2.14 | ナノ

チョコレートからほんのりと香るラム酒のにおいが心地いい。
正方形に切り出したブラウニーの上に小さなミントを飾って丁寧にラッピングを施した。
味良し、見た目も良し。我ながら完璧な出来栄えだと自画自賛しながらラッピングしたブラウニーを小さな紙袋に入れて、少し鼻唄混じりでローファーを履いてから家の玄関を開けて出た。
パティシエールになるために独学で製菓を勉強しているため、お菓子作りにはそれなりに自信がある。
チョコレートを刻む行程から溶かす温度、溶かしたチョコレートを下げる温度、それから最後にあげる温度、手間がかかって避けられがちなテンパリング作業もしっかりやった。
つい数分前にラッピングしたブラウニーこそ、今の自分が持っているすべての実力を出しきったお菓子。
バレンタインは1年に1回きりで好きな人に告白するには絶好の日。
紙袋を揺らさないようにいつになく慎重に歩いて着いた学校では案の定、あちらこちらから甘いにおいが漂っていて鼻をかすめた。


「甘くていい香り…」


甘いものが大好きな甘党からすればこの香りが堪らなく、朝味見したばかりのチョコレートがすぐに恋しくなる。
チョコレートの香りを堪能しながら目的の下駄箱前まで歩き、そしてその下駄箱を見てしまったことを早速後悔する羽目になった。
この日が来ることを楽しみにしていた反面、今日というバレンタインを恨めしく思う。
女の子はみんなライバル、と言ってしまうと少々おかしいが、好きな人に好意を寄せる女の子は全員ライバルだ。
下駄箱から溢れるほどに詰め込まれたチョコレートたちを眺め、持っている紙袋をどうすべきが悩んでいると、いつもは変わったラッキーアイテムを持っている左手に今日は小さな箱を乗せて登校してきた男の子がすぐ目の前まで迫っていた。


「真ちゃんの下駄箱スゲーことになってたりして」
「馬鹿なことを言うな。そんなは……ず…、」
「ブフッ!ホラ見ろ!」


やってきたのはクラスメイトの高尾、それから、好意を寄せている緑間のふたり。
慌てて廊下の角に身を隠し、ふたりの会話に耳を立てる。
高尾の予想がみごとに的中したのだろう。詰め込まれたチョコレートの山を見た高尾が吹き出す姿が安易に想像できた。
きっと緑間はそんな高尾をひと睨みしてから深いため息を吐き出すに違いない。
少しだけ顔を覗かせてふたりの後ろ姿を観察する。
眼鏡を押し上げる緑間が予想通り深いため息を吐き出し、だけど、その時に見えた彼の耳はちょっぴり赤くなっていた。


「あっれ、真ちゃん照れてる?」
「な、っ!的外れなことを言うな高尾!」
「やっぱ照れてんじゃん!なに、そん中に好きな子からのチョコあったとか?」
「知らん!」


―――好きな子からのチョコあったとか?

高尾の言った科白にぶっきらぼうに答える緑間の顔が見れない。
頭の中をぐるぐると徘徊する高尾の声。
紙袋を握る力が弱まって、あれだけ慎重に運んでいたそれは呆気なく手から滑り落ちる。
ゴトッ。音に反応したふたりが瞬時にこちらに顔を向けた。


「あ、名字さん。おっはー」
「…お、おはよ、う。ふたりともすごいチョコレートの数ね」


さりげなく落ちた紙袋を拾って後ろに隠しながら下駄箱を指差せば、高尾は笑いながらもどこか困惑した表情を交え、緑間はスッと視線を逸らしてチョコレートだらけの下駄箱から上履きだけを取り出していた。
その時に雪崩れるように落ちたチョコレートはきっちり拾いあげてまた下駄箱にしまっている。


「そのチョコレートたち、どうするの?」


最後のチョコレート箱を拾い上げた緑間に訊いてみるが、箱を無理矢理詰め込んで下駄箱をしめた緑間は眼鏡を押し上げ、鼻を鳴らして教室へと歩き始めた。
何か勘に障ることを訊いてしまったのだろうか。不安が混み上がる中、高尾が「まぁ、気にすることねーよ」と優しく声をかけてくれたお陰で気は楽になったものの、ブラウニーの入っている紙袋は自分の手元に残ってしまった。
運動をしたあとのように動悸が速くなる。
ドクン、ドクン。大きく主張する心臓の音が手に汗を握らせ、頭の中を真っ白にさせる。
だけどブラウニーを作っていた頃を思い出すだけで身体が熱くなり、震えていた足で緑間の後ろ姿を追いかけ始めた。
広くて大きな緑間の背中。
どうしようもなく愛しさが溢れ、今までにないくらい大胆に彼の背中に抱きついた。


「っ、名字!?」
「ハァ、ッ、…すき!だいすき!だいすきよ!」
「名字、」
「誰にも渡したくないの!」


ここが廊下だということはもう頭にはない。
羞恥と困惑が入り交じる緑間の声だけが耳を撫でる。
ぎゅう、と更に強く抱きついていると途端に視界が黒く染まった。


「…それはオレの科白なのだよ」


振り向いた緑間に真正面から抱きしめられているとわかったのは、閉じていた瞼をあけたとき。
鼻をかすめるのは甘いにおいと、それから、大好きな彼の香り。
耳奥で揺れる緑間の言葉が理解できない。
少しだけ顔をあげて見えたのは真っ赤になった耳と真っ赤になった頬。
眼鏡の奥にある瞳はじっとこちらを凝視している。
沸騰したみたいに頭の天辺から足の爪先までが熱くなった。


「緑間く、ん…。ここ、廊下…」
「知っている。別に構わないのだよ」
「…わたしが持たない。恥ずかしくなってきた……」


廊下の突き当たりで人がいないことが唯一の救いだとしても、大好きな彼に強く抱きしめられているだけでもう心臓が危うい。
気持ちを受け入れてもらうだけで嬉しいのに彼と両想いだなんて本当に信じられないが、つねった頬の痛みが現実なのだと告げてくれる。
チョコレートを渡す前に告白したのは予定外だけど。
抱きついたあの度胸が崩れ落ちて緑間とは恥ずかしくて中々顔を合わせにくい。
視線を泳がせていると緑間の左手にある小さな箱を再び捉えた。


「あ、その箱…」


正方形の箱に結ばれている赤いリボン。
ラッキーアイテムというよりは女の子からもらった物のように見える。


「あぁ、これか。これはお前にプレゼントするものなのだよ」
「……わたしに?」


予想外。もらったものではなく、あげるものだった。
どうやらバレンタインは男からも告白する逆チョコがあるのだと高尾から訊いたそうで、まさか料理が苦手な緑間がわざわざ手作りする筈はないと思っていたが、そのまさかの手作りチョコレートだと聞いて受け取った手は小さく震えていた。


「緑間くんの手作り…っ!ありがとう!すっごく嬉しい!」
「ふん。…だが、お前にそれをやるとオレのラッキーアイテムがなくなるのだよ」
「あ、じゃあわたしが作ったチョコレートあげる。これなら大丈夫でしょ?」


持っていた紙袋を差し出す。
こそばゆそうに受けとる緑間の手と手が触れただけでまた顔が林檎のようになって、身体中にチョコレートが流れているかのような感覚になる。


「……、名前。助かるのだよ」


大きくて逞しい腕に包みこまれ、脈打つ左胸が耳を撫でる緑間の声と共に溶けた。


fin.

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