言で拾い上げた刀を名前へと渡した。いつもならこれ以上義勇に怒られまいとすぐ謝る名前だが、今日はそんな様子は全く見られない。 「……私は悪くないので謝りません」 それどころか名前も少し怒っているのはどうしたものだろうか。 「冨岡さん、私のせいですよ。私が名前さんをからかって怒らせてしまったんです」 一体何があったのか、義勇には検討がつかない。 いつだってにこにこ笑ってばかりの名前さんに、本当の自分を出して欲しかった。貴方はもっと欲張りになってもいいのだと、奥底に溜まった毒を抜いてあげたかった。そのためにわざと冨岡さんのことを持ち出して怒らせた。 でもそれは間違いだったのかもしれませんね。名前さん、貴方は誰よりも欲張りな人でした。冨岡さんに関してだけは誰よりも──。 「名前さん、私はお二人の婚約がとても良い傾向だと思っています」 「良い傾向、ですか……?」 「お二人はどうしてもご自身の命を軽んじるところがありますから。だからこそ互いが互いを慈しみ大事にし守り合えれば……と勝手ながら思ったんです」 そうすれば二人はきっといつまでも仲良く暮らせる。 だから互いを失わないように守り合って下さい。 「改めて、ご婚約おめでとうございます」 「おめでとうございます!」 「末永くお幸せに!」 「幸せになって下さいね!」 しのぶの言葉に続いて、蝶屋敷の子達が皆口を揃えて祝福してくれた。その言葉に怒っていたはずの名前も、また心からの笑顔を見せるのだった。 「……話したのか?」 笑顔になれないのは義勇ただ一人。先日の出来事をここにいる全員に話したのだとしたら、一刻も早くこの場から離れたいという衝動に駆られるのは、義勇のような男であれば当然のことだ。もちろんその気持ちに名前が気づくはずもない。 「はい。義勇さんが俺の妻──んんっ!」 それ以上何も喋れないように、義勇が名前の口を塞いで引きずった。これじゃあまるでいつぞやの不死川さんと同じだ、と名前は思いながら稽古場の外へと強引に連れて行かれるのであった。 「名前さん!明日はちゃんと機能回復訓練をしますので!」 遠ざかる名前に、しのぶは大きく手を振って見送った。 「師範、大丈夫でしたか……?」 「ええ大丈夫ですよ。それより興味がありますね」 「え?」 「名前さんのあの呼吸法は一体──」 以前名前さんが話してくれたことがある。自分は鬼と分かり合うことを目的とした里で育ち、そのためにたくさん修行をしてきたそうだ。 私の殺された姉もそうだった。鬼とは仲良く出来るという持論を持っていた。 私と名前さんは似ている。大切な人達の想いを受け継ぎながら、心の奥には決して消えることのない憎悪を抱えている。どうかあの子が鬼への憎しみに支配されないように、そして何よりも自分の命を大切にするように。 冨岡さん……貴方にお任せしましたよ。 「さぁ名前さんが作ってくれたおはぎを食べましょうか」 「そうしましょう!この前は不死川さんのせいで食べ損ねましたからね!」 先頭をきって歩くアオイの背を見て、しのぶは再び笑顔を浮かべるのであった。 [ back ] |