はじまりはじまり 3 その後も義勇との生活は変わらず続いた。長く続いた厳しい修行も日々耐え抜いた。その努力が実り、名前は鬼殺隊の中でも、柱の次に匹敵する実力者となった。 「冨岡さん。今日の晩御飯はいかがなさいますか?」 「鮭大根を」 「またですか?冨岡さんは本当に鮭大根がお好きなんですね」 義勇との暮らしにも随分慣れた名前は、料理や掃除などありとあらゆる家事もこなしてみせた。中でも料理の腕は誰もが認めるほどのものだ。 「……美味い」 「本当ですか?良かったぁ!」 にこにこと笑顔を浮かべる名前を、義勇はじっと見つめる。初任務で鬼を狩った時──つまり義勇の胸の中で大泣きしたあの日以来、名前はよく笑うようになった。言い方を変えれば、本来の名前の姿をよく見せるようになったとも言える。 「この前蜜璃さんに教えてもらった茶屋のお団子が、とても美味しかったんですよ。今度はぜひ冨岡さんと一緒に行きたいです」 「……俺は」 「ね。お願い。駄目ですか?」 名前は純真無垢でとても愛らしかった。 心身共に強くなろうとも鬼をどれだけ狩ろうとも、根本は変わらない。誰よりも強い意志と無邪気な笑顔。誰にでも分け隔てない優しさ。その全てが常に義勇の側にある。 いつしか義勇は、そんな名前と過ごす日々が心地良いものになり、彼女を独占したいと思うようになっていた。 同様に名前の義勇に対する好意も、日に日に大きくなっていた。傍から見れば掴みにくく口下手な彼だけれど、一緒に住めばそれだけじゃないことはすぐに分かった。 好きになってしまったとは言え、この気持ちを伝えたらここにはいられなくなるかもしれない。 ……冨岡さんは私のことをどう思っているんだろう。 ある日、そんなことをぐるぐる考えていたせいで、やかんのお湯を誤って足に零してしまった。 「熱……っ!」 「っ……すぐに冷やせ!」 抱きかかえられると、全身が熱くなるのを感じた。 「少しかかっただけですから、その、大丈夫ですよ……っ?」 「痕が残ったらどうする」 「元々稽古で痣だらけですし、そんな」 義勇が突然無言になる。どうしたものかと名前がオロオロしていると。 「お前は綺麗だ」 唐突に義勇が言った。 「と、冨岡さんってそういうところありますよね……?」 「そういうところとは?」 「知りません……っ」 女心に疎いのかそうじゃないのか。でも優しいことには変わりない。 そんな義勇に名前の想いは、更に大きくなる一方だった。 「どうですか?冨岡さん。お団子のお味は」 「甘い……」 「ふふ。お気に召したんですね」 更に月日が流れると、名前は義勇の表情や声色一つで、その気持ちを汲めるようになっていた。 「天気も良いしお団子も美味しくて幸せです。こんな日がずっと続くといいですねぇ」 「そうだな」 進展しない二人に変化が訪れたきっかけは、お館様の一言だった。 「そろそろ名前に、新しい住処を与えても良い頃かと思っているんだ」 「新しい住処、ですか?」 「もちろんこのまま義勇のところにいても構わないよ。どちらにしたいかは二人で決めるといい」 その話を受けてからというもの、二人の間には気まずい空気が流れ続けていた。 確かにお館様は義勇に、しばらくの間、名前の面倒を見るようにと言った。ならば名前が一人前になれば、二人の生活がいつ終わりを迎えても、つまりそれが今すぐにでもおかしくないということでもあった。 「あの、冨岡さん」 先に声をかけてみるも、その先の言葉が上手く紡げなかった。 これ以上冨岡さんに迷惑をかけられない。いつかはここを離れなきゃいけないんだ。でも……私は離れたくない。冨岡さんが好き。側にいたい。 名前の中から本当の気持ちが溢れ出す。 「……今日までお前はよくやった。もう誰もがその実力を認めている」 もう誰にも止められない、好きの気持ち。 「お館様が次の住処を用意してくれるまでの間は──」 義勇の本当の気持ちが知りたい一心で、名前は咄嗟に義勇の手を掴んでしまった。 「あの、私」 どうせ離れ離れになるのなら、いや離れ離れになりたくないからこそ、思いの丈を義勇にぶつけた。 「私、冨岡さんのことが好きです。だから、その……冨岡さんの側を離れたくありません」 後から思い返せば、かなり唐突だったと思う。 そして名前の思いがけない言葉に、義勇の頭は一瞬で真っ白になった。よく懐いているし好意的だとは思ったが、それはあくまで仲間としてで、恋愛のそれだとは思いもしなかった。 まさか。こんな俺のどこが……。 信じられない気持ちで名前を見つめると、その瞳は強い意志を宿しながら、真っ直ぐと義勇を見つめていた。名前が鬼殺隊に入れてほしいと言った時と同じ瞳だ。 「……冨岡さん」 愛しい唇が自分の名を紡ぐ。それだけで胸が締め付けられて触れたくなる。 このまま名前に触れたい。欲望のままに喰らいたい。 義勇は名前をそっと抱き寄せ、顎を持ち上げた。 同時に何も守れなかった自分に何が出来るのか、とどこから声が聞こえた気がした。 柱としてだって十分じゃない俺が、名前と共に生きるだと? 「……すまない」 なんて馬鹿げたことを。名前はいつだって誰にだって優しい。長く時を過ごしたことにより、情が移ってしまっただけだ。はたまた天涯孤独という互いに似た境遇に同情したのかもしれない。 そうだ。俺は、俺なんかでは──。 「俺ではお前を幸せに出来ない」 名前に触れたかったはずなのに、義勇は名前の体を押し返し、彼女を傷つけるだけの言葉を吐いた。 名前も自分が拒絶されたことはこの身をもってよく理解した。幸せに出来ないという言葉も理解した。けれど肝心な義勇の想いを聞いていない。 「あの……冨岡さんは私のことが嫌いですか?」 「そんなことは決してない」 「では、嫌いではないけれど好きでもないと」 返答はない。 その顔を覗き込むと、とても難しそうな表情を浮かべている。 「……怖いんですか?失うのが」 考えて話した言葉ではなかった。義勇の表情と態度から、無意識に感じ取ってしまったのだと思う。 「何故……そう思う」 「……私も同じだからでしょうか。大切な誰かを失うあんな絶望……もう二度と味わいたくはありません。そうなるくらいなら、最初から大切な人など作らなければいい。私もそう思ったことがありました」 「ならばどうして──」 自分を好きになったのかと、義勇の表情が名前に問いかける。 「どうしてでしょう。気がついたら冨岡さんのことが、こんなにも好きになってしまっていたんです」 きっと初めて会ったあの時から、義勇に惹かれていたのだと思う。 「怖いからこそ失いたくないからこそ、今度は私がこの手で絶対に守りたい。守ってみせる。そう思いながらずっと冨岡さんの側で鍛錬してきました」 全てを失った名前にとって、義勇は生きるための理由になっていた。そして生きるなら義勇と共に生きたい、と強く願うようにもなっていた。ただはなから義勇に守ってもらうつもりも、そうやすやすと鬼に殺される気もない。 「それに冨岡さんは私を幸せに出来ないと言いましたが、それは大きな間違いです」 名前の言葉に、義勇は困惑した表情を浮かべた。正反対に名前はいつもの笑顔を浮かべている。 「私の幸せは冨岡さんが幸せでいることなんです。冨岡さんが幸せでいてくれたら、私はそれだけで幸せなんです」 名前の想いが義勇に流れ込む。 「私が冨岡さんを幸せにしてみせます。だから私は自分で自分を幸せにすることが出来るんです。冨岡さんは何の心配もいりません」 真っ直ぐな名前に、義勇もつられて笑ってしまった。 「……それはとんでもない持論だな」 「おかしいですか?」 「いや……そういう名前だからこそ、俺は惹かれたのだと思う」 「え?」 義勇が再び名前をふわりと抱き寄せる。 もう二度と離さないと、強く誓いながら。 「全てお前に言わせてしまったな……いつまでも未熟で申し訳ない」 「冨岡さん……?」 「名前、お前が好きだ。だからこの先もずっと俺の側にいてくれ」 もう一度顎を持ち上げられ視線が交わる。 愛しい。これ以上ないくらいもっと側に。もっと近くで触れたい。 二人は同じ想いを抱えながら、初めて唇を重ねた。 「……っ、ん」 初めてのキスは想像よりも甘く、そして深かった。 「あっ、待……んんっ」 一度離れてもすぐに義勇の唇に塞がれてしまう。何度も重なり角度を変えては啄まれ、このまま自分が喰われてしまうのではないかと思える程だ。でもちゃんと義勇の愛は伝わってくる。ちゅっと音がするたび好きだと言われてようで、名前の心はあっという間に満たされていった。 それどころか満たされすぎてこれではもたない。 「冨岡、さん……っ、ん」 必死に胸を押し返すも全く敵わない。唇が離れる僅かの隙間で、名前は抵抗の言葉を口にした。 「これ以上は、っ、苦しい……です」 「……すまない。つい」 「い、いえ。私も……初めてだったので、その」 名前が義勇の腕の中で、恥じらいながら見上げる。 そのうえ初めてだなんて台詞を言われて、理性を保つ方の身にもなれ……。 義勇がそんなことを思っているなど露知らず。 「でも、嬉しかったですよ……?」 名前がどんどん追い打ちをかけていく。 「その顔……絶対他の男には見せるな」 「ど、どんな顔ですか?」 「今してる顔だ」 そう言われても、自分ではどんな顔をしているのか分からないのだからどうしようもない。例えば溢れるこの気持ちが表情に表れてるのだとしたら、きっと自分はこんな顔をしているのだろう。 「冨岡さんが大好きでしょうがないって顔ですか?」 いとも簡単に理性は壊されていく。だからと言ってキスすら初めての名前を、今すぐここで抱く訳にもいかない。物事には順序というものがある。 「すまない。もう一度だけ」 「はい?」 「煽ったお前が悪い……」 一応自分なりに詫びと断わりと理由を添えて、再び名前の唇をとくと味わった。 「冨岡、さんっ、……っ」 「逃げるな」 「んっ……ぁ」 どんな自分でも受け入れてくれることが、これほどまでに嬉しいものとは知らなかった。愛しい気持ちが義勇の中に広がっていく。唇が離れる僅かな隙間、今度は義勇が言葉を紡ぐ。 「……一ついいか?」 「っ、何ですか……っ?」 ゆっくりと名前の頬を撫で義勇は言った。 「本当は名前はこれ以上強くなる必要なんかないんじゃないかと……鬼殺隊などではなく、普通の暮らしも出来たのではないかと、何度か考えたことがある」 「でも私は──」 「だからといって、名前が決してそれを受け入れないことも分かっていた」 今度は義勇の目に強い意志が宿る。 「ならばせめて俺の前では強がるな」 「……冨岡さん」 「俺がお前を全力で守る。お前だけは必ず、柱としてじゃなく一人の男として」 どうして彼を好きになったのかなんて、そんなの上手く言葉に出来ない。強くあろうとする姿も孤独に揺れる姿も、その声も、指先一つにしても、何もかもが愛しい。 「俺の幸せも名前が幸せでいることが条件だ」 義勇にもう迷いはなかった。 「俺が名前を幸せにしてみせる。だから俺は自分で自分を幸せにすることが出来る。名前は何の心配もいらない」 「ふふ。どこかで聞いたことのある台詞ですね」 「……受け売りだからな」 大切なことに気づかせてされた、と義勇は名前に礼を言った。そして再度名前の顔を引き寄せる。 「待って……っ、え」 もう一度と要求され、応えたことで終わったと思った行為は、義勇の中ではまだ終わってなかったらしい。唇を啄まれ、名前が今一度義勇に応える。 が、様子がおかしい。 「んっ、……あ」 先ほどよりもその口づけは性急で。 「少し口を開けろ……」 「んんっ、ん……!」 そしてより深く口内を犯していった。くちゅりと聞こえるほどの水音を立てながら、義勇の舌が名前の舌を絡めとる。 しかし小さな舌は動くことなく、当の名前はたちまち硬直していく。それならばと義勇は更に名前を攻め立て、口内の粘膜を擦り歯列をなぞると、名前の体がビクリと反応した。 義勇にもはっきりと分かった。そこが名前の良いところだと。そうと分かったら一気に征服欲が掻き立てられた。 今の感覚をもう一度味あわせてやろうと試みるも、それは名前によって阻まれる。 「これ以上はっ、駄目、です……冨岡さんっ」 「何故だ」 問いながら迫る義勇の口を、名前は両手で塞いだ。 「だ、駄目ですってば……っ、義勇さん!」 名前が義勇を名前で呼んだのは、この時が初めてのことだった。それは甘い囁きなんかではなく、まるで子供を叱るようだったと、義勇は今も記憶している。 「ど、どうしましたか……?」 名前が戸惑いながら問いかける。無理もない。義勇がこんな風に顔を赤らめる姿など初めて見た。 「……いきなり名前を呼ぶなどと」 「え、あ……ん──っ」 もう何度目かも分からないキスに、名前はぎゅっと目を瞑った。 甘い痺れに襲われる。水音が鼓膜を通り脳に響く。絡まり零れる唾液に溺れていく。 どうしよう。声には絶対に出せない。 こんなにも気持ち良いだなんて──。 「……っと」 一気に体の力が抜け、崩れ落ちそうになる名前をすかさず義勇が抱える。 「っ、すみません……」 「……これじゃあこの先が思いやられるな」 「どういう意味ですか?」 「いや……こっちの話だ」 名前が想像以上に蕩けた顔をしている。でもこれ以上はきっともたないだろう。義勇は湧き上がる欲を、名前を抱きしめることで抑え込んだ。 「あの」 「何だ?」 「……大好きです、義勇さん」 多分名前には一生敵わない。そんな気がする。そして名前によって、こんな風にいつだって幸せへと導かれるのだろう。 「俺も名前が好きだ」 こうして二人は出逢い想いを交わし、物語は未だ終わることなく続いている。全ての鬼を狩るまで。鬼舞辻無惨を倒すまで。 師匠の願いは二つ。里の想いを繋ぐこと。そして誰かを愛し愛され幸せになること。絶対に叶えてみせる。願わくば貴方の側で永遠に──。 [ back ] |