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沈んでいく夕陽が山々の間に映えてきれいだと素直に感じながらふと前を見る。
男の子の伸びた影は長くて、自分の影は少し短い。
身長も肩幅も髪の長さも何もかもが違って、だけど影だけを見れば異国の人だなんて区別はつかなくて、そういえばパリにいた頃も夕陽に向かって黄昏ていたなぁと染々思った。
街灯に明かりが灯りはじめるとマンションやビルも一斉にパッと電気がつき始める。
チリリン。自転車のベルが後ろから聞こえて振り返る前に隣から腕を引っ張られた。


「Probably, it is dangerous. Turn to a front.(危ないのだよ。前を向け)」


掴まれた腕が離される。
何事もなかったかのようにまた歩き出した男の子に小走りで駆け寄ってお礼を言った。
ふん、と鼻を鳴らされたけど多分、それは男の子なりの返答なんだろうと、出逢って2日しか経っていないのになんとなく直感で感じとれた。
パリを経って日本に来てまだ2日。
たった2日しか経っていないにも関わらずもう随分と日本にいるような感覚がする。
通りすぎる人たちは異国の髪を奇妙な目で見たりするのに、男の子は髪のことも、青い瞳のことも何も言わない。
それどころか、日本語が話せない自分に日本語を教えてやる、と多少上から目線な物言いではあったが見ず知らずの人間に教えてくれたり、腕を引いて歩道に寄せてくれたり。
喫茶店で学んだ日本語を忘れないようにと記したいつも持ち歩いている手帳を鞄から取り出して、つい数時間前に男の子から教わったばかりの言葉をそっと指でなぞった。

¨ありがとう¨

ありがとう。感謝の言葉。
それから、ごめんなさいとさようなら。これは、謝罪の言葉と別れの言葉。
おはよう。おやすみ。たくさん習った言葉はどれも発音が難しく感じるが、ぎこちなく発した日本語を褒めてくれた男の子のやさしい瞳を思い出して、なんだかちょっぴり恥ずかしくなった。
多分、それは手帳から顔をあげた先にある男の子がこっちを見ていたからかも知れない。


「To which do you bend at the next crossing?(お前は次の交差点どっちに曲がるのだよ)」
「I am the right. You?(わたしは右。あなたは?)」
「…I am also the right.(オレも右だ)」


少し間をあけて男の子は右に曲がった。
ジジッ。そんな音が頭の上から聞こえて顔を上げれば街灯の明かりが切れかけている。
視線を戻して男の子の背中を追った。
男の子の隣を歩くように駆け寄って手帳に記した言葉を目で追う。


「あ、………アリ、ガ…とウ」


ありがとう。感謝の言葉を声に出した。
だけど隣からは何の反応もなくて、もしかして発音がおかしかったのかな。とか、言葉自体が間違ってたのかな。とか不安が頭を過って控えめに男の子を見上げると、アンダーリムの眼鏡の奥のきれいな瞳が微かに大きく開かれていて、何度か瞬きを繰り返してから元の大きさに戻った。


「It has not carried out being thanked etc.(礼を言われる事などしていないのだよ)」
「But I was glad.Thank you very much(でも、わたしは嬉しかったから。本当にありがとう)」


ありがとう。また男の子に伝えたら、また鼻を鳴らしていた。
見慣れたアパルトマンが見えてくる。
あ、あそこがわたしの住んでるアパルトマンなのよ。アパルトマン?アパルトマン。日本じゃ何て言うの?あれはマンション、だと思うが。そっか。じゃあ、マンションね。
出逢って2日だと思えないくらいスムーズな会話をしていたら引っ越したばかりのアパルトマン―――マンションに着いた。
部屋の明かりがついている。暗証番号を打ち込んでエレベーターに乗ればもう家だ。


「ア、あリ…アリが、とウ。…Your house?(あなたのお家は?)」


マンションの前で立ち止まり、鞄をにぎりしめながら訊いた。
男の子は眼鏡を押し上げてすぐ近くだと答えてくれた。
そっか。すぐ近くなんだ。そう思ったけれど声には出さなかった。


「It was very pleasant on the first today. May I hear your name, although it is too late?(今日1日とても楽しかったわ。今更だけど、あなたの名前を聞いてもいい?)」
「It is really too late. I am Midorima.Midorima Shintaro.(本当に今更だな。オレは緑間。緑間真太郎だ)」


緑間真太郎。緑間くん。緑間真太郎くん。男の子の名前をそっと心の中で呟く。
一方的に教えることは好かん。お前の名前も教えるのだよ。と、またしても上から目線な物言いで言われたが、それが男の子、緑間真太郎という人間なのだろうと思うと不思議と頬がゆるんだ。


「I am 名字(ローマ字).名字(ローマ字)名前(ローマ字).(わたしは名字。名字名前よ)」


名前を言えばハーフなのかと訊かれ、父親が日本人で母親がフランス人だと答えれば何故お前は日本語が話せないのだと言われた。
確かに日本語がわからないなんておかしいわ。そう返したあと、マンションの窓の開く音がした。
見上げれば、母親が「もうすぐ夕食の時間よ」と、今にも鼻唄を歌い出しそうなほと上機嫌にフライパンを持ちながら叫んできた。
もう、恥ずかしいから叫ばないで。見上げた先にいる母親に言い返したが、フランス語なんて誰も聞き取れないでしょ?と、今度はついに歌いながら言葉が返ってくる。
それは彼を見れば確かに一目でわかった。


「Rencontrons encore.(また会いましょうね)」
「…は?」
「Good-bye!(さよなら!)」


呼び止めようとする緑間の声が耳をかすめる。
マンションの前にある扉の暗証番号を打ち込んで中へ入り、扉が閉まる前に小さく手を振ると、彼は出会ったときと同じような瞳でこっちを見ていた。


(2013.01.18)


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