はじまりはじまり 2


師匠の話によると鬼舞辻無惨という鬼は、里の者を殺めていくと同時に、人間を鬼へと変貌させようとしていたらしい。しかし里の者は誰一人として、鬼になることはなかった。

「多分……この稀血のおかげだ」
「私達の血は鬼を鎮めるだけじゃないの……?」
「昔からの言い伝えがある……っ、我々は鬼には染まらない、と」

その言葉なら名前自身も何度か耳にしたことがあった。染まらないとは、鬼にはならないという意味だったのか。

「がはっ!はっ……は……」

師匠が吐血を繰り返す。

「か……は、名前……」
「師匠!もう喋らないで!お願い……っ!」
「お前に……伝えたいことがある」

震えながら伸ばされた師匠の手を強く握り返す。喋らないでといくらお願いしても、師匠は聞き入れようとはしなかった。そしてやっとのことで振り絞って伝えられた言葉は、師匠の最期の言葉となった。

「稀血のことは……っ、絶対に誰にも教えるな」
「どうして……?」
「っ、この血のせいで……鬼舞辻無惨に、再び狙われる可能性があるかもしれないからだ……」
「でもそいつが皆を殺したんでしょ!?じゃあ私がそいつを殺す!絶対皆の仇を取るから……っ!」
「止めろ……今の、お前じゃ絶対に敵わない……」

そんなこと名前本人が誰よりも分かっていた。鬼の始祖を倒すどころか、隠れて戦うことすら出来なかったのだ。
悔しくて悔しくて悔しくて。今もこうして何も出来ない自分を責めている。責めたところで現実は何も変わらないのに。

「俺達は鬼を殺すんじゃなく……共存の道を探すために、戦ってきた。だから殺すなんて、そんなことを言うな……」

師匠の少しずつか細くなる声を聞いて、名前は唇を強く噛んだ。

「名前……宙の呼吸を、里の想いを……繋いでくれ」
「……はい!里の皆に恥じぬよう、私が絶対!そして今度こそ必ず鬼を……っ!」

握ったままだった師匠の手から、少しずつ力が抜けていくのが分かる。迫りくる現実を認めたくない名前は、何度も何度もその手を強く握り返した。

「今のはお前の師としての言葉だ……ここからは、俺個人の言葉になる」
「師匠個人の、言葉……?」
「名前」

今まで師匠と出逢ってから、こんなにも強く視線を交わしたことはあっただろうか。師匠の想いが命が、強く流れ込んでくる。きっとこれが一番伝えたい言葉で、本当に最期の言葉だと名前は察した。

「戦わなくたっていい……」
「え……?」
「お前は……普通に暮らして」
「師匠……?師匠っ、駄目!目を開けて!」
「誰かを愛し、誰かに愛され」
「嫌だ!お願い!」

「……幸せになれ」

その言葉を最期に、師匠は名前の腕の中で息を引き取った。





それから三日三晩。
どれくらい涙を流しただろう。涙などとうに枯れ果てた。そして何もかもを失ったこの里で、たった一人自分だけが取り残された事実を、否が応でも受け入れなければならなかった。

里の皆を弔えることが出来るのも自分しかいない。そう思った名前は、一人一人その手で埋葬することにした。声をかけ土を被せていく。その際も涙は一度も流れることはなかった。
埋葬が終わりずらりと並んだ墓の前に座る。こうしているとどんどん生きる気力を失っていく。
ただその間ずっと名前の側を離れなかった物がある。鬼を斬るために作られた日輪刀だ。名前はその刀だけは、一度も手元から離すことはなかった。

さらに数日が経ち、時間という概念すら無くしてしまいそうになった頃。僅かに一瞬だけ、背後に気配を感じた。それは里を襲われてから一度も感じたことのない気配。

つまり人の気配──。

名前は目にも止まらぬ速さで、背後の人物に向けて抜刀をしていた。全力で振った刀は予想外の結末を迎える。背後の人物が持つ刀が、名前の刀を止めたのである。

「……はぁ、はぁっ、はぁ!」

抜刀した反動で名前の体は、短く激しい呼吸を繰り返していた。
背後に立っていたのは、一人の見知らぬ男だった。外部の者が滅多に入らないこの里に、この男はどうやって侵入したのだろうか。
男は一切表情を変えることなく、血の気のない真っ白な顔をした名前にこう言葉をかけた。

「それはお前の血か?」

男が血塗れになったいた名前の服を、じっと見つめる。

「どこか怪我をしているのかと聞いている」

深く深く吸い込まれそうな青い瞳。それはまるで空の青を反射した水面のような瞳だった。

「……これは、返り血です」
「そうか」
「貴方は……一体」

今にして思えば、この時すでに水面のように揺れる彼の青い瞳に、囚われてしまっていたのだと思う。

「“鬼殺隊”の冨岡義勇だ」

この瞬間が、名前と義勇の初めての出逢いだった。

「鬼に襲われた時の詳細を話してもらおう」

冨岡義勇と名乗るその人物は、確かにはっきり鬼という言葉を口に出した。そのことに名前は正直驚きを隠せなかった。

「何故、鬼だと……?」
「このへんで鬼が出たとの情報を元に俺はここに辿り着いた。ここには鬼に襲われた痕跡がいくつも残っているみたいだな」
「そう……ですか」
「唯一見つけた生存者はお前だけだ」

ぶつかりあった刀は同じ日輪刀。この人はこの刀で本当に鬼を狩りに来たのだ。師匠から何度も聞いていた、里の者とは歩む道が違う──鬼殺隊。

「……貴方の言うとおりこの里は鬼に襲われ、私以外の者は全員殺されました」
「やはりか。問題の鬼はどうした?」
「どこへ行ったのか分かりません……ただ鬼の正体は知っています。名は鬼無辻無惨」
「鬼無辻無惨だと……!?」

名前は義勇に事の詳細を全て話した。話すなと言われていた宙の呼吸のことも稀血のことも、包み隠さず全てだ。
皆が死んだことで自暴自棄になった訳じゃない。

「情報提供してくれたことに礼を言う」

この時の名前はかつてないほど冷静だった。

「……待って!」

咄嗟に義勇の羽織を掴み、その足を止めさせる。

「お願いします!私も連れて行って下さい……!」
「何?」
「私を……私を鬼殺隊に入れて下さい!」

全てを義勇に打ち明けた目的は一つ。鬼殺隊に入隊するため、そして鬼無辻無惨を必ずこの手で倒すためだった。

「それは俺の一存で決められることじゃない」
「お願いします!」
「悪いが俺にはお前の望みを叶えられ──」

義勇の言葉がそこで止まる。彼もまた、名前の強い意志が宿った瞳から目を離せなかった。

「お願い。貴方達の長に会わせて」

義勇も知らない呼吸法を使う者達。皆稀血で産まれてくるという信じ難い事実。鬼無辻無惨に接触し、唯一生き残った少女。この稀有な存在には、鬼殺隊を前進させる何かがあるかもしれない。

「……分かった。お前をどうするか、お館様に判断を仰ごう」
「あ、ありがとうございます……!」

予想以上にすんなりと事が運び一気に力が抜ける。そんな名前などお構いなしに義勇は再び足を進めた。その背を必死に追いかけた。里を一度も振り返らず、日輪刀を片手に。





義勇の後を追い、着いた先の屋敷で待ち構えていたのは、鬼殺隊の長である産屋敷耀哉だった。先ほど義勇に直談判したように、彼にもそうするはずだったのに、ただただ立ち尽くすことしか出来なかった。彼の持つ独特な空気にあてられたのだ。

「君が名前だね。義勇から話は聞いたよ」

その声を聞いた途端、あれほど煮えたぎっていた憎しみが、不思議と心の奥から消えていく。そのうえ両親のような温かさと優しさに似た雰囲気が感じられ、何故か涙が零れ落ちそうになった。

「膝をつけ」

義勇の声にはっとした名前は、膝をつき頭を下げた。

「過去に一人だけ君と同じ宙の呼吸を習得していた隊士がいたんだ」

師匠の幼馴染だ。間違いない。

「彼はその呼吸をあまり上手く扱えなかったと言っていた。そのかわり炎の呼吸を習得し、最期まで鬼殺隊の隊士として戦ってくれたよ」

その隊士から少しだけ里の話を聞いたと言った。ただ詳細は掴めずじまいだったと。鬼殺隊の誰も知らない宙の剣技。その情報を求めて名前達の里をずっと探していた。そう言って彼は柔らかく微笑んだ。

「名前。君の入隊を歓迎するよ」
「……よろしいんですか?」

こんなあっさりと入隊してしまって。
困惑して思わず義勇の顔を覗き込むも、彼の表情も特に変わることはなかった。産屋敷耀哉は名前の入隊をあっさりと許したうえ、選別試験を受ける必要はないと言った。
それら全ては、名前自身を鬼から守るためであるとも言った。

「無惨が、生き残った君の存在を知ったらどんな行動をするのか、私にも把握出来ないんだ」

師匠も同じことを言っていた。稀血であるがゆえ、鬼辻舞無惨に狙われるかもしれないと。

「入隊を認めて頂けるのであれば、私も全て包み隠さずお話します」

里は無くなってしまったのだから、その存在をもう外部に隠す必要もない。そして今後は彼らが自分の仲間になるのだから、全てを話さなければ信頼関係も築けない。
真実を話す名前に、産屋敷耀哉はある約束を提案した。

「宙の呼吸と稀血については、ここにいる私達以外に口外しないこと」
「承知しました」
「それから宙の呼吸は無闇に使わないように」

そんな。それを使わなきゃ鬼とは戦えない。けれどまだその実態には謎が多く、宙の力そのものを誰も把握出来ていない状態で使うことは、非常に危険だと諭された。

「そのかわりそこにいる義勇から、水の呼吸を教わりなさい」
「水の呼吸、ですか?」
「君の話を聞いたうえで、君にはぴったりの呼吸法だと私は感じたよ」

じゃあここにいる冨岡さんは、水の呼吸の使い手なんだ。彼から教わる新しい呼吸──。
名前に課せられたことは、一日でも早く水の呼吸を習得して、鬼殺隊の任務をこなすこと。そして義勇に課せられたことは、名前に水の呼吸を教え、名前を守ることだった。

「しばらくは君が名前を守るんだよ、義勇」
「……承知致しました」

こうして名前の生活は義勇と共に始まった。
冨岡邸へとやってきた名前に、義勇は最低限必要な情報と知識を与えた。

「すみません……住むところまでお世話になってしまって」
「ああ」

義勇は表情から感情が読み取れないと共に、とても口数が少ない人間だった。迷惑だと思っているだろう。厄介者がやってきたと思っているに違いない。

「こうして鬼殺隊に入れたのも、全て冨岡さんのおかげです」

そう思えば思うほど、反対に名前の口数は多くなってしまった。

「……あの時冨岡さんが里に来て下さったことに感謝しています。あのままあそこに一人でいたら、再び鬼に襲われて死んでいるか、もしくは絶望したまま自害していたかもしれません」
「……俺はたまたまあの場に居合わせただけだ」
「それでも私には嬉しかった」
「俺は誰も救ってはいない」
「いいえ、私は救われました。今もこうして」

ふいっと義勇が名前から目を逸らす。
私は知っている。冨岡さんが優しい人だってことを。
だって初めて里で会った時。

“それはお前の血か”

鬼の所在よりも凄惨な現状よりも、一番に私の心配をしてくれた。口数が少なくても表情に現れなくても、きっと彼は優しい人なんだとそう思いたかった。


そうして名前の鬼殺隊としての暮らしが始まった。義勇の稽古は優しい師匠とは違い、それはそれは大変厳しいものだった。

「“水の呼吸”はいかなる攻撃にも対応できる受けの術。だが極めるには、常に呼吸を保つ心が必要になる」
「受けの術……呼吸を保つ心……」
「水面だ。心に水面を思い浮かべろ。そして水鏡のように静かで穏やかな心を常に保て」
「はい!」

お館様が水の呼吸が自分に合っていると言った意味がよく分かった。水の呼吸はその基礎も心の在り方も、宙の呼吸にとても似ていた。それ故に名前は異例の早さで、水の呼吸を習得することになる。もちろん彼女の努力もあってこそだ。それには義勇も驚きを隠せなかった。

そして迎えた初任務。
二人で鴉の伝達通りに向かった先で一体の鬼と遭遇した。

「これが、鬼──?」

全てを失ったあの日以来の鬼との遭遇。
思いがけず名前は拍子抜けしてしまった。鬼無辻無惨に比べれば、恐怖など微塵も感じなかったからだ。
今の名前の腕前であれば、これくらいの鬼なら一人で簡単に仕留められるだろう。義勇の見守る中、名前は鬼との戦闘を開始する。
しかし名前は中々決着をつけようとはしなかった。

「名前!何をしている!」
「っ……はい!」

しびれを切らした義勇が、大きな声を張り上げる。

「分かっているのか!?お前が斬るんだ!」
「分かっています……!けど……っ!」

鬼を斬ることが出来ない。鬼を殺すなどそんなことはしないと師匠と約束したから。それが宙の呼吸を使う者の心の在り方だから。
だから殺せない。

「名前!躊躇うな!お前は鬼を狩る鬼殺隊の隊士になったんだぞ!」

躊躇う名前に義勇は再び声を上げた。

冨岡さんの言う通りだ。私は鬼殺隊の隊士になったんだ。皆を殺した鬼が憎い。鬼舞辻無惨をこの手で殺してやりたい。この世界のため、鬼はこの手で葬り去って──。

「ああああああ──っ!」
「やめっ!ぐああ……っ!」

雄叫びと共に鬼の頚が地面に落ちた。それはまさしく名前が初めて鬼を仕留めた瞬間だった。刀を収めることなくその場に立ち尽くしてい名前に、義勇はゆっくりと近づいた。

「どうした?」

声をかけるも反応がない。

「名前?」

もう一度名前を呼ぶと顔を上げた名前の頬には涙が流れていた。

「私……鬼を殺してしまいました。それだけはしてはいけないと、鬼と分かり合うためにと……小さい頃からずっと修行してきたのに……」
「名前……」
「でも、私鬼が憎いんです……皆を殺した鬼が憎い……!仲良くなんて、そんなこと……っ!」

義勇が更に名前に近づく。自分でもどうしてそんなことをしたのか分からない。気がつけば目の前で震える小さな体を、ゆっくりと抱き寄せていた。

「こいつを斬らなければ、誰かがこいつに食われていたかもしれない」

初めて会ったあの日ですら名前は一滴の涙も流すことはなかった。浮かべるのは作ったような笑顔ばかり。

「……お前は確かに鬼を斬った。だがそれは誰かを救ったことにもなる」
「冨岡さん……っ」
「よくやった」
「っ……、うああああん!ううう……っ!」

名前は義勇の腕の中、子供のように泣きじゃくった。誰かの前で里を思って泣いたのは、これが最初で最後のことであった。


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