24.11.21 | ナノ

早鐘のように脈打つ鼓動の音がやけにハッキリ聴こえる。
あんなに不安に押し潰されていた空間が二酸化炭素に溶けて、分解されることなく炭酸のようにシュワっと弾け飛んだ。
腕の中で唇を結んだまま、困惑と喜色満面の表情をしている名字に視線を落とすとつい頬が綻ぶ。

(っ、やべ…これ夢じゃないよな…)

叶うはずがないと思っていた想いが実るのがこんなにもしあわせで、抱きしめている腕に少しだけ力を込めると花恥ずかしそうに耳まで赤く染める名字の姿ひとつひとつに、どうしようもないくらい愛しさがこみあがってくる。
会社にいるときには決して見ることのできない、名字の新たな一面。


「あ、の…。いつまでこの格好でいるんですか?」


高尾がしあわせに浸っていると、名字が戸惑いがちに訊ねてきた。
名字は、ソファーに座った高尾の足の間に方膝をついて彼の胸に収まっている。
この体勢があまりにもつらく、なんだかほっと安心した瞬間身体から力が抜けて今にも全体重をかけてしまいそうだ。
だからといってこのまま高尾の胸にダイブする勇気や思考はない。

高尾の腕に抱きしめられながら名字がもぞもぞと身動きをとる。
高尾からすれば、本音を言うとまだ名字を抱きしめていたい。
このあたたかい温もりを離したくはないのだが、あまりに名字を苛めるとそっぽを向いてしまうような気がして渋々ながら背中に回していた腕をほどいた。


「……すいません、本当は伝えるつもりとかなかったんです」


ソファーに座り直した高尾の隣に名字が座り、小さなか細い声でそう言った。
柔らかなソファーがふたりの体重で微かに沈む。


「…俺もキスするつもりなかったんだよ」
「……まぁ、はい、あれはビックリしましたが…」


名字が一息ついたときに口づけをしたことを反省して言葉に乗せると、彼から返ってきた科白がもっともすぎて反射的に「悪かった」と口をついて出てきた。
そんな高尾に名字は「でも」と言葉を続け、羞恥に染まりながら何かを紡ごうとした矢先、名字の頭が下がって目線が足元に向けられた。

なんとも歯切れの悪い部分で止まった言葉にじれったく思いつつ、名字につられて高尾も顔を下に向ける。
刹那、靴下からじんわりと感じる妙な冷たさにハッとなった。


「………高尾先輩、足元にビールがこぼれてるんですけど」
「あ、いや、悪い!こぼしたの忘れてた!」
「な、!早く拭いてくださいよ!」
「拭く!今すぐ拭くから!」


名字が出ていってすぐにこぼしてしまったビールのことがすっかり頭の中から飛んでいた。
自責の念を感じながらテーブルに置いてあるティッシュ箱に手を伸ばし、何枚か抜き取って濡れているところを拭いた。
みるみるうちにティッシュは重量を増してびしょ濡れになる。
そのあとから、名字はキッチンにあった布巾を持ってきてフローリングに残るビール液を拭きとった。

(あああー…もう、マジ何やってんだよ俺は!)

なかなかいい雰囲気だったのに。なんて思いながらムードをぶち壊した自分を恨む。
名字が何を伝えようとしていたのか。
フローリングを拭いている名字を控えめに熟視する。
落とされた視線、たはたと動いている睫毛。
遠くから見ても間近で見ても、美形だと改めさせられるほどにスッと通った鼻筋に形のいい唇。


「なんでビールこぼすんですか…もう、……って、先輩。こっち見ないでください」


あまりに注視していたせいで名字が視線に気づき、パッと顔を逸らした。
だけどその顔と耳が紅潮している様には気づくことなく、


「なぁ、男主名前」
「、なんですか」
「―――愛してる」


高尾の唇からなめらかに紡がれた科白を聞いた名字の顔は熟したトマトのように赤くなり、想いを伝えた高尾の顔も感染して淡く染まっていた。



とっておきの魔法の言葉

(2012.11.28)

- 5 -
[prev] [next] [TOP]

- ナノ -