14:愛していた


その日名前は、大きく立派な屋敷の前で一人佇んでいた。
いつもなら何の躊躇もなく目の前の門をくぐり抜けるのだが、今日に至っては中々この足を前に進めることが出来ない。けれど踵を返すことは許されない。
今日はこの屋敷の主──元風柱である不死川実弥と向き合うための大事な日だからだ。


鬼舞辻無惨を討伐し、鬼のいない世界が訪れて、しばらくの月日が流れた。
この世界ではもう刀を振るう必要はないし、毎日任務や稽古に明け暮れる日々もない。鬼殺隊はその役目を果たし終え解散をした。
この平和な日々に辿り着くまでには、多くの耐え難い犠牲があった。生き残った柱は不死川と義勇のただ二人。その事実に涙が枯れ果てるほど泣いて泣いて泣いて、ようやく名前達は再び未来へと一歩ずつ歩き始めた。

そんな矢先のことだった。

『名前と二人きりで話がしたい』

不死川がそう告げた相手は名前本人ではなく、予想外にも義勇であった。
いつもなら二人きりになるなど真っ先に拒否するはずの義勇だが、この時ばかりは不死川の申し出をすんなりと承諾してみせた。

『不死川がお前と二人きりで話がしたいそうだ』

そう名前に伝えた義勇の表情は、とても穏やかなものだった。以前の義勇からは考えられない話だろう。

無惨を倒し手に入れた未来は、決して全てが明るいものばかりではなかった。残された者達が残された時間をどう過ごすのか。鬼殺隊が解散したからこそ、各々がこれからどう生きていくのかをよく考えなければならない。
やり残したことはないか。これからやるべきことは何か。そして精一杯生き抜くうえで、自分にとって大切なものは何なのか。名前達は未来を選択する必要があった。
ただ痣者となってしまった義勇と不死川にとっては、誰よりも不確かな未来が待ち受けていた。

『分かりました』

名前もまた、何も言わずそれを了承した。


夕刻。訪れた不死川邸。

「不死川さーん、お邪魔しますよー」

門をくぐり少し大きな声を出すも、名前を出迎える者は誰もいない。ただこれがいつものことだと分かっている名前は、許可などなくとも敷居を跨ぎ、人気のない廊下をどんどん進んでいく。
こんな風に不死川の屋敷に堂々と入っていける人間は、今でも名前くらいなものだろう。

『テメェは……いつも勝手に入り込んでんじゃねェよ』
『だっていくら呼んでも出てこないんですもん。そう言うなら出迎えて下さればいいのに』
『誰がそんな面倒くせぇことするかよォ』

不死川とこの屋敷でしたやりとりが自然と思い出される。
そして玄関から一直線に向かった部屋で、自身を呼び出した張本人である不死川の姿を見つけた。

「こんにちは、不死川さん」

名前の声に不死川が振り返る。不死川がいつも寝転がっているお気に入りのこの部屋には、今日も温かい日差しが差し込んでいた。

「今日はとっても天気が良いですね。こんな日は外で稽古したら気持ちが良いでしょうね」

以前の不死川なら刀を手に取り、それはもう容赦なく名前に稽古をつけていただろう。
だが無惨を倒した今、その必要は一切なくなってしまった。世の中が平和である証拠なのに、強くなりたいと必死に稽古をしていた日々が無くなってしまったことが、時折寂しいだなんて身勝手な話だと自分でも思う。

「名前、右手のそいつァ」
「さすがですね。もう気づいちゃいましたか」

少しだけしんみりとした空気が、不死川の一言で再び日常へと戻される。
不死川が指摘したのは、名前の右手に抱えられた風呂敷だ。そこからいつもの甘い良い匂いがしている。

「不死川さんにお土産です」

そう言って名前は風呂敷から、不死川の大好物であるおはぎをたくさん差し出した。ほんの少しだけ不死川の表情が柔らかくなる。
普段粗暴な彼を一瞬で穏やかにさせるおはぎはやはり偉大だ。

「悪かったなァ。わざわざ出向いてもらって」
「いえ、そんな」

名前は今一度姿勢を正し、不死川と向かい合う形で正座をした。沈黙が流れる中、静かに彼が口を開くのを待ち続ける。
そして落としていた視線がゆっくりと上がり、目を合わせること数秒。不死川は話を始めた。

「痣者の話は知っているな」
「……はい。存じております」

高い身体能力を得られる痣の出現は、柱にとって最後の決戦では必要不可欠なものだった。ただその痣には25歳までしか生きられないという、とても大きな代償があった。
義勇も不死川もその身に痣を出現させ、最後まで無惨と戦い抜いたが故に、この先いつまで続くか分からない未来を歩むことになった。

「俺には後どれだけの時間が残されているのかは分からねェ」

残りの寿命が数年なのか、それとも数十年先なのか。真実は誰にも分からない。

「単刀直入に言うぞ」

そう前置きをして不死川は言った。


「名前、俺はお前が好きだ。出来るなら残りの人生はお前と一緒に過ごしたいと思ってる」


一ミリとて目を逸らすことが出来ないほどの熱い視線が、真っ直ぐ名前へと向けられる。

今までの不死川さんとはまるで違う。
今度こそ正直な気持ちだ。

最初で最後の不死川さんの本気──。

何か言葉を返さなければならないのに、呼吸をすることすら忘れてしまいそうなほどだった。
限りある時間を自分と過ごしたいという想いが、どれだけ大きな想いなのか。名前自身もそれをよく分かっているからこそ、簡単に返答をすることが出来なかった。

「あ、の……」

必死で何か言葉を発しようとする名前を遮ったのは、予想外にも不死川の方だった。

「いい」
「え……?」
「返事は明日でいい」

不死川は名前に向かって左手を広げ、それ以上の言動を制止させた。
そして目の前に座る不死川はニヤリと口角を上げ。

「そのかわり今夜一晩だけは、俺のことだけを考えろォ」

それでいいと言って、不敵に笑ってみせた。
その笑顔があまりにも優しくて穏やかなものだから、名前の胸はこれ以上ないほど強く締め付けられてしまった。

ちゃんと受け止めなきゃ。
不死川さんの想い全部。

何度も自分自身に言い聞かせる。
そしてゆっくりと顔を上げ、不死川に負けないくらい真っ直ぐな視線を向けた。

「分かりました。では明日の同じ時間にもう一度伺いますね」
「ああ」
「お返事はその際に」

スッと立ち上がる名前を目で追う不死川の中に、ひとりよがりの感情が込み上げる。

「……おい、名前」
「はい」

帰ろうとする名前を呼び止めたのは無意識だった。
今ここで欲望のまま名前を押し倒し、強引に体を重ね、罪悪感にまみれたところで俺を選べと力ずくの言葉でねじ伏せたら──。
ほんの一瞬とはいえそんな考えが不死川に駆け巡った。けれどそれを実行することは生涯ないだろう。
望んだ相手との望まない未来が待っていることだけは、不死川にも分かっていたからだ。

「どうかなさいましたか?」
「いや……」
「不死川さん?」
「……何でもねェ」

それ以上距離を詰めることも触れることもなく、不死川は名前の背中をただ黙って見送った。

一人残された部屋で、名前を想う。

『不死川さん、こんにちは』

人と慣れあうことなど疎ましいと思う自分に、名前は何度も何度も話しかけてきた。何が楽しいのか、馬鹿みたいにいつもにこにこ笑って、しまいには今日みたく勝手に家に上がる始末。何かしら皆で集まって遊ぶことを思いついては、無理やり駆り出されることも多かった。

『怖い?不死川さんがですか?そんなこと一切思わないですよ。だって本当は不死川さんがとても優しい人だってことは、よく存じていますから』

恥ずかしげもなく突拍子もないことを言っては、不死川の心をゆっくりと満たしていった。
鬼殺隊の隊士は多かれ少なかれ、何かを抱えてここに辿り着いている奴らばかりだ。名前もまたその一人だろう。決して口にすることはなかった過去の影響なのか、人の二倍も三倍も稽古に励み、血反吐を吐くような努力をしていたことは、不死川もよく知っていた。

『義勇さん』

惚れた女は、いつも違う男の名を幸せそうに呼んでいた。
その時が一番嫌いで、その表情が一番好きだった。
好きだと言われ本当は困惑していただろうに、平然を装い続けた名前に、改めて強情な女だなと思う。

素直に困る、迷惑だと口にすればいいものを……。

不死川は苦笑しながらおはぎを手にとった。

「……相変わらず絶品だ」

せめて今夜一晩だけ名前を独占したい。
そう願いながら。





冨岡邸に帰宅した名前を待ち受けていたのは、この屋敷の主──元水柱である冨岡義勇であった。

「ただいま、義勇さん」
「ああ」
「お腹は空いていませんか?急いで夕飯の支度をしますね」

いつもと変わらない日常の風景だ。でもそれは互いに変わらない日常であることを意識した上でのことだった。
先ほどまで名前がどこへ行っていたのか、聞かなくとも義勇には分かっていた。敢えてそれを問うことも責めることもしないのは、不死川の気持ちを痛いほど理解していたからだ。
多分この世界で誰よりも──。
あの不死川が名前よりも先に義勇に断りを入れてきたのだ。その覚悟がどれだけのものか。

「それから義勇さん……今夜だけ寝室を別にしてもよろしいですか?」

誰のために何のために願い出たものなのか。すぐに分かったけれど、名前があまりにも優しく悲しい笑顔を浮かべているものだから、義勇は何も言えなくなってしまった。
義理立てだとかそんな軽い話じゃない。
限られた時間を誰と過ごしていくのか。選ばなければいけない名前も、きっと辛いに違いない。

「……ああ。好きにすればいい」

義勇は名前へと伸ばした手を引っ込めて、素っ気ない態度を取った。
今宵の名前には触れることすら許されない──そんな気がしたからだ。
僅かな不安を抱えながら背を向ける義勇に、名前もまた何も言葉をかけられなかった。


そうして夜を迎え、名前は一人きりの部屋で眠りにつく準備をする。
目を閉じ思い出すのは、初めて不死川と会った時のこと。
名前になど全く興味のない様子で、初めは目すら合わせてもらえなかった。いつの日か鬼殺隊で仲間と認められるようになった後も、柱の中で不死川との距離だけは最後まで縮めることが出来ずにいた。
でも本当は知っていた。不死川もまた誰よりも鬼を憎み努力をしていることも、粗暴で威圧的な態度の裏側で、仲間や家族を大事に思う気持ちを持っていることも。そして義勇のようにとても不器用だけれど、本当はとても優しい人だってこともだ。
素顔の不死川に触れたくて、どれだけ疎ましく思われようとも何度も話しかけ続けた。

『今から任務かァ?』
『はい。偵察に向かった隊士が行方不明になっているそうで……』
『そうかよォ』
『それでは失礼させて頂きます』
『おい、名前』
『はい?』
『……テメェはちゃんと帰ってこいよ』

頭を撫でられた温かい感触と、初めて向けられた優しさに笑顔が零れたのを覚えている。

『不死川さーん。雪合戦しーましょ!』
『まだ何も言ってねェのに思い切り雪玉を投げてんじゃねェ……!上等だゴラァ!』
『あはは、皆さん逃げて下さいー!不死川さんが本気です!』

たくさん怒られて、たくさん追いかけられた気がする。

『名前!テメェは下がってろォ!』
『不死川さん……っ!』
『こいつは俺が殺る!』

それから柱としていつも全力で私達を守ってくれた。

『名前、俺はお前が好きだ』

そして、こんな私を貴方は好いてくれた。

瞼の裏にたくさんの思い出が蘇る。様々な表情をした不死川が浮かぶたび、共に過ごした時間がどれほど大切なものなのかを、より鮮明に感じることが出来た。
その夜、約束通り名前は不死川のことだけを考えて眠りについた。照れ屋で不器用な彼は、夢の中までは会いに来てはくれなかったけれど……。





翌日の夕刻。再び訪れた不死川邸。
名前と不死川は先日同様、向かい合う形で座ってみせた。

「今日は生憎の雨ですね」
「ああ、そうだなァ」

ここに来て交わした会話はそれだけだった。沈黙の中、名前がゆっくりと深呼吸をする。緊張でいつも以上に心臓が大きく脈を打っている。来たばかりだというのに、もうすでに喉が渇きを訴えていた。

今度は私が本当の気持ちを伝える番──。

そして意を決した名前が口を開く。

「……先日はありがとうございました。私なんかを好きだと言って下さったこと、本当に嬉しかったです」

張りつめた空気の中、不死川は名前の言葉をただ黙って聞いていた。

「私も単刀直入に申し上げますね」

名前の迷いの無い瞳が不死川を捉える。


「私が愛しているのは冨岡義勇ただ一人です。この想いは生涯変わることはありません」


名前もまた先日の不死川同様、覚悟をした目をしていた。生涯揺らぐことのない気持ちだということを、その瞳が物語っている。
そんな名前に対し少しの間をおいて、不死川はそうかとだけ言った。

「……少しだけ私の話をしてもよろしいですか?」
「お前の話?」
「はい……つまらない話かもしれませんが、聞いて下さると嬉しいです」

そう前置きをして、名前は自身の過去を初めて不死川に語った。
生まれ育った里のこと。家族や仲間全てを無惨に奪われたこと。鬼殺隊に入るまでの経緯。

「何もかも失った私にとって鬼殺隊は唯一の居場所であり、そして隊士の皆さんは家族のような存在でした」

でも一番聞いてほしかったのは、自分の辛い過去じゃない。そうして全てを失った自分が今この瞬間も、そしてこれから先もずっと思うであろう不死川への気持ちだった。

「不死川さん……私、不死川さんのことが大好きです」

ちゃんと伝えなきゃいけないのに声が震える。視界が霞む。今にも溢れそうな涙を堪えるのに精一杯だ。

「義勇さんに対する好きとは違うけれど……でも、不死川さんは私にとって大事な家族なんです」
「……名前」
「我が儘なのは分かっています……自分でも勝手だなって思います。それでも、不死川さんとこうしてお話したり、時には皆で集まって楽しい時間を過ごしたり、そうしてずっと家族みたいに生きていきたいんです。これからもずっと──」

名前の両目から大粒の涙が零れ落ちていた。

想いを告げられた時、義勇さんが好きだとすぐに返答することは出来た。でもそれをしてしまえば、不死川さんがどこか遠くへ行ってしまうような気がして、狡い私はあの時黙ることしか出来なかった。
これ以上大切な仲間が離れていかないように必死に考えたけれど、答えは見つからなかった。こんな風に泣いて困らせて傷つけた自分が恨めしい。

名前の泣き声だけが響く部屋の中、不死川がゆっくりと立ち上がる。
そして泣き止まない名前の側へそっと歩み寄ってみせた。

「ガキみてぇに泣いてんじゃねぇよ」

伸ばされた右手が名前の頭を優しく撫でていく。

「……ったく。手のかかる妹をもっちまったもんだぜェ」

それは名前の想いを全て汲み取った言葉だった。見上げれば慈愛に満ちた不死川の笑顔がそこにある。初めて見るその表情に、名前の涙は止まるどころか益々零れ落ちていくのであった。





泣き腫らした目で帰宅した名前に、出迎えた義勇はとても驚いた表情をしていた。

「ただいま、義勇さん……」

名前が帰ってきた。ただいまという声も笑顔もいつもの変わらない日常のはずなのに、今それがどれだけ幸せなことなのかを改めて実感している。
溢れそうな想いを伝える前に、義勇は名前を強く強く抱きしめていた。名前が自分を選んでくれたという現実を噛みしめながら。

「義勇さん……私、これからもずっと側にいてもいいですか……?」
「……当たり前だ」

いつまで側にいてやれるかも分からない。
名前が思う幸せ全てを与えることが出来ないかもしれない。
それでも俺は──。

「俺を選んだことを後悔だけはさせない。命の限りお前を幸せにすると誓ってみせる」

名前がふわりと笑う。大好きないつもの笑顔だ。

「知っていますか?義勇さん。私の幸せは義勇さんが幸せでいることなんです。義勇さんが幸せでいてくれたら、私はそれだけで幸せなんです」
「どこかで聞いた台詞だな……」
「ふふ……そうですか」
「……なら俺もあの時と同じ言葉をお前に贈ろう」

初めて想いが通じ合ったあの日と同じ言葉を。

「名前、お前が好きだ。だからこの先もずっと俺の側にいてくれ」

待ち受けるは不確かな未来。
それでも描くは最愛の仲間達との幸せな未来。
精一杯生きよう。愛する者のために。そして自分自身が幸せになるために。


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