07:この命よりも大事なその命 久々の合同任務のことだった。隣を見れば半々羽織に身を包んだ愛する人がいる。いつも通りにと言い聞かせながら、それでもどこか浮かれた自分がいたのかもしれない。 下弦の鬼を目の前にしてとんだ大馬鹿者だ。 今になってそんなことが名前の頭をよぎる。 「名前行くな!引け!」 「え……っ!?」 義勇の声が届いた時にはもう遅かった。刀の切っ先が鬼に触れる前に、名前の腹部からはとうに血が吹き出していた。 「名前……っ!」 瞬時に駆け寄った義勇が名前の体を抱きかかえる。そのまま真っ赤に染まった腹部に触れると、名前の顔が苦痛に歪んだ。 「すみません……っ、少しヘマをしました」 「いいからこれ以上は喋るな……!」 少しだけ怒りが含まさったような声。当然だ。鬼を仕留められないどころか、こんな風に足手まといになるなんて。 名前がギュッと唇を強く噛みしめる。 そんな矢先、相手の血鬼術が今度は義勇めがけて襲いかかってきた。 「く……っ!」 間一髪で義勇の刀が攻撃を食い止める。 この鬼の力そのものはそれほど驚異的なものではない。血鬼術にも特別なからくりがある訳でもない。 ただ一つだけ。柱である義勇さえも上回る尋常じゃないほどの速さが、二人が鬼を仕留めきれない原因だった。 「とにかくあの速さをどうにかしないと……」 止血をしている暇などない。ギュッと腹部を押さえつけながら立ち上がるも、ポタポタと地面に鮮血が滴り落ちる。 けれど不思議と痛みはなかった。名前にあったのは鬼を滅したい、そして義勇を守りたいという強い意志だけだった。 ほんの一瞬の出来事だった。 義勇を仕留めようと、全速力で襲いかかってきた鬼の腕が貫いたのは、義勇の前に立ちはだかった名前の腹部だった。 「やっと捕まえました……っ」 吹き出た血で口元を真っ赤に染めながら名前は笑った。 義勇さん、今のうちに。 身を挺した名前がそう口にするつもりだった、わずかコンマ何秒の世界。名前がたった一度の瞬きをしている間に、鬼の頚は既に地面へと転がり落ちていたのだ。 何が起きたのか名前にすら全く分からないまま、目の前の鬼が消えていく。 そして義勇は刃に付いた血を払いながら、鞘へと刀身を収めた。 これが、義勇さん……? そこにはそう疑いたくなるほど、尋常じゃない怒りに満ちた義勇がいた。 「お前という奴は……っ!」 倒れ込む名前の体を義勇が支える。 これほどまでに怒りを露わにした義勇を見たことはあっただろうか。いつもなら矛先を向けられたことに、大丈夫ですよなんて笑みを浮かべながら反論するところだ。だが今は多量の出血のせいか、みるみるうちに顔が青白くなっていく。 「義勇さん……」 大丈夫ですよ。 そう伝えたいのに上手く言葉を発せられない。 「名前!?おい名前!」 自分の名を呼ぶ義勇の声すら遠のいていく。薄れゆく意識の中で、名前は必死に義勇へと手を伸ばしてみせた。震える指先はまるで涙を拭う仕草のように、義勇の目尻に触れている。 義勇さん、私は大丈夫ですよ……だからそんな泣きそうな顔をしないで下さい。 その想いは伝わることなく、名前は義勇の腕の中で意識を手放してしまった。 ◇ 胡蝶しのぶを筆頭に、蝶屋敷の者達が緊急手術のため総動員したのは、血まみれの義勇と名前が訪れた後のことだった。 もちろんほぼ無傷の義勇を赤く染めていたものは、全て名前の血であり、それだけの血を流していた名前は一刻を争う状態だった。 手術に向かうしのぶ達の背中を見送ることしか出来なった義勇が、ふらふらと外に出れば、大きな満月が夜空に浮かび上がっていた。真っ暗な世界に落とされた義勇にとって、今はこの月明かりすら疎ましい。 誰よりも何よりも大切な存在を守りきれなかった。 いつまで自分は大切な人を守れないでいるのか。そのうえ自分ばかりがこうしてのうのうと生きている。 「蔦子姉さん……錆兎…………」 ああ、またいつもの感情が湧き出てくる。 二人じゃなくて俺が……。そうすれば名前だってこんな事態にはならなかった。 最初から俺が死ん──。 “私の幸せは冨岡さんが幸せでいることなんです” ふと頭をよぎったのは名前の笑顔だ。 “冨岡さんが幸せでいてくれたら、私はそれだけで幸せなんです” まだ名前で呼ばれる前の、想いが通じ合った時の名前だ。確かにあの時、俺が側に存在するだけで幸せだと伝えてくれた。 “俺の幸せも名前が幸せでいることが条件だ” あの日伝えた想いは未来永劫変わることはない。だが互いの幸せは互いが側にいない限りは叶えられない。 だから名前。お前がそっちに行くことなど絶対に許さない──。 「冨岡さん!いた……!」 祈る思いで目を瞑っていた義勇の背後から、しのぶの声がした。 「胡蝶……っ、名前は……!?」 「安心して下さい。一命は取り留めました」 「……そうか」 「後は名前さんの回復力次第です。とは言えしばらくは絶対安静ですが」 しのぶの笑顔に一気に肩の力が抜けていく。彼女がそう言うのなら、とにかく山場は越えたのだろう。 「会われますか?まだ麻酔が効いてるので眠っていますけど」 首を縦に振り名前の元へと案内してもらう。私はこれで、と席を外すしのぶに今一度感謝を伝え、名前の横に腰をかけた。 ここへ運んだ時よりは生気の宿った顔をしている気がする。そっと眠る名前の頬に触れ温かさを感じると、より一層深い安堵を覚えた。 「……名前」 名前を呼べど反応はない。麻酔が効いてるのだから当たり前だ。そんなこと百も承知なのに、今は名前が自分の名を呼ぶ声も笑顔も全てが恋しくて堪らない。 「名前……早く目を覚ませ」 白く細い指先に自身の指先を絡め強く握る。 その日義勇は徹夜で名前が目を覚ますのを待ち続けた。 ◇ けれど三日三晩、名前が目を覚ますことはなく昏睡状態は続いていた。 柱としての膨大な任務が与えられている義勇は、それらを全てこなした上で、毎日名前に付き添い続けた。名前への愛情の深さ故なのだろう。でも今はそれが義勇自身を追い詰めているのだと気づいていなかった。 「冨岡さん。しばらく名前さんは面会謝絶にします」 「面会謝絶……?何故だ」 「そうでもしないと貴方は屋敷にも帰らずここに通い続けるでしょう?」 そんな義勇を見かねて声をかけたのはしのぶだった。それも面会謝絶という強硬手段を掲げながらだ。 「俺がここに来ることに何か問題でもあるのか?」 「大ありです。冨岡さん、貴方この三日間食事も睡眠もろくにとってないじゃないですか」 「……別に問題ない」 「そんな顔色で何を言っているんですか。説得力がなさすぎます」 眠る時間すらも惜しいとでもいうように、名前が目覚めるのをずっと待ち続けている義勇の姿は、見ているこちらの方が苦しくなってしまうものがあった。 「このままでは貴方まで倒れてしまいます。そんなことを名前さんが求めていると思いますか?自分を看病していたせいで冨岡さんが体調を崩したなんてことがあったら……」 名前のことだ。物凄く自分を責めるだろうことは容易に想像出来る。 「とにかく今日だけでも一度屋敷に帰って体を休めて下さい。何かあればすぐに連絡しますので」 何も言い返せない自分に、何もしてやれない自分に無性に腹が立ってしょうがなかった。 結局しのぶの言葉に素直に従う他なかった義勇は、この日名前の顔を見ることなく自身の屋敷へと帰宅した。 暗い夜道を一人歩き見慣れた玄関を跨ぐ。いつもならおかえりなさいという声が聞こえてくるのに、自分の足音だけが無音の中響いている。大きく息を吐きながらそのまま布団へ突っ伏せば、先ほどまで一切感じることはなかった疲労感に一気に襲われた。 大切な人達を失ってから時間の経過と共に、それなりに独りには慣れたと思っていたのに……。 「いや……違うな」 独りでいることが当たり前だったのに、いつの間にか名前といることが当たり前になっていた。これが正しい言い方だ。辺りを見渡せばそこかしこに名前の存在を感じられるのに、今はひどい虚無感を覚えるばかりだ。 肉体的にも精神的にも追い詰められていたのだろう。気がつけばそのまま眠りに落ちていた。 そしてその日見た夢は義勇により一層強い孤独を与えた。 それはまるで底なし沼に溺れていくような苦しい夢。必死に手を伸ばしても、もう二度と掴めない感覚が妙に現実味を帯びていた。 『蔦子姉さん……っ?錆兎……!?』 よく似た後ろ姿を見つけ、もう一度思いきり手を伸ばす。 『蔦子姉さん!錆兎!』 必死に大声を出すも二人は振り向くどころか、どんどん遠ざかっていく一方だ。やがてそこにもう一人誰かの姿がぼんやりと映し出されていく。けれど光が反射して、その人物が誰なのかはっきりとは分からなかった。 『……さん』 姿形は見えなくても、微かに耳を掠めた声に聞き覚えがあった。 『名前……?名前なのか?』 問いかけるもやはり反応はない。次第に三人が光の中へと消えていく様を見て、義勇の背筋に悪寒が走った。 『名前、行くな……』 『……勇さん』 『待ってくれ……っ、名前!』 『……ここに……ますよ』 『お願いだ!名前を連れて行かないでくれ!』 『…………さんの、側に……』 光の方へ死ぬ物狂いで手を伸ばした。 もう二度と大切な人を失いたくないから。名前は俺が一生をかけて守ると誓った。まだその約束を果たしきれていない。そうだろう?名前。だからまだ──。 「名前……っ!」 眩しいほどの光に包まれていたはずなのに、一点して義勇の視界は暗闇に包まれる。 はぁはぁと肩で荒い呼吸を繰り返しながらここが現実だと理解したのは、暗闇の中からうっすらと現れた見慣れた天井が見えた時だった。 だが同時に左手に違和感を感じた。あるはずのない温もりを感じたからだ。 「義勇さん」 聞こえたのは自分の名を呼ぶ誰かの声。 これは夢なのか現実なのか。義勇の思考回路が再び狭間で揺れ動く。 いや現実の訳がない。だって今彼女は蝶屋敷の病室で──。 「随分とうなされていましたけど大丈夫ですか……?」 数回の瞬きをしながら、ゆっくりと体を起こす。そうして義勇は心配そうにこちらを覗き込む彼女の顔をじっと見つめ、繋がれた手を改めてぎゅっと強く握った。 間違いない。本物の名前が目の前にいる。 「何故……名前がここにいる……?」 それでも信じられないといった様子で義勇は問いかけた。 「何だか義勇さんに呼ばれた気がしたんです」 「は……?」 「びっくりしましたか?」 何が何だか分からない。おどけてみせる彼女に不信感は募るばかりだ。ただこれが本当に現実なのだとしたら、黙って見過ごすなんて出来るはずがない。 何せ名前は術後、昏睡状態からまだ目覚めてはいなかったはずなのだから。 「胡蝶は何と言っていた?あの状態で外出許可が出るなんて、とてもじゃないが思えない」 「しのぶさんは、ですね……」 突如歯切れの悪くなる様子に、すぐさま違和感を感じた。 「まさか胡蝶の屋敷を抜け出してきたのか……!?」 「えっと……それは……」 「お前という奴はどれだけ馬鹿なことをすれば……っ!」 間髪入れずに責め立てれば、名前は視線を外し罰の悪そうな顔をしてみせた。 まるで抜け出せない悪夢に迷い込んでしまったようだ。 自分が側にいる限り、名前はこうして無茶をし続ける。そんなことは分かりきっていたことだった。 はなから俺に名前を責める資格などない。守りきれないのも無茶をさせてしまうのも全て俺のせいだ。この問題の唯一の解決方法は俺が──。 「義勇さんが今何を考えているか、当ててみせましょうか?」 「何?」 「私が無茶するのは俺が側にいるせいだ、とか思っていませんか?」 「何故、そう……」 「なんとなく、です」 それはよく義勇が名前の考えていることを、鋭く言い当てる時によく口にする言葉だった。 「私、義勇さんの側を絶対に離れませんよ?それに義勇さんが私から離れることも絶対に許しません」 「名前……」 「側を離れることは私にとって死ぬのと同等です。ならばまだ無茶する方がマシだと思いませんか?」 にこりと笑う名前に、義勇は目をパチクリさせた。名前はいつも思いもしないことばかり口にする。そしてそれはいつだって俺を救ってくれるのだ。 「……それは凄い脅しだな」 「不運ですね、義勇さんは。私みたいな女に惚れられて」 「いや、それは違う。俺ほど恵まれた奴などいない」 名前の頬に触れ、もう一度温もりを確かめる。 例え離れることが一番の良策だったとしても、今更そんなこと出来るはずがない。 「義勇さん?」 頬を撫で続けていると、名前がきょとんとした顔をして覗き込んでいる。 「今度は俺が何を考えているか分かるか?」 「え?今ですか?今は、えーっと……」 「……俺の方こそ死ぬまで離すつもりはない、だ」 名前の頬がみるみるうちに赤く染まっていくのを見て、満ち足りた気持ちでいっぱいになっていく。やはり主導権を握られるのは性に合わない。 「キス……しないんですか?」 「……一度でもしたら止まらなくなる」 「それでも構わないんですけどね」 「馬鹿なことを言うな」 ぶつくさと口を尖らせてはいるものの、体はとっくに限界なはずだ。額から流れる汗の量が増え続けている。 「そろそろ蝶屋敷に戻るぞ」 「はーい。しのぶさん、怒るかなぁ……」 「そうなった時は責任持ってちゃんと俺が話をする」 「それはダメですよ。私が勝手にしたことなんですから」 「いや、全部俺のせいだ。俺に惚れられたお前は不運だな……」 「ふふ……義勇さん、それは違います。私ほど恵まれた人はいませんよ」 そうして義勇は名前をそっと抱きかかえ、蝶屋敷へと向かった。もちろんしのぶに怒られる覚悟をしながら。 ◇ 辿り着いた蝶屋敷で待ち構えていたのは、予想通り怖いくらいの笑顔を浮かべていたしのぶだった。 「ご、ごめんなさい……しのぶさん」 「悪いことをしたとは思ってるんですね」 ニヤリと口角が上がる様子が、更に恐怖を倍増させる。 「もう二度と抜け出したりしません……!」 「信じていいんですね?」 「……多分」 「多分……?名前さん、貴方分かってるんですか!?あれだけ盛大にどてっぱらに穴を開けておいて、それもまだ術後三日ですよ!?傷口も塞がってないのに、目が覚めて早々に恋人に会いに行くだなんて前代未聞です!」 「胡蝶、悪いのは俺だ」 「違います!悪いのは全部私です」 「お前はまたそうやって」 「義勇さんこそ、そうやってまた全部自分のせいにしてるじゃないですか」 「貴方達はこの期に及んでまだそうイチャイチャと……」 しのぶがその日一番の笑顔を見せる。 悪寒が走るほどの笑顔を、それも注射器を片手にだ。 「し、しのぶさん……?」 「これでもう二度と脱走出来ないようにしましょう。ね、名前さん」 その後、傷が完治するまでの間、名前が無茶をすることは一度もなかった。しのぶの治療に懲りたからか、再び義勇が毎日通い始めたせいかは分からない。 ただ、あの日どうして目覚めてすぐに義勇の元へ訪れたのか。その真意を聞けば 「夢を見たんです。義勇さんが私を何度も呼ぶ夢です」 「俺の……夢?」 「その夢がとても悲しくて苦しくて、そしたらいてもたってもいられなくなっちゃって……」 何とも不思議な夢だったらしい。 「でも義勇さんの他に、まだ誰かいた気がするんですよね」 「それは誰だ?」 「それがはっきりとは分からなくて。でも女性の声で囁かれたのは覚えているんです」 義勇の側にいてあげて。 「それで余計に行かなきゃって気持ちになりまして」 「……そう、か」 「義勇さんの名前をおっしゃってたってことは、縁のある方なんでしょうか?」 「どうだろうな……」 確信はない。だからその名を口にはしなかった。 だけど今も変わらず俺のことをきっと──。 「名前」 「はい……って、突然どうしたんですか……?」 名前を抱き寄せ顔を埋める。 何よりも大事なこの命が消えてしまうくらいなら、自分の命などどうなってもいい。互いにその思いは変わらないまま、俺達は生きていくのだろう。 「義勇さーん。これじゃあ私のことが好きで仕方がないみたいになっちゃいますよ?」 「……その通りだから別に問題はない」 「は、え……ええっ!?」 だから絶対に俺より先に死ぬな。 そう強く願いながらキスを落とした。 [ back ] |