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睫毛をはたはたとさせて触れた本に伸びてきた長い手を見る。
女の人のように細いのにごつごつした男らしさがあって、その先には長くて粉雪のように白い指先。
それから腕、肘、肩、顔とゆっくり目線をあげれば常磐色の瞳とぱっちり合った。
睫毛が長い。それも下睫毛が。
だけどその長い下睫毛が不思議と男の子に合っていて、やっぱりきれいだと改めて思った。


「…そんなに人の顔を見るな」


あまりにも凝視しすぎたせいか、男の子の眉毛と眉間が寄せられた。
日本語は理解できなくても男の子の気分が良くないことは雰囲気からひしひしと伝わる。


「Pardon.It a ete tire par votre beaute.(ごめんなさい。あなたのきれいさに惹かれていたのよ)」


決して他意はないということを伝えようと言葉を紡ぐが、男の子の眉間に寄せられている皺が深くなってしまった。
異国の言葉だから通じていないのだろうか。と不安を感じながら世界で一番多く使われている英語なら、と今度は英語で話してみる。
すると固かった男の子の表情が僅かにゆるみ、少し考える素振りを見せて「No,it is OK.」と答えてくれた。
それでもあいかわらず男の子の表情は無表情に近い。

(怒ってる、のかな…)

取ろうとした本にはまだ男の子の手がある。
そして自分の手も本に触っている。
この本は男の子に譲って日本語の本はまた違うお店で買うべきか、と少しだけ悩んでいると男の子から声が鳴った。


「…、Doesn't understand Japanese ?(日本語が解らないのか?)」
「It has just come to Japan.Therefore,it does not understand yet.(日本に来たばかりなの。だからまだ判らなくて…)」


右手に持っている日本語の本に視線を落とす。
パリを発つ前にちゃんと勉強してくればよかったと後悔の念に押し潰されそうになるが、いまさらそんなことを思っても日本語が理解できるようになるはずもない。
こんなところでぼそを噛んでいても仕方がないと、半ば開き直るように気持ちを切り替えてもう一度男の子を見上げた。


「I'm sorry.This book is yielded to you.(ごめんなさい。この本はあなたに譲るわ)」


触っていた本の角に小さく力を込めて隙間なく埋められている棚から取り出して、被っていた埃を軽く叩いてから男の子に本を差し出す。
男の子は名字から差し出された本を渋るように瞬きを繰り返し、ちょっぴり遠慮がちに受け取った。

¨一日一膳¨。

名字が唯一日本語で好きな言葉であり信条する言葉。
本当は読みたかったけれど、自分には一応手もとに日本語の本がある。
本を譲ることでやさしい気持ちになったような気分になる名字は、男の子を見上げてにこりと微笑むと初めて逢ったときのように小さく手を振って踵を返した。
可愛らしい鈴がつけられている扉に手をかける。
次はどこに行こうかと本を開いて外にでようとした、そのとき。


「ちょっと待つのだよ!」


言葉は解らないけど、男の子の低い声が背中にかけられた。
振り向くと男の子が譲ったばかりの本を持っていない、なにかテーピングのようなものが巻かれている手で名字の手首を掴んでいる。


「…Quelque chose ?(なにか?)」
「、なんだ…その…」
「…?What's the matter ?(どうかしました?)」


驚きでついいつも使っているフランス語で答えてしまい、男の子が困惑しているように見えて冷静に英語で切り返した。
男の子の視線は名字を見たかと思えば下にも向く。
名字がきょとんとして男の子の顔を下から覗くように見れば、一瞬にして逸らされてしまった。

(逸らされた…!)

何か悪いことでもしてしまったのかと、今度は名字の視線が足元に落とされる。
だが、頭から降りそそがれた声はなんだかやさしくて、それからあたたかかった。


「Shall I teach Japanese.(オレが日本語を教えてやる)」


伏せていた頭をあげてもう一度男の子を見る。
ぱちぱちと瞬きをする名字の睫毛の内側。
青色の瞳には、男の子の常磐色な瞳がきれいに映った。


(2012.12.11)
一日一膳と記載してありますが、正しくは一日一善です。ストーリー上、間違った方を使用しております。>>2012.12.19追記

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