大好きです、冨岡さん 1


それは突然襲いかかった出来事だった。
ガタガタガタっと大きな音がして、何事かと駆けつけると、その場に倒れたままの名前を見つけた。

「名前……?」

状況から判断するに階段から落ちたのだと思う。
幾ら呼んでも反応のない名前に、次第に義勇は青ざめていった。

「名前!しっかりしろ!」

何度目かの呼びかけに、名前はゆっくりと瞼を上げる。その様子を見て、まずはほっと一息をついた。
しかし大丈夫かと再度問うも返事はなく、こちらを見つめたままぼーっとしている。やはりおかしいと思い、もう一度名前の名を呼ぶと、彼女は突拍子もないことを口にしたのである。

「あの……どちら様ですか?」

この一言をきっかけに、二人の奇妙な生活は幕を開けた。





「記憶喪失ですね」
「私が、ですか?」

突然のしのぶの言葉に、名前は思わずキョトンとした顔をしてみせた。
まさか自分が。そう疑心暗鬼になるのも無理はない。
現に名前は自分の名前や生い立ちはもちろん、鬼殺隊に入隊してからの記憶もしっかりある。目の前にいる人物が蟲柱の胡蝶しのぶだということも、ここに来たのは階段から転げ落ちてしまったということも分かっている。
だから自分が記憶を無くしていると言われても、今いちピンとくるはずがない。
けれど事実、抜けた記憶が一つだけあるのだ。

「どうしてか冨岡さんの記憶だけが、見事に抜け落ちてしまっているようです」

そう指摘され、自分の真横に立つ冨岡と呼ばれる男性を見上げる。先ほどから無表情のままの彼は、一体何を考えてるのか。今の名前にはさっぱり見当もつかなかった。

「あぁ。冨岡さんはいつもこんな感じなので気になさらず。加えて口下手で不器用な方です」
「そうなんですか……」
「そのうえ大切な名前さんが、自分のことだけを忘れてしまって、そのショックは相当なものでしょうしね」
「大切?」
「はい。お二人は好き合ってるんですよ」

え……え、え──!?
好き合ってるって、私とこの人が!?それはつまり私達は恋人同士ということですか!?

「そういえばちゃんとご紹介してなかったですね。彼は水柱の冨岡義勇さんです」
「水柱様……なんですか!?じゃあつまり私が水柱様と恋人だったと!?そんなまさか!ただの隊士の私がありえないです!」
「恋人どころか婚約までされてますし、お二人の仲は鬼殺隊の誰もが知っていますよ」
「ご、ご冗談ですよね……!?」

再び横に立つ彼を見上げるも、相変わらず無表情のままだ。

本当にこの人が私の恋人なのだろうか。
でも確かに目を覚ました時、側にいたのは彼だったし、私の事を何度も呼んでいたのは覚えてる。
だからと言って私が水柱様と?いやいやまさか私のような末端の隊士が。
あれ、でも私はどうやって鬼殺隊に入ったんだっけ……。

「とにかく今出来る処置はこれ以上何もありませんね……。何かきっかけになるものが必要かもしれませんし、名前さんが自然と思い出すかもしれません」

しのぶの険しい表情に、現状打つ手は無いのだと誰もが悟った。

「それで名前さん。貴方は冨岡さんと一緒に暮らしてるんですが、記憶が戻るまで今後はどうしましょうか」
「一緒に暮らしてるって、私と水柱様がですか!?」

それって恋人というより最早夫婦なんじゃ……。
でもそれだけ彼とは一緒に過ごしていたということなのだろう。一番大切な人だからこそ記憶を失ってしまったのかもしれない。
なら彼は今一体どんな気持ちで──。

「名前さん?」
「……す、すみません。あの、ご迷惑でなければひとまずは住んでいた屋敷に帰りたい、です」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だと思います……それにもしかしたらきっかけがあるかもしれませんし、住んでるうちに記憶が戻るかもしれません」
「冨岡さんは大丈夫ですか?」
「ああ。構わない」

彼の声に拒否をされなくて良かったと、どこか安心した自分がいた。とても不思議な感覚だ。

「分かりました。では冨岡さん、何かあればすぐにご報告して下さい」

そうして名前と義勇は、再び二人が暮らしていた屋敷へと戻っていった。


家の中を見渡すと、見覚えのある景色ばかりのはずなのに、モヤがかかったような気分になる。
何だか少しずつ不安が募りウロウロしていると、そんな名前の様子をみかねて義勇が声をかけた。

「名前、無理をするな」

名前を呼ばれ心臓が跳ねた。
何だろう……今凄くドキドキした。

「頭を打っているのだから、少し休むといい」

そう言って義勇は隣の部屋に行くように促した。けれども名前はそれとは正反対に、台所に向かって足を進める。
下ごしらえされた様子に並んだ食器。確かにこの屋敷には、二人が暮らしている形跡がたくさんある。それらを無言でじっと眺めていると、再び義勇が口を開いた。

「名前。今からでもいい。蝶屋敷に戻れ」
「え、どうしてですか……?」
「胡蝶が何と言おうと、お前には今俺の記憶がない」
「……そうですね」
「そう考えるとやはり知らない男と住むのはどうかと思う」

そこまで言って、義勇はふいっと視線を逸らした。

何故だろう。彼にそう言われ一瞬胸が苦しくなった。

「……お優しいんですね」

目を覚ました時のことを思い出す。
私をとても心配そうに見つめながら、何度も名前を呼んでいた。そしてとても慌てた様子で、しのぶさんのところへ連れて行ってくれた。
こんな風になってしまって訳が分からないのは彼も同じなのに、何となく距離を保ってくれてるし、こうして私の気持ちを最優先してくれている。自分が大切にされていることが伝わる。
口下手で不器用だけど、優しい人……。

「もうこんな時間ですし、私ご飯の支度をしますね」
「おい、名前」

またも名前は義勇の言うことなど聞かず、思うがままに行動を始める。

「ご心配なさらないで下さい」
「しかし」
「それから一つお聞きしたいんですけど、私は水柱様のことを何とお呼びしていましたか?」
「それは普通に……名前で」
「名前で……ですか。分かりました。では、冨岡さんは食べ物では何がお好きでしょうか?」

名前に名を呼ばれ、義勇はピタリと動きを止めた。
確かに名前でとは伝えたが、下の名前でとまでは言ってはいない。だから名前がそう呼ぶことは、何も間違ってなどいないのに。

「冨岡さん……?何かありましたか?」
「あ、いや……好きな食べ物だったか」
「はい。出来たらお作りしようかと思いまして」
「ならば鮭大根を……」
「なるほど、そうですか。冨岡さんは鮭大根がお好きなんですね」

思わず息を呑んだ。
そう言って笑う名前は、まるで出逢った頃の名前そのものだった。こうして同じ場所で同じ台詞を聞くとは、何と奇妙な話か。

「鮭大根なら材料もありますし、すぐにお作り出来そうです」

台所に向かう名前を黙って見つめる。
そうしていると何も変わらない、いつもの見慣れた景色が目の前にはあるはずなのに。

「冨岡さん?」

──名前だけが違う。

“大好きです、義勇さん”
そう言って笑う名前はどこにもいない。
抱きしめることも、その唇に触れることも、あまつさえ好きだと紡ぐことすら出来ない。
名前へと伸ばしたかった手をぐっと握りしめる。

「……出来上がったら呼んでくれ」

そうして義勇は名前の前から去っていった。
その背中を眺めていた名前の胸が、また少し苦しくなる。

一瞬とても寂しそうな表情を浮かべていた気がする……。

もしも自分が好きな人に忘れ去られてしまったらどうなるだろう。

「早く思い出さないと……」

鮭大根の材料を見つめながら、名前は一人そう呟いた。





それからの数日間、名前は記憶を取り戻すために奔走した。
誰の口から聞いても、自分は義勇と強く結ばれていたことは事実のようだし、そして自分がどれだけ義勇のことを想っていたのかも知ることも出来た。まだ記憶は戻らないけれど、確かに自分の側には常に義勇がいたようだ。
現に今も彼とは一緒に暮らしているし、日々端々から自分が彼に大切にされているんだということは伝わっていた。

「冨岡さん、本当に優しいんですよ」
「重々承知してますよ。でもそれもいつものことながら、名前さん限定の話ですけどね」

経過観察をしてもらいに来た蝶屋敷で、名前は溜息をつきながらしのぶに報告をした。

「昨日は稽古も付き合ってくれたんです。柱の任務で多忙なのに……」

それに柱ということもあって、本当に強くて美しい剣技だった。その姿が今も目に焼き付いている。

「思い出してあげられないことが、本当に申し訳なく思うんです。その……えっと……」
「お二人に何かあったんですか?」
「そういう訳じゃないんですけど……冨岡さんが時々する表情に凄く胸が苦しくなるというか……」

義勇は名前に対して、日常的な会話以外は一切言葉に出さない。記憶のことについてはもちろん触れないし、恋人らしい会話も何もない。
つかず離れずの距離で、同居人として、同じ鬼殺隊の隊士として過ごしてくれている。
けれど時々浮かべるその表情が、とても寂しそうに見えて、どうしようもないほど悲しい感情が名前を襲っていた。

「私……本当に大切な人を忘れてしまったんですね……っ」

気がつけば名前の頬に涙が伝っていた。
味わったことのないこの感情を、どう言葉で表せばいいのか分からない。
でもこれだけは分かる。

「……私変なんです。記憶がないはずなのに、冨岡さんにもっと近づきたくて……触れたくて……っ、あんな表情させたくないって……」
「何もおかしなことはありませんよ」

しのぶが名前の頭を優しく撫でる。

「名前さんがそう思うことも、例え記憶がなくても惹かれてしまうことも、全て自然なことです」
「そう……なんですか?」
「だって名前さんは誰よりも冨岡さんのことが大好きなんですから」

大好き、という言葉が何故か頭に響く。
何だかとても懐かしい。
その言葉を私はよく口に出していた──?

「名前さん、貴方にお話があります」

考え込む名前に、しのぶもまた真剣な表情で話を切り出した。

「ある薬があるんですが……それを試してみるのはどうかと。ただしこれは賭けになります」
「え……?それを飲めば記憶が戻る可能性があるんですか……!?」
「直接的作用は全くありませんので戻るとは言えません。可能性があるかもしれないというだけです」
「どんな薬なんですか?」
「そうですね……。これは私の勝手な見解ですが、薬の内容を知ってしまうと、効果は得られないと思うんです。もちろん飲んだからといって、効果はどうあれ悪い影響はありませんのでそこは保証します」

彼女のことだから、悪い薬を飲ませようなんてことは絶対にないだろう。それに少しでも可能性があるのなら、出来る事は何でも試したい。

「賭けてみませんか?名前さんの本能と、冨岡さんの愛に」

そう言ってしのぶは、小瓶を一つ取り出した。


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