oyasumi | ナノ

ハァ、と小さな吐息を吐き出して伸ばした腕は思っていたよりも痺れていた。
首もとを押さえて右、左と首を曲げる。
ずっと握っていたシャープペンシルを手離し、 いつからできてしまったのか分からない中指のペンだこをそっと撫でた。
避けて通ることができない受験勉強は誰もが経験したことだと理解していても、頭の片隅では幼稚園から大学まであるエスカレーター式の学校入試を嫌がった幼少期の自分を心底恨む。
あの頃に戻れるべきなら戻りたいと願ったところで現実が変わることなどない。
それに、帝光中学に通っていなければあの人とも出逢うことはなかった。
ギィ、と音を立てる椅子から下りて本棚に立ててある一冊の雑誌を手に取ってパラパラとページをめくる。
その雑誌についている付箋のページをめくり、載っている写真を見て自然と頬が緩むのが自分自身でも分かった。
きれいな短い緑色の髪が颯爽に揺れる様が、時間を止めたままあの頃のままの形で写っている。
今にも放たれそうな長い腕に支えられているバスケットボールのすぐ下にはアンダーリムの奥にある真剣な瞳がゴールネット一点だけを捉え、流れる汗は頬を滑り落ちて顎のラインで止まっていた。


「…緑間せんぱい、」


帝光ユニフォーム7番を背負っている彼はもうこの学校にいない。
丁度1年前、「キセキの世代No.1シューター」と称された緑間は帝光中学校を卒業した。
100人以上もの部員数を誇る帝光では男子バスケットボール部のマネージャーの数も多く、副主将となった緑間と話した回数は両手で数えられるほどしかない。
一方通行な想いに気づいてもらいたくて必死にアピールしようとしたけど、「キセキの世代の彼女」という肩書きが欲しいだけだと他のキセキの世代たちに解釈される女の子の数が予想を遥かに上回り、何よりも緑間が恋愛事にひどく疎いのだという話を小耳に挟んでからは「大好きな人」から「憧れの人」に気持ちを切り換えようと必死だった。
だけど結局その頑張りは何の意味も成さず、今も彼に対する気持ちは健在している。
憧れの人なんかじゃない、大好きな人。
その大好きな人がいるという理由だけで高校受験先を秀徳高校にしてしまったが後悔はない。
緑間とまた同じ学校生活を送りたくて今まで以上に勉強へ力を注いだ。
その甲斐あって秀徳高校への合格が決まり、あと1ヶ月もすれば真新しい制服に身を包む日がくる。
だからと言って受験勉強が終わったというワケではない。
あと3年もすれば今度は大学受験が待ち構えているのだから、気を緩めず今まで通り勉学に時間を費やす毎日が続いていた。


「けど、まぁ…たまには息抜きしようかな」


換気のために開放していた窓を閉め、見ていた雑誌を元の位置に戻す。
どうせなら散歩がてら秀徳高校までの道のりをしっかり把握しておこうと思い、クローゼットを開けてお気に入りの洋服を手に取った。
秀徳高校は進学校だけではなく、男子バスケットボール部が東京3大王者と称される強豪校でもある。
きっと休日でも練習があるはずだと予測し、あわよくば緑間と出逢えますようにと小さく期待を抱いてワンピースの皺を伸ばした。
マーチンの靴で歩く道はいつもと変わらない筈なのに景色も雰囲気も違う気がする。
秀徳高校に向かうと同時に動悸が速くなって、久しぶりに大好きな人と逢ったら何を話そうかなんて考えながらビルの角を曲がった瞬間―――。


「わあ、っ!」
「っ!」


ドンッ、と誰かと正面衝突してしまった。
前方不注意でぶつかった相手の顔を見上げると目が合って、その相手がついさっきまで頭に浮かんでいた人とそっくりな顔つきをしているせいで驚愕のあまり尻餅をつきそうになった。
見上げた視線の先に立っている男の人は不愉快そうにしていた瞳を大きく開き、アンダーリムの眼鏡を中指で押し上げて薄い唇から小さな声を漏らした。


「お前…名字か?」
「!はいっ、お久しぶりです緑間先輩!覚えてくれていたなんてとっても嬉しいです!」
「ふん、大袈裟な奴だな」


まさか覚えていてくれているなんて思ってもみなかった。
嬉しさのあまり緩みきってしまった頬を見た緑間に何をにやけているのだよ、と言われ懐かしい口癖を聞いたらまたにやけてしまう。
低くて心地いい声も、きれいな緑色の髪も、きれいな顔も、全部が懐かしい。
あの頃とは違う橙色のジャージを身に纏った彼が「お前はマネージャーの中でもきっちり人事を尽くしていたから覚えていたのだよ」なんて、そんな褒め言葉を与えてくれたせいですっかり心臓がうるさくなってしまった。
恥ずかしくなって足元に目線を落とす。
キャラメル色をしたマーチンの向かい側に映るのは緑間が履いている靴。
これから部活に行くかのような格好をしている彼に訊いてみるとやはりまだ部活の時間ではないらしい。


「先輩、実はわたしもこれから秀徳高校に―――」
「緑間くーん!」


¨行こうと思っていたんです。¨
そう続く筈だった言葉は緑間の奥からこちらに駆け寄ってくる女の子の声にかき消されてしまった。
女の子はふわりとセーラー服を風に靡かせ、緑間の腕を掴むとまるでこちらの存在を視界から消しているかのように彼に話しかけている。
緑間は女の子をマネージャーだと言っているが、言葉遣いが敬語だということで女の子が年上だとすぐに判った。
その時、何故か脳裏に部屋で見ていた雑誌の1ページが浮かび上がってきた。
特集されていたのはキセキの世代No.1シューター、緑間真太郎のバスケについてや私生活の話。
その中には¨好きな女性は?¨という質問があり、彼は¨年上¨だと答えていた。
だからだろうか、年上のマネージャーに触れられている緑間の頬が僅かに赤い。
本人は気づいていなくても、ずっと想ってきた相手のことなら嫌でも気づいてしまう。
1年。たった1年の差がこんなにも歯痒い。
1年早く生まれていれば、彼に好意を寄せてもらえていたのかな。なんてことまで考えてしまった。


「―――でね、明日みんなで集まって遊ぼうってことになったんだけど…よかったら私とふたりっきりで遊ばない?」


ひとりで考え込んでいる間にふたりの話は進み、プライベートで逢おうと提案するマネージャーの女の子の声で意識が戻った。
ふたりっきり。その言葉だけがやけに強く響いて胸を締め付ける。
逢ってほしくない。早く掴んでいる腕を離して。彼に好意を寄せないで。自身勝手な感情が出口を探して渦巻く。
でも、出口なんてきっとない。
ふたりの間に入り込む隙間が1ミリもなくて控えめに唇を噛みしめる。


「な、何故ふたりっきりなんですか」
「だって緑間君とふたりで逢いたいから。ダメ?」
「……、」


マネージャーの女の子が上目遣いで緑間を見つめる。
やだ。やめて。行かないで。重たい気持ちを渦巻かせたままキュッと唇を強く結んで彼に近づいて、


「名字?」
「っ、せんぱい、」


眼鏡の奥の瞳がマネージャーの女の子から逸らされて大きく開かれたとき、瞼の裏側がひどく熱くて心臓が飛び出そうになった。
隣にいるマネージャーの女の子のひきつったような高い声が聞こえる。
だけどまだ瞼を開けたくなくて、伸ばしていた爪先を地面につけてからゆっくりと開けた視界にはさっきよりも顔を真っ赤にした緑間が驚愕した表情でこちらを凝視していた。


「せんぱい…。わたし、先輩と出逢ってからちゃんと人事を尽くしてます」
「名字…!?」
「部活のマネージャーも、秀徳高校の入学が決まってからの勉強も、先輩のように人事を尽くしてるんです」


憧れの人だった。だから、同じように部活も勉強も頑張るようになった。
勉強は元から好きだったからもっと頑張るようになった。
恋愛に関しては中々尽くせなくて、今まで殻に閉じ籠って臆病に生きていた。
でも、もう殻に籠っているだけなのは嫌になった。
だから背伸びをして彼の頬に唇を寄せた。
笑われても格好悪いと思われても構わない。
これが今の精一杯の人事の尽くし方なのだから。


「わたしはわたしの為に人事を尽くします」


振り向いてもらえるように、そのために人事を尽くすだけ。
いきなりごめんなさい、と緑間に頭を下げて踵を返す。
自分から起こした行動ではあるが、段々と恥ずかしさが込み上がってきて彼を直視できなくなった。
折角逢えたというのに何をしてしまったのだろう。
罪悪感と達成感がぐるぐると混ざり合って泣きたくなった。
熱くなる目頭を強く擦り、重たいため息が肺から込み上がってきたその刹那。


「先輩、すみませんがオレもオレの為に人事を尽くします。だから、明日は逢えません」


強く腕を掴まれて、そのままぐいっと後ろに引っ張られた。
倒れることなんてない。
後ろにいるのは緑間で回された腕が心なしか熱く感じる。
どうして引っ張られたのか分からなくて瞬きを繰り返すしかできず、ゆったりと上を見上げると緑間が赤くなった顔を逸らすようにマネージャーの女の子とは反対側を向いていた。
せんぱい、掠れた声で名前を読んでも視線は泳いだまま。
みるみる内に身体が火照って沸騰したみたいに顔も熱い。
心臓の鼓動が聞こえるんじゃないかってくらい脈打つ。


「しっ…、信じらんない!緑間君、年上が好きだって言ってたじゃん!」
「、……今は名字が好きなんです」


甲高い声でマネージャーの女の子が悲痛に叫ぶものの、緑間の低くて耳をやさしく撫でる声は確かに¨名字が好き¨だと告げてくれた。
マネージャーの女の子は黙り込み、裏返った泣き声を漏らして背を向けるとこの場を去るかのように走り出した。
その後ろ姿をただ見つめることしかできず、女の子のセーラー服が見えなくなっても回された腕がほどかれることはなかった。


「…あの、せんぱい、さっき……」
「さっき?それよりもお前が人事を尽くしていることをオレは確認したいのだが」
「かくに、ん…?」
「あぁ、確認だ。分かるだろう?」


そう言われて回されていた腕が一瞬だけ離れ、真正面から向き合うような形にされた。
こうして改めて向き合うとつい先程、彼の頬にキスをしてしまった自分の行動が蘇って恥ずかしさが募る。
目線を逸らしたいのに緑間の真っ直ぐな瞳に捉えられて中々逸らせない。


「女主名前」


薄くて形のいい唇から名前が紡がれる。
それが合図となったのか、自然と足が一歩だけ前に進む。
それから、爪先を伸ばした先で緑色をした瞳と長い下睫毛が瞬きをしているのを見てからゆっくりと瞼を閉じた。



精一杯のかっこわるい背伸びで、世界一しあわせなキスをした


黄昏様へ提出。
(2013.03.11)


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