06:仮想未来


ただの風邪だと思ってた。
だから長期任務に出発する義勇には、特に話す必要もないと思っていた。何より余計な心配をかけたくなかったから。

「やっぱり熱っぽいしだるいなぁ……」

決して義勇の前で強がっていた、という訳ではなかったけれど。こうして一人きりになってからというもの、症状が日に日に悪化しているような気がしてならない。一人ぼっちの生活が心細いのは事実だし、精神的なものと言われればそうだとも言える。
にしてもだ。
普段健康な自分がこうも症状が続くと、体のどこか異変が起こったのではないかと疑ってしまう。

そこから更に一週間。
結局一向に良くならない体を引きずりながら、名前は蝶屋敷を訪れた。飛び交う蝶々の間を通り抜け、真っ直ぐしのぶのところに向かう。

「どうしたんですか……!?名前さん」

突然の訪問にしのぶが振り返れば、そこに見えるは青白い顔。
名前が普通の状態ではないことをすぐに察したしのぶは、急いで診察室へと通した。
名前の驚異的な回復力は、稀血の研究やこれまでの怪我の治療等からみても、この蝶屋敷では周知の事実。それを考えると今現在、何かしらの病に冒された名前の様子は、しのぶ達にとっても珍しい光景だった。

「はい、口を開けて下さい」
「……はい」
「喉は異常がないですね。今度は胸の音を聞かせて下さい」

聴診器の感触がヒヤリとして気持ちが良いだなんて、やはり熱っぽいというのは思い違いではないようだ。次第に言葉数は少なくなり、いつもの笑顔を浮かべる余裕もなくなっていた。
しのぶの指示通り診察に応じていると、突如名前が吐き気に襲われる。

「しのぶさん……ごめんなさい……っ、吐きそう」
「っ……これを使って下さい」

咄嗟に渡した桶に名前は嘔吐を繰り返した。苦しそうに呼吸を刻む背中を、しのぶが優しく撫で続ける。
早急に薬を調合し症状を軽くしてあげたいと思う反面、しのぶの頭の中にはある考えがよぎっていた。そしてそれが正しければ薬の調合は見送らなければならない。

微熱に嘔吐、食欲不振に倦怠感。感冒症状にしては期間が長いうえに、診たところそれらしい所見もない。

「すみません……っ、お見苦しいものを……」
「気になさらないで下さい」

可能性のある病気を並べては消していく。そうした消去法より残された選択肢は一つ──。

「名前さん。つかぬことをお聞きしますが」
「はい……何でしょう?」
「最終月経はいつだったか覚えていますか?」

最終、月経……?
言葉だけが頭の中をぐるぐる巡り、上手く思考が働かない。そんな名前を見かねて、しのぶは言葉を変えもう一度ゆっくりと質問をした。

「名前さん。貴方、妊娠している可能性はありませんか?」

名前の目が見開く。
今度はハッキリとしのぶの意図が理解出来た。

「私が、妊娠──」
「もちろんあくまで可能性なので断言は出来ません。ですがもし思い当たる節があるのなら、と思いまして」

言われてみれば確かに月のものは遅れているし、吐き気や微熱などの症状は、妊娠初期にみられる症状に酷似している。口には出さないが義勇との行為の中で、思い当たる行為があったことも事実だ。

「名前さん、大丈夫ですか?」
「あ……えと……」

俯いたままの名前に、しのぶはもう一度優しく背中に手を添え擦った。

「……そうですよね。大丈夫かと聞いた私が浅はかでした」

正直なところ本当に妊娠しているかどうかなど、今この段階で判断するのは非常に難しい。中期にもなればお腹が大きくなったり胎動を感じたりもするだろう。無論その間月のものは止まったままであるだろうし、妊娠を確定させる判断材料には事欠かなくなる。

問題はそれまで名前がどうするか、だ。

彼女は普通の女性が送る生活とはかけ離れた日々、それも戦いの場に身を置いた生活を送っている。それがもしも身籠っているのだとしたら、とてもじゃないけれど鬼と戦うことなど許可出来るはずもない。

名前は水柱である義勇を守りたいと、隣で必死に戦ってきた。そんな名前の姿や想いを、痛いほどしのぶも理解している。
そんな名前が選択する道はどんな未来へと繋がっていくのか。そればかりはしのぶであれど、簡単には口出し出来ない。

「どちらにせよ、ひとまず症状が落ち着くまでは任務は全てお休みしましょう。考えるのはそれからでも遅くありません」

もしかしたら妊娠していない可能性もある。だからあまり思いつめないように。
と最後にしのぶはそう付け加え、冨岡邸に戻る名前の背中を見送った。





屋敷に戻るも名前は腰を下ろしたまま。体調が改善していないせいもあるが、どうにも家事が手につかない。
未だ帰還する気配がない義勇に、この事実をどう伝えたらいいのか。いや、伝えることすら控えた方がいいのか。かといって任務を全て休むとなれば、彼が納得する答えを差し出さなければならない。

「……どうしよう」
「何がだ」

背後から突如聞こえた声に、名前の体が飛び上がる。振り返らずともその声の主が誰かなんて、考えるまでもない。一瞬にして湧き出た冷や汗を悟られぬように、名前は精一杯平静を装った。

「お、おかえりなさい……義勇さん」

引きつった笑顔のせいか。義勇は名前をじっと見つめたまま。しかしその目は何かを疑うような目をしていた。

「義勇さん……?」

沈黙に耐えられずもう一度その名を呼べば、義勇は小さな溜息を一つ吐いて、名前の顎をくいっと持ち上げた。

「顔色がひどいな。やはり具合が悪かったのか」
「……え?」
「胡蝶のところへは……ちょうど行って帰ってきたところか?」

まるで全て見透かしたように話す義勇に、名前はぽかんと口を開けたまま。何をどう答えていいのか分からなかった。

「あの、何故私の具合が悪いと……」
「任務に出る前からあまり体調が思わしくないことは気づいていた。お前から話して来るまではと思って様子を見ていたが、まさか胡蝶のところに行くほどまでだったとは……」
「しのぶさんのところへ行ったことは、どうして……」
「それは何となく、だ」

出た。義勇さんの恐ろしいほど鋭い勘……!

正確には帰宅した際の家内や名前の様子、色々な観点からそう予測したらしいが、名前には何故それで分かってしまうのかさっぱりだ。

「名前」
「はい……っ!」

低く響く声に思わず背筋がピンと伸びる。義勇の声には少しの怒りが含まれてることが分かったからだ。

「お前はいつも肝心なことほど口にしない」

顎を掴む義勇の手に力が入る。

「分かっているのか?」
「っ……はい」
「俺がそれを怒っていることを含めてだ」
「それはあの、今ひしひしと伝わっています、はい……」

義勇の言いたいことは名前もちゃんと分かってはいる。分かってはいるが、どうしても心配をかけたくないという気持ちが上回ってしまうのだ。もちろん義勇もそんな名前の性格を嫌と言うほど理解している。
だからきっとこの押し問答は一生解決しないのだろう。そんな気がしてならなくて、義勇は今一度溜息をついた。

「それで胡蝶は何と言っていた?」
「それが……原因はあまりはっきりとは分からなくてですね……」

頭を過ぎるのは妊娠の二文字。
肝心なことは言わないと指摘されたばかりだが、不明瞭なことまで義勇に伝えてしまうのもどうかとは思う。それこそ余計な悩みを抱え込ませてしまうかもしれない。
名前の頭の中にあらゆる考えがぐるぐると回る。

それに言ってみたところで、義勇さんがどんな反応をするのか想像もつかない。私達はまだ籍も入れてないどころか、鬼を殲滅させてもいないのだから。
正直なところ話すのが怖い……。

「何を隠している?」
「い、え……何も!」

やばい。今のは完全に態度に出してしまった。
再び名前の体から冷や汗が滲み出る。

「まだ何か隠していることがあるのなら今のうちに吐け」

有無を言わせない圧が名前に襲いかかる。躊躇っていることすら許されないと感じた名前は、今までが嘘のように速やかにその言葉を口にした。

「すみません……一つだけ義勇さんに隠していることがありました……」
「何だ?」


「私、赤ちゃんが出来たかもしれません……」


…………。
…………………………。

ひたすら沈黙が流れること数十秒。


「義勇さん……?」


耐えかねた名前が再度義勇の名を呼ぶも、義勇はその場に固まったままだった。
こんな義勇を見るのは初めてのことだ。故にどう接するのが正解なのか全く検討もつかない。

「あの、もしもーし……?義勇さん?」

目の前で掌をヒラヒラ振ってみるも何も反応がない。ので、固まったままの義勇が動き出すのを名前が待つことさらに数十秒。
ようやく口を開いた義勇は再確認すべく質問を名前に投げかけた。

「…………今、お前は何と言った?」
「私、赤ちゃんが出来たかもしれません、と言いました」

なので今度はもう少し大きな声ではっきりと義勇に伝えてみた。

「お前は…………」
「え、え……っ?」

何故だが分からないが、今度は義勇に顔ごと掴まれぎゅうと頬を押し潰される。多分今もの凄く不細工な顔をしているに違いない、とこんな状況ながらも名前はそんなことを考えていた。

「どうして一番肝心なことは、こうもさらりと言ってのける……!」
「え、あれ……?さっきは肝心なことを口にしないと怒られた気がするのですが、今は口にして怒られていますか……?」

名前の言い分は正しい。
それでも一向に機嫌が直る様子がない義勇に、一気に不安が駆け巡った。

懸念していたのは、もしも義勇さんが妊娠を望んではいなかったら、ということ。

こうなることだって予想してたはずだ。でもいざそれを目の前にすると足がすくむし、胸がぎゅっと掴まれたように苦しくなる。

「あの、義勇さん……」

ダメだ。この先の話をするのが怖い。
子供なんていらないと拒絶されたら?隊士としての自覚が足りないと怒られたら?今だって私達は命を賭して鬼殺隊として生きている。そんな私達に子供がいる生活など許されるの?
私はまだ何も成し遂げてはいない。無惨を倒して義勇さんと鬼のいない世界へ。その意志を決して捨てたい訳じゃない。

でも……それでも私は──。

名前が意を決して自分の想いを口にしようとしたその時だった。

「それで胡蝶は何の準備が必要だと言っていた?」
「へ……準備……とは?」
「出産に必要な準備に決まっているだろう。うちに赤ん坊を迎えられるような物など何もないから、揃えるなら今から……その前に予定日はいつだ?こんなに顔色が悪くて大丈夫なのか?もう一度ちゃんと胡蝶に見てもらうべきだ。今度は俺も付き添って……」

こんな捲し立てるように早口な義勇は初めて見た。いつも冷静沈着な彼がこんなにも慌てている。それがどれだけ珍しいことか。

「怒ってないんですか……?」
「いや……この上なく腹立たしい。ただしその対象は、こんな一大事に気づいてやれなかった俺自身だ」

義勇の手が名前の頬を優しく包む。

「……何も気づいてやれなくてすまなかった。お前のことだ。一人で心細かっただろう」

義勇の言葉に目頭が一気に熱くなる。いつもと変わらない優しい義勇だ。けれどそれは名前にとって思いもしない義勇の姿でもあった。
どうしても聞きたいことが一つだけある。怖くて聞けなかったこと、今ならきっと聞ける。

「義勇さん、私……赤ちゃんを産んでもいいんですか?」

答えを聞く前にすでに名前の目からは涙が零れていた。

「ああ。産んでいいに決まっている……!」

とても力強い答えだった。その答えに名前の涙はボタボタと止まることなく溢れ出た。

「っ、私、まだ無惨も倒せていないのに……鬼殺隊として戦えなくなるなんて……っ、そんなのダメだって分かってるのに……でも、それでも、どうしても産みたくて……っ」
「名前……?」
「だって、そうすれば、義勇さんに家族を作ってあげられるから……っ」

涙を拭っていた義勇の手が止まる。
しのぶから妊娠の可能性を指摘された時、名前の頭に真っ先に浮かんだのは、家族という二文字だった。
家族を失った絶望を抱えているからこそ、名前の言葉がどれだけ大きな意味を持っているのか、義勇にも痛いほど分かる。

この気持ちをどう言葉にしていいのか分からない。

だから義勇は名前を引き寄せ、何も言わず抱きしめ続けた。
名前もまた無言のまま、義勇の腕の中で静かに目を閉じた。誰にも譲れないこの居場所は、いつだって温かく名前の全てを包み込んでくれる。

「名前……ありがとう」

そうしてようやく義勇が口にした言葉は、名前への感謝の気持ちだった。





それからというもの、名前の生活は驚くほどに一変した。

『しのぶさんは、ひとまず全ての任務をお休みした方がいいと仰ってました』
『ああ。当たり前だ』
『でもやっぱり申し訳無いって思っちゃいます……。それに義勇さんを守れなくなっちゃいますし……』
『馬鹿なことを言うな。心配しなくても俺がお前の分も含めて必ず無惨を倒す。お前は、いや……お前達はただ俺に守られていればいい』

あの日の会話を思い出しながら義勇を見つめる。もしかしたら一番変わったのは彼かもしれないと思いながら。

「名前……!」
「はい?」
「お前はまた……!あれほど重い物を持つなと言っただろう……!」
「え、でもこれそんなに重い物じゃ」
「いいからこっちへ来い。無闇に歩くな。動くな。とにかく横になっていろ」
「それじゃあ何も家事が出来ませんよ」
「家事などしなくていい」
「ご飯はどうするんですか?」
「そんなもの俺が」
「でも義勇さん鮭大根作れます?大好きなのに食べれなくなっちゃいますよ?」
「それは……」

あの義勇がこれほど過保護になるとは、さすがの名前も予想外だった。このままでは寝床から起き上がることも許されないんじゃないかというくらい、義勇は名前の一挙手一投足を見張る勢いであった。


でもそれは同時に今まで以上の幸福も与えてくれた。

「辛くはないか?」

義勇が横たわる名前の髪を優しく撫でる。

「はい。毎日気にかけて下さってありがとうございます」
「……何が可笑しい?」
「いえ、その……もし女の子が生まれたら、義勇さんはもの凄く甘やかしそうだなぁと思いまして」

自分でもそんな気がしてならない義勇は、クスクスと笑う名前に反論出来ないまま視線を反らした。

「男の子だったら……刀は握らせるんですか?」
「そうはさせたくはないからこそ、この手で一刻も早く鬼のいない世界にしてみせる」

揺るぎない紺碧の瞳が名前を見つめる。そしてそのまま甘い唇が重なった。何度も慈しむように啄み合い愛を刻んでいく。

「名前、愛してる」
「はい……私もです」

この繋がれた手が、いつか我が子の手を握ることを夢見ながら、名前は毎夜眠りについた。





その夢が夢のままで終わる日を迎えたのは、ある朝のことだった。
朝ご飯を食べ終え食器を下げていた時のこと。下腹部に違和感を感じた名前に、タラリと冷や汗が流れる。

悪い予感を抱きながら厠に行くと、それは突然何の前触れもなく名前の元へと訪れ、視界を赤く染めたのだ。

「義勇さん……っ、あの」
「どうした?」

何があったというのか。
今にも泣き出しそうな顔をしている名前に駆け寄る。すると名前は肩を震わせながら、恐る恐ると真実を口にした。

「私、わたし……っ」
「何だ」
「妊娠、していませんでした……っ」
「…………な」
「月のモノが……ここまでして頂いておきながら、私……ほんっとうに、申し訳ありません……!」

これを機に名前の体調不良は、妊娠ではないことだけは明らかとなってしまった。とはいえすっかり元気になり元通りになってしまった名前にとって、体調不良の原因など今やどうでもいいこととなってしまった訳だが。


「そう落ち込むな」
「でも……しのぶさんだって妊娠していない可能性もあることを、ちゃんと指摘してくれていたのに、私ったら馬鹿みたいに早とちりして……!穴があったら入りたいです!」
「それを言うなら俺も同じだ」

正直今は義勇さんの貴重な笑顔すらも心苦しい……。

「名前」

あまりの恥ずかしさに顔を上げられない名前の頭上に、義勇の声が優しく響く。

「予行練習をしたと思えばいい」
「予行、練習……?」
「ああ。俺も最初こそは慌てたが……これでもう次は大丈夫だ」
「大丈夫とは……?」
「いつでも父親になる覚悟は出来たということだ」

その言葉に名前は目を丸くさせた。

義勇さんのカッコ良さは留まることを知らないとつくづく思う。もしかしたら娘が生まれたら大変な思いをするのは私の方なのかもしれない。

「私はもう少ししっかりしないといけませんね……こんなんじゃ立派な母親には到底なれそうにありません」
「お前はまだ母親にはならなくていい」
「え……?」
「まだもう少しだけ……俺に甘えていろ」

そう言ってぎゅっと抱きつく義勇は、まるで名前に甘える子供のようにも思えた。これではどっちが甘えているのか分からない。だからなのか。甘えろという言葉がどことなく甘えたいと言っているように思えて、名前は思わず笑みを零してしまった。

「ふふ……そうですね。私もまだもう少しだけ義勇さんを独り占めしたいです」

いつかの未来まで。それまでにどうか鬼のいない世界が訪れていますように。
そう互いに願いながら、強く抱きしめ合ったのだった。


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