堕ちる 2


地面を見つめ心を整える。
何年経とうとこの場にいることは、格別の緊張を名前にもたらした。

「よく来たね、名前」

お館様の声にゆっくりと顔を上げれば、優しい声に包まれた。

「お館様におかれましても御壮健で何よりです」
「ありがとう。今日来てもらったのは、ある屋敷に潜んでいる鬼を始末する任務を、言い渡そうと思ってね」

お館様自ら命令を下すとは、よっぽどのことなのだろうと、名前により一層の緊張感が走った。

「そこで大切な剣士達が、たくさん殺されているんだ」
「もしかして鬼の正体は十二鬼月ですか?」
「今はまだ分からない。だからこそ早急に名前に向かってもらいたい」

多くの隊士を葬った鬼が、もし十二鬼月だったとしたら、自分なんかで倒せる相手だろうか。

「心配もあるだろうけど、後からちゃんと柱も向かわせる。それまでどうにか持ちこたえてくれるかい?」
「はい。お館様の命令ならば、命にかえても遂行してみせます」
「名前、君はいつも自分の命を軽んじるところがあるけれど、自分の命は大事にしないと駄目だよ。そうしないと名前にとって、一番大事な義勇が悲しむことになる」

その名を口に出されてドキッとした。義勇とはあれ以来ギクシャクしていたからだ。
理由は名前自身がよく分かっている。抑えきれない嫉妬を押し殺すあまりに、義勇に対し普通に接することが出来ない、ただそれだけだった。

「私の命の心配までして下さりありがとうございます……。必ずや鬼を仕留めて参ります」
「頼んだよ、名前」
「御意」

そうして名前は、屋敷に戻ることも義勇に何かを告げることもなく、お館様の指示通り鬼の住処へと向かった。





向かった任務先は、どこまでも木が生い茂った暗い森だった。問題の屋敷はこの大きな森の奥に存在しているとのことらしい。
中へと急ぐも、中々屋敷が見当たらない。
それよりも進めば進むほど、次第に血の匂いが濃くなっていくのがはっきりと分かった。

「……こっちだ」

屋敷を探すよりも、血の匂いを辿ることを優先した方がいいかもしれない。
どれだけの隊士がここに来たのか。殺されたのは?生き残っているのは?鬼は一体どんな──。

途端に名前の足が止まった。
血の匂いを追って辿り着いたそこで、おびただしい量の血の海と、重なり合う多くの遺体を目にしてしまったからだ。

「う……っ!」

その凄惨な光景に一気に吐き気が込み上げた。
赤く染まる視界、むせ返るほどの血の匂い、何もかもあの日と同じだ。里を襲われ自分以外を皆殺しにされたあの日と──。

「違う……っ、あの日じゃない」

正気を失いそうな自分に、何度も言い聞かせた。震える手で刀を握り、また一歩足を踏み出す。
進んだすぐ先に目的の屋敷は確かに存在した。その屋敷の前にも、数名の隊士が倒れている。だが息があるかどうか確認している暇はない。
一刻も早く鬼を、と思った時だった。

「名前、様……っ?」

聞き覚えのある声がした。
一度聞いた時よりもか細いけれど、可愛らしく健気な声。そう、間違いない。彼女の声だ。

「大丈夫ですか……!?」

咄嗟に駆け寄り再び顔を覗き込めば、そこに横たわっていたのは予想通り、義勇に想いを告げた隊士であった。

「一体何があったんですか!?」
「鬼が……とても強い鬼が……っ、あそこに……」

口から血を流しながら、彼女は屋敷を指差した。

「今助けが来ますから、もう少しだけ辛抱して下さいね」
「名前様、は……?」
「私は早急に、あの中の鬼を斬ってきます」
「そんな、一人でなんて……っ、私も……」

そうはいえどもとても戦えるような状態ではないし、最早刀を握る力すら彼女には残されていない。それなのに彼女の瞳は、揺るぎなくとても真っ直ぐなものだった。
出逢った時からずっとそうだ。その瞳から彼女の誠実さがはっきりと伝わって、そのたびに名前は怖さを感じていた。
歪んだ愛情を持つ自分では、敵わないのではないかと。

「大丈夫です。ここにいる皆さんは、私が守ります」

でも今は、鬼も彼女からも逃げる訳にはいかない。言葉通り鬼を仕留め皆を守るため、名前は屋敷の中へと足を進めた。
屋敷の中に漂うは花の香り。その香りに導かれるように進めば、おのずとそれは姿を現した。

「ふふ、また美味しそうな人間が来たわ」

女の鬼だ。その容姿は限りなく人間に近いように見える。

「私の仲間を殺したのは貴方ですか?」
「さぁどうかしら。それより貴方、この花の花言葉って知ってる?」

鬼が潜む部屋には、溢れんばかりの赤いヒヤシンスがあった。それらを指差しながら、鬼は名前に問うていた。

「さぁ、私は花に疎いので」
「それは残念。じゃあ答えを教えてあげる。赤いヒヤシンスの花言葉は“嫉妬”」

その瞬間、鬼がニヤリと不気味に微笑んだ。

「貴方の中でドロドロしてるそれよ。私、嫉妬にまみれた女を食らうのが一番好きなの」
「へぇ……嫉妬。そうですか」
「だから貴方に出逢えて、とても興奮してる」
「そうでしょうね。私ほど嫉妬心を抱えた女性なんて、早々居ないでしょうから」

鬼と同じように、名前もニヤリと笑った。
互いの笑みが交錯し合ったところで、それが合図かのように、鬼の鋭い爪と名前の刀が勢いよくぶつかり合った。

速さも力も従来の鬼とさほど大差はない。あれほどの人数を絶命させたのがこの鬼だとは、にわかに信じ難かった。

「ははっ!今までの奴らとは違うみたいね!」
「私はそう簡単に殺されるつもりはありませんよ」

まずは水の呼吸で様子を見ようとしたところ、先に鬼の爪が名前の頬を掠めた。

「今のは……血鬼術?」

空間が歪んだような感覚に気がついた時には、目の前に鬼の手が伸びてきたところだった。
そういえば倒れていた彼女の顔や腕にも、似たような傷があった。

“水柱様”

彼女の声が頭をよぎる。

「くっ……!」

名前が僅かに油断したところを、鬼は見逃さなかった。鬼の爪が今度は名前の首元を抉っていき、タラリと生温かい血の感触が首を伝う。

「お前、まさか……その血は稀血か!?」

稀血という言葉を口に出され、あることを思い出した。
昔この血をたくさん使って戦い、それが義勇に見つかり凄く怒られた時のこと。そしてそんな自分を気にかけてくれたこと。

じゃあこの傷だって、あの時みたくまた義勇さんが心配してくれる……。

ほんの一瞬でもそんな考えがよぎった。


──自分の浅ましさに吐き気がする。


すぐに我に返り、首元を強く手で押さえ、そのまま呼吸で止血させる。

「欲しい。欲しい欲しい!稀血の人間が欲しい!」

目の前で鬼が騒ぎ立て始めている。涎を垂らしながら血を乞う姿を見て、名前は思わず苦笑してしまった。

「何を笑っている!?」
「いえ……たださっきから吐き気がするんですよ」

欲しい欲しいと喚き散らす鬼が、義勇さんを欲しがる自分と重なってしまった。
大好きだと愛を与えた以上に、欲望ばかりが大きくなっていく。誰かに奪われるくらいなら、彼の世界ごと全てを奪って、自分以外誰も映らないようにしてしまいたい。

いつだって私の奥底には、義勇さんの全てを喰らいつくしてしまうのではないかと思えるほどの、おぞましい感情が眠っている。

「貴方にそっくりな私に、心底吐き気がするんです」

目の前の鬼と大差ない。私は欲に塗れた醜い女だ。

「さっきから訳の分からないことを……!さっさと私に食われてしまえばいいのよ!」
「それも良いかもしれません。ですが」

鬼にしてみれば目にも止まらぬ速さだった。名前の一振りで、鬼の頚が見事に転がり落ちた。

「私は貴方より、欲深い嫌な女みたいです」
「がっ、は……」
「ここで死んだら義勇さんの側にはいられなくなる。そんなのごめんです」
「ふっ、ふふ……鬼のような……目ね……」

最期にそう言い残し、鬼は朽ちていった。

鬼のような目、か。
義勇さんには絶対に見せられない。

一度だけゆっくりと瞬きをし、刀に付いた血を振り落とす。
これで任務は完了した。が、ただ一つだけ名前には腑に落ちないことがあった。
次々に隊士が殺されたうえに、お館様直々に命令された任務が、こうもあっさりと終わるものだろうか。
あの鬼はそう手こずるような相手ではなかった。現に名前は一太刀で斬り倒しているし、もちろん十二鬼月であるはずもない。

ここで一体何が起こっていたのだろう。
もう少し屋敷の内部をくまなく探る必要があると思った、まさにその時。

ドンッという大きな音と共に、戦慄が走った。

一瞬で空気が張りつめ、恐ろしいほどの殺気に包まれる。振り向いたコンマ何秒の世界で、振りかざされた拳を防ぐことが、名前の出来る精一杯だった。

「ぐはぁっ!」

吹っ飛ばされた名前の体が壁に激突していく。たったの一撃なのに、全身にこれほどまでの強い痛みを受けたのは初めてだった。刀を握りしめ顔を上げると、そこには先ほどとは別の鬼がいた。
本命はさっきの鬼じゃない。この鬼だ。
名前の鼓動が、張り裂けそうなくらい大きな音を立てている。

「上弦の……参」

その目に刻まれた文字を読みあげれば、鬼は口角を上げて笑った。

「少しは腕のある奴かと思ったが、柱ではないな」

お館様の予想通りやっぱりここには十二鬼月がいた。ただそれが上弦の参だとは思いもしなかった。

「だが実に変わった闘気だ」

鬼がこちらを向いて構えた瞬間、自身からゴクリと生唾呑む音がした。
初撃ではっきりと分かったことがある。自分一人では到底この鬼には、敵いはしないということだ。だからといって逃げ出すことは出来ない。柱が来るまで持ちこたえることが、鬼殺隊の隊士である自分に与えられた使命だから。

『術式展開 破壊殺・羅針』

汗が一筋流れた。
圧倒的な気迫に呑み込まれそうになりながらも、刀を強く握り奥歯を噛みしめる。
初撃を超える速さだった。

来る──!

『破壊殺・空式』
『宙の呼吸 肆ノ型 群青の流星群』

無数の拳打が放たれ瞬間、名前は無意識に宙の呼吸を繰り出していた。
それでも全て防ぎきれた訳ではなく、顔や腕などところどころ攻撃をくらった箇所から血が流れ出す。血を拭おうとするも、名前の手は震えていた。

「何だ?今の剣技は。初めて見るぞ」

拭えど止まらない血を、刀へと滴らせる。血も呼吸も使えるものは全て使わないと、こいつには敵わない。

それどころか最悪、命を落とすことになる。

『宙の呼吸 弐ノ型 血染めの月』

稀血を含ませた刀が、鬼の右手を掠める。
そこから浸透していく稀血の効果で、ほんの数秒鬼の体がぐらつく。名前はそこから畳み掛けるように剣技を繰り出した。

『水の呼吸 拾ノ型 生生流転』

今度は鬼の頚から勢いよく血が吹き出した。でもまだ浅すぎる。斬り落とすにはもっと力が必要だ。

「面白い!面白いぞ!女にしておくのが勿体ないくらいだ!」

鬼の傷がすぐさま再生されていく。凄まじい再生速度と鬼気。これが上弦──。

「お前のその血は稀血か。一瞬体が動かなくなった」
「……さぁどうでしょうか」
「見たことのない技がいくつかあったな。よく練り上げられた素晴らしい剣技だ」

虫唾が走る。誰のせいでここまで剣技を練り上げたと思っているのか。
私から何もかも奪っていった鬼のせいなのに……!

「お前の名は!?殺す前に聞いておきたい!」
「お前に名乗る必要などない!」

再び互いの技がぶつかり合う。一瞬でも気を緩めれば、即座に殺されるだろう。分かっているからこそ一歩も引けない。
しかしすぐに鬼が、自分の剣技に適応していく。その速度は恐ろしいもので、次第に名前は技すら繰り出せなくなっていた。

「死ぬ気でかかってこい!」
「くっ……は……っ!」
「全ての技を俺に見せてみろ!」

防戦一方で追い込まれていく名前に、今度は鬼が血気術を畳み掛けた。

『破壊殺 鬼芯八重芯』

その血気術を浴びる寸前。避けられないことが分かると同時に、その先に死が待っていることを、名前は本能で感じ取っていた。

“必ず宙の力が貴方を守ってくれるから……!”
“森羅万象と心を通わせろ”

──刹那。
母と師匠の声が脳裏を横切った。

私の体を構築する宙の力。宙の呼吸。今この瞬間全てを出しきらないと、私は確実に死ぬだろう。

まだ死ねない。
死ぬ訳にはいかない。
だって私はまだ。


“名前、好きだ”


義勇さんの側で生きていたい──。


気がつけば体が勝手に動いていた。
上弦の鬼ですらも、反応出来ないほどの速さだった。覚醒した名前が放ったのは、一切無駄のない洗練された剣技。自ら鬼の血気術に向かった名前は、その一撃で鬼の目を潰してしまった。

「私はまだ……死ねない……」

体が全てと調和している。まるで広大な宙を漂うような感覚だ。自分は一体どうしてしまったというのか。
頚を落とさない限りは、潰した目もすぐに再生されてしまう。そして再び目の前の鬼と視線が交わった。

「何だ今のは。闘気が全く無くなったと思ったら斬られていた。今の動きにその目も関係しているのか?」
「目……?」
「先ほどとは違う金色の目だ」
「金色……?何のこと?」
「何だ。お前自身も把握出来ていないのか?」

名前の目の色が金色に変わったと鬼は指摘したが、名前本人には何のことだかさっぱり分からなかった。
会話の合間さえも、一瞬足りとも気を抜かずに構え続ける。
けれど鬼がそれ以上反撃してくることはなかった。

「……金色の瞳に唯一無二の剣技を使う女」

そして何やらブツブツと呟き。

「お前か……!無惨様が探していた女は!」

確かにそうはっきりと言った。
鬼舞辻無惨が、私を?
どうして……何で──。

「そうだとしたら、お前を殺す訳にはいかなくなった」
「な……っ」
「お前を無惨様の元へ連れて行く」
「は、離せ……!」

折れそうなほど腕を強く掴まれた。抵抗しようもびくともしない状況は、名前を恐怖へと陥れていく。そのまま連れて行かれるかと思いきや、鬼はピタリと動きを止め

「……囲まれたか」

名前の腕を解放した。

「まぁいい。お前のことはそのうち無惨様が見つけ出す。それまで楽しみに待っているといい」

そうして上弦の参は、名前の前から姿を消した。
数秒遅れで屋敷の扉が蹴破られる。

「名前!」
「名前さん……!」

現れたのは義勇と炭治郎の二人だった。
その顔を見た途端、名前の全身から力が抜け、その場に座り込んでしまう。

「鬼はどうなった?お前が斬ったのか?」
「……は、い」
「名前さん、血が出ています……!大丈夫ですか!?」
「大丈夫……致命傷になるような傷はないから……」

名前の声は震え続けていた。義勇の羽織をきゅっと握り問いかける。

「義勇さん……私の目……何色、ですか?」
「目……?一体何の話だ」
「お願い教えて……っ!どんな色をしてますか……!?」
「どんなと言われても黒にしか見えないが……」

元に……戻った?
金色とは一体何だったのか。考えれば考えるほど頭が痛い。

名前の様子がおかしいことは、義勇にも一目ですぐ分かった。ただ今は問い詰めても答えられる状況でもないような気がして、義勇はそっと名前の頬を撫でた。

「名前さんは大丈夫ですか?」

続けて現れたのはしのぶだった。お館様は約束通り、柱である二人をこの地へと向かわせてくれたのだ。

「名前さん、歩けますか?ひとまずここを出ましょう」
「胡蝶。外の状況はどうだ?」
「ひどい有様です……。隊士の大半はすでに息を引き取っていました……」

義勇としのぶの会話に、名前が始めにここに来た時の記憶が蘇る。遺体が折り重なった、むごい光景だった。

「生存者は二名です。炭治郎くんは手前の彼を、冨岡さんは奥で倒れている彼女を、私の屋敷へ運んで下さい」

義勇が名前の元を離れ、倒れていた隊士の元へと向かった。
その背を眺めていると、途端に胸が強く締め付けられた。義勇が向かった隊士は彼女だと、義勇に思いを告げたあの子だと、気づいてしまったからだ。


嫌だ。その子に触れないで。
義勇さんの側にいるのは私だけでいい。
誰にも渡したくない。渡さない。

ああ、また鬼のような欲望に支配される。


“お前はそのうち無惨様が探し出す”


どうして。
いつから私が。
里を襲われたあの日だって母の言う通り、息を潜めて隠れていたのに。

「……っ、は……はぁ……っ」

私が鬼みたいだから?

「名前さん……?」

嫌だ。怖い。怖くて堪らない。

「はっ……っ……!」

息が上手く吸えない。苦しくて視界がぼやける。

「名前さん!しっかりして下さい……!」

目の前の景色が遠ざかっていく。
欲にまみれ堕ちた先は一体どこなのか。
それは空とは程遠い、鬼が手招きする沼の底なのかもしれない。


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