「あ、高尾くん」
「お、名字ちゃんじゃん。どしたの」
「うん、高尾くんってさ、甘いもの嫌いだよね」
廊下で偶然を装って声をかける。教室だと緑間くんと一緒にいることが多いからだ。にこにこしながらそう問いかけると、高尾くんは不思議そうに首を傾げた。
「え、好きだけど」
「嫌いだ、よ、ね?」
強調して繰り返すと、高尾くんは口元を引きつらせながら閉口する。実は甘いものは苦手でもなんでもないのは承知の上だ。しかしこれは必要で重要な設定なんだから、今は嘘でも頷いてもらわないと困ってしまう。にっこり笑って首を傾げると、高尾くんは渋々頷いた。うん、それでよし。
「明日はバレンタインだけど、甘いもの苦手なかずなりくんには特別に欲しいものを1つあげましょう」
「ぶっなんだそれ、優しいのかそうじゃないのかわかんねーし!」
「いやいや、超優しいじゃん」
げらげら笑う高尾くんに、口を尖らせた。高尾くんはごめんごめんと謝りながらも、まだちょっと笑ってる。失敬な。一応私なりに、少しでも高尾くんの印象に残ってもらえるように考えた結果なの だ。バレンタイン。元はといえばバレンタインさんが死んだ日らしいんだけど、日本の女の子たちはこの日、こぞって好きな男の子へチョコレートを贈る。ずっと前から好きでした、少し前から気になってました、生まれたときからあなたの元に惹かれる運命でした、付き合ってください。なんて。寒い教室に甘ったるい香りが立ち込めるのだ。秀徳での冬は今年が初めてだけど、ここだって変わらないだろう。「田中くんに」「緑間くんに」「宮地先輩に」果てには「河村先生に没収してもらう」という声も聞いた。おいおい、それはどうなんだ。ともかく、バレンタイン。バレンタインだ。製菓会社の陰謀だとしても、乙女の日というのは何かするきっかけとしては充分すぎるくらいで。かくして、私はクラスの女子のチョコレート戦線の後ろで、ひっそりこうやって抜け駆けしてい るわけです。
「ほらほら、欲しいもの言ってよ」
「んー……んじゃあ名字ちゃんの明日まるごと俺にちょーだい?」
「え、そんなんでいいの?」
「え、むしろこれ以上ないくらいなんだけど」
思わず聞き返すと、高尾くんは本当にびっくりしたように目を丸くした。だって、せっかく高尾くんの一番欲しいものをプレゼントしようと思ったのに。そう言うと、高尾くんはへらりと相好を崩す。「俺が一番欲しいもの名字ちゃんだし」……く、くそう、恥ずかしいこと言いやがって。たらしかこいつ!
「ま、何も言われなくても名字ちゃんの明日は俺が貰うつもりだったしねー」
「えっ」
「運命なのだよ、みたいな?」
……高尾くん、それは、期待してもよろしいのでしょうか。運命なんて、高尾くんには似合わない。けど、ううん、高尾くんとならそれもいいかもしれない……なんて。私もちょっと盲愛気味なとこがあるのかもしれない。慌てて誤魔化すように俯いた。
「運命とか言う男の人は信用できないんだよ」
「ちえ、手厳しいの」
本当はベタ惚れなんですけどね。なんて言えないし。私は全く別の話題を引き出 した。
「運命と言えばさ、バタフライエフェクトって知ってる?」
「ん?何それ」
端的に言うと小さな誤差がやがて大きな差異を生む現象だ。例えば目の前で羽ばたいた蝶が生んだ小さな風が、世界のどこかで嵐を生む、といったような。「100年前に蝶がたった一回羽ばたいていなかったら、私たち出会ってすらいなかったのかもよ」そんな偶然の積み重ねでここにいるのだとしたら、今この状況とは、なんて危ういものなのだろう。運命と呼ぶには儚すぎる。そう言うと、高尾くんは少し難しい顔をしてから、ゆっくり口を開いた。
「じゃあさ、100年前に蝶が羽ばたいたから俺らが出会ったんだとしたら」
「……高尾くん、ロマンチストだね」
「名前ちゃんもなかなかだと思うけど?」
高尾くんはにやりと笑って、「運命的だよな」と言った。きっと100年前に蝶が羽ばたいたときに、決まった笑顔で。
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