24.11.21 | ナノ

セキュリティが施された20階建ての高層マンションの506室の前に立ち、鞄の中にしまっていたキーカードを取り出した。
シュッとキーカードを滑らせると、カシャンというなんとも軽々しい音が鳴って玄関の扉が開く。
もちろん室内は暗闇に包まれている。
玄関の中の右端にあるボタンを押せば、真っ暗闇だった室内はパッと瞬間的に明るくなった。


「あの、どうぞ。入ってください」
「んじゃお邪魔しまーす、っと」


会社の先輩、そして自分の上司に当たる男は律儀にもキッチリと靴を揃えてから部屋へと上がる。
そのあとから部屋の主である男が玄関を閉め、キーカードをいつもの定位置に置いてから靴を脱いだ。
自宅に帰ると無意識に会社で張っていた気が一気に抜ける。
しかし今日はいつものようにソファーへダイブすることはなく、そのソファーには既に高尾が勢いよくダイブしたあとであろう光景があった。

(…この人は何してるんだろう)

帰宅途中にローソンで買った缶チューハイやビールの入っている袋が、虚しくも悲しく高尾の腹の下敷きになっている。
ソファーのすぐ傍にテーブルがあるのに。とか思いながらもその科白が名字の唇から落ちることはなく、持っていた鞄をストンと落とすとソファーに伏せている高尾の肩を揺さぶった。


「先輩、ビールが下敷きになってるんで起きてください」


そう言いながら控えめに揺さぶるが、高尾の口からは「んー」とか「あー」とかのうめき声しか出てこない。
おまけにソファーからおりる気もないらしく、うつ伏せから仰向きになるとそのまま天井を仰ぎながら豪快にあくびをこぼした。
ビールたちは彼の腕から滑り落ちて、鈍い音を立てながらフローリングに転がる。


「泡吹き出ますよ」
「いーの。俺は安全なビールだけ呑むから」
「オレにこの処理をさせるんですね」


転がって袋から出てきたビールや缶チューハイを拾う。
変わらず高尾はソファーに身体を沈ませたまま、あくびをこぼした口から今度は笑い声を鳴らした。


「冗談だって。俺も呑むから一本ちょーだい」


ソファーから腕が伸びて、拾ったばかりのビールがつかまれる。
その男らしいゴツゴツとした手にビールがおさまり、プシュッと泡が弾かれる音と共にプルタブの底からはぷくぷくした泡が溢れ出てきた。
ソファーからフローリングまでの間がそんなに離れていないとしても、ビールに衝撃を与えたのだから泡が吹き出ることは予測できたはずなのに、高尾は沈めていた身体を素早く起こすと慌てて開け口に唇を寄せて泡を吸いとった。

ポタリ。ビールの缶をつたって床に滴が落ちる。
名字はテーブルの上に置いているティッシュを一枚だけ引き抜いて濡れた床を拭き、クッションを座布団代りにお尻に敷いてからあぐらをかいて座った。


「あーうっめ。やっぱこのビールを呑むために1日頑張ったようなもんだよなー」
「はあ、そうなんですか」
「あれ、お前もそう思わね?」


泡の噴出が収まったのか、缶から唇を離した高尾が缶チューハイのプルタブをあけた名字に訊く。
名字は缶をあけてひとくちだけ喉にチューハイを滑らせ、ゴクリと喉を鳴らしながら呑み込んだ。


「、先輩が言うならそうだと思います」


それからまたチューハイに唇を寄せて呑む。
会社の誰かが「おいしい」と言っていたチューハイには弾けた檸檬と飛沫が印刷され、その絵の上部に主張するかのごとく太い文字で「新発売」と書かれていた。
高尾の身体を沈める弾力もあってやわらかなソファーが鳴る。
ギシリと深く沈んだ。


「名字」


高尾の唇から紡がれる名字の名前。
低くて、やさしくて、とても心地いい。
名前を呼ばれたカレが首だけをひねって後ろを見る。
そして、カレの瞳に大きく映る紫混じりの黒髪と、ひどく整った鼻筋、輪郭、閉じられた瞼。

ほろ苦いビールの味と檸檬の甘酸っぱさが交わる。
とても違和感があってお世辞にもおいしいとは言い難い。
むしろ変な味。
だけどその変な味が何故だか離れられなくて、瞬きをするのがこわくなる。
口内に広がったほろ苦いビールが檸檬を侵食するのに時間はかからなかった。



オーロラを纏う子供

(2012.11.25)

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