ギシ、と軋む音が鳴る椅子に体重をかけて壁にかかっている時計に目をやると、すでに夜の9時を廻っていることに気づいた。
辺りが暗くなっていることにも気づかないほどパソコンと睨み合っていたのか。と頭のはじっこで思いながら身体を伸ばして主電源を切る。
(つーか、誰もいねーじゃん)
周りは自分以外に誰ひとりといない。
いつも社員で溢れかえっている室内は静寂に包まれ、立ち上がったときに鳴った椅子の音だけがひどく浸透する。
高尾は立ち上がり様に曲がりきっていた背筋を伸ばし、首もとで絞めていたネクタイを緩めた。
学生時代は未来の自分なんて想像できなかった。
刹那的速度で青春のすべてをバスケに捧げてきた高校3年間は過ぎ去り、必死に勉強に身を注いだお陰で入学できた大学4年間も、今となっては瞬きしている間に卒業してしまったような感覚。
そして、経済が落胆しているこのご時世に中々の高企業会社へと入社して早3年。
「俺も老けたなぁ…」
こどもの頃は、おとなになると何かが変わると思っていた。
世界のはじっこに立って、朝目が覚めると何かが変わっているんじゃないか。なんて考えていたけど、26歳になるとそんなメルヘンも考えなくなった。
伸ばしていた背筋を戻してふぅ、と一息オフィスに吐き出す。
また時計に目をやれば、あれからすでに5分も経っていた。
只でさえ残業で遅くなったのにいつまでも会社にいるつもりはない。
さっさと帰ってさっさと寝よう。そう考えて鞄を手に取ったとき、
―――がちゃっ。
と、オフィスの扉が静かに開いた。
誰かが忘れ物でも取りに来たのか?と学生のような思考を抱きながら入ってきた人物を見て、もし上司だったらめんどくさいなぁと思って張っていた気が抜ける。
室内は薄暗く顔はハッキリと見えないが、なんとなく『カレ』だという確信があった。
「あ、先輩お疲れさまです」
「もしかして名字も残業だった?」
「…はい、仕事が終わらなくて…」
頭を下げながらポリポリと指で頬をかくカレ、名字男主名前は、高尾と同じ課に配属されたこの春からの新入社員だ。
といっても今は11月で、入社してから7ヶ月が経過している。
部下となった名字は高尾が卒業した大学よりも偏差値の高い大学卒のエリートなのだが、入社してからかなりの頻度で残業しているのを見ていた。
なんでそんなエリート君が残業?なんて声もちらほら聞く。
高尾自身も、名字が残業するような要領の悪さじゃないと思っている。
しかし深く考えることはなく、いつものように「お疲れー」と間の伸びた声で名字に労いの言葉をかけた。
「いえ、先輩も残業お疲れさまです。今から帰宅ですか?」
「おー。名字もだろ?」
カチッとオフィスを唯一照らしていた明かりを消しながら訊く。
扉を出る間際にまた時計を見て、今度は最初に見たときから10分経っていた。
「オレも帰宅するとこです。高尾先輩、いっしょに帰りませんか?」
高尾も名字も、自宅マンションから会社までさほど距離は離れていない。
よってふたりとも徒歩通勤なため、電車の時間を気にしたりすることなく、よく一緒に通勤したり帰路についたりしていた。
「いいぜ。じゃあ今日はお前んちで呑むぞ!」
「え、明日も仕事じゃ…」
「ちょっとだけだからだいじょーぶだって」
「はぁ…ならいいです、けど」
常に無表情な名字の眉が微かにさげられたり、控えめにこちらを伺ってくる瞳に笑いが込み上げてくる。
普段は何事にも動じずにこりとも愛想笑いすらしない名字が、自分といるときだけは人間らしい表情をすることに気がついたのはつい最近。
(他の上司には表情変えねーんだよなー…コイツ)
自分の部下だからなのか。
と、不思議に感じながらやってきたエレベーターに乗って会社を出たとき、名字がポケットをガサガサしながら一本の缶珈琲を取り出した。
「あの、」
「ん?あ、これくれんの?」
「はい。どうぞ」
差し出される缶珈琲をありがたく受けとる。
それはほんのりと温かくて、寒さに晒される夜風に撫でられた頬にあてると、大袈裟かも知れないけど身体全体があたたまるようだった。
「あースッゲーぬくい。サンキュー、名字」
頬に缶をあてたままお礼を言う。
そのちょっと後ろで、名字の耳と頬が僅かに赤く染まっているのを高尾は気づかぬフリをしつつ、それでも口もとだけは確かにゆるんでいた。
恥ずかしがりやの一番星(2012.11.21)
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