log2 | ナノ

▽ 社会人設定


医大へ入学する前から医師という仕事は夜勤が多いことを十分な程理解していた。
プライベートの時間が少ないことも、目眩を起こしそうな程の多忙で携帯に連絡が入っていようが返信する以前に見れないことも、売店のパンが意外においしかったこと以外はどれもわかっていたことだった。



* * *




先生、今日は早番でしたよね。今夜よかったら一緒に夕食でもどうですか?そんな看護師の誘いをスッパリ断っていつも腰かけている椅子に座ることなく白衣を脱いだ。
白衣がまるで鎧のようだと思い始めてもう何年経ったのかわからない。
ただ、皺ひとつない白衣を身に纏ったときの瞬間だけは今でも慣れなかったりする。
それはやはり、医師という仕事が他人の生命を握っているからかも知れないが。
だから白衣を脱いだ瞬間は身体が一気に安心して妙な脱力感に襲われるのだが、1日というひどく長い時間から解放されたような感覚はどうしようもない心地よさを感じていた。
はぁ、と小さくため息に似た吐息を吐き出してかけている眼鏡を外した。
眼鏡がない裸眼の視力はもう救いようがない程に低下している。
そういえば仕事中に携帯が震えていたことを思い出して、外したばかりの眼鏡をかけ直してから白衣のポケットにある携帯を取り出して開いた。
画面に表示されている新着メールを指で押して受信ボックスを見る。
名字女主名前。送信者の名前に胸が小さく高鳴った。

彼女はマンションのお隣さんで年齢は確か2歳年上の小学校教師。
小さい子供たちの成長が可愛くて仕方がないのだと、引っ越しをして出逢った日にエレベーター内で話したことを覚えている。
あれからもう3年経った今でも出逢いは鮮明だった。
受信ボックスの未読メールを指でタッチする。件名はなし。本文には「今日、早く終わりそうだから一緒に夜ご飯食べよっか」の文字が並んでいた。
一緒に食べないかという誘いではなく、もはや決定事項な文章にこちらの都合など考えていないようにも思えるのだが、携帯画面を押しながら早々と返信をしてしまうのはきっと彼女からの誘いを嬉しく思っているからに違いない。
送信しましたとの文字が消えてメール画面に戻ったことを確認して携帯をポケットにねじこませた。



* * * 




送信しました。そんな文字が携帯画面に映って暫くしたら消えた。
送ってしまったと小さな後悔の念がじわりじわりと襲いかかってくる。
はぁ、とため息を吐き出すと職員室の扉から入ってきた研修生にため息つくと幸せが逃げますよと言われてしまった。
そういえば、同じことを彼にも言われたことがあるような気がする。
彼はマンションのお隣さんで年齢は確か2歳年下の大学附属病院勤務の医師。
医師になって人を助けたいのだと、彼が引っ越してきて出逢った日にエレベーター内で話したことをあれから3年経った今でも鮮明に覚えている。


「名字先生、何か嬉しいことでもあったんですか?」
「え?」
「すごい幸せそうな顔してましたから」


まさか研修生に見破られるなんて思ってもなくて、なんでもないのと赤くなりそうな顔を誤魔化すように笑った。
彼を思い出すだけで幸せそうな顔になるのか。そっか。なんてひとりごちりながらファイルを取り出したとき、机に置いた携帯がヴヴヴと短く振動していた。
怪しまれないようにファイルで手元を隠して携帯を開く。それから新着メールを押して開いた。件名はなし。本文には「俺も今日はもう終わりなのでそっちまで迎えに行きます。待っていて下さい」の文字が並んでいる。絵文字も何もないシンプルさが実に彼らしい。
慣れた手つきで携帯画面を押してメールを返信したときは、つい先程メールを送ったときよりも気持ちが弾んでいた。



* * * 




『じゃあ待ってるね』
たったそれだけの文章。だけど、夕食に大好物が出されたときの子供のような感情がじわりと心に広がる。
見ていた携帯をしまい、シートベルトをしっかりしめて車を発進させた。
正方形の黄色い旗を持った班長の子を先頭に小学生たちが集団で下校している姿を見ると、見ているのは小学生たちなのに脳裏には彼女が浮かんでくるのだから最早末期かも知れない。
気持ちが弾けるかのようにアクセルを強く踏みそうになるのを堪え、赤から青に変わった信号を見てゆっくりとアクセルを踏んだ。
彼女の勤める小学校から病院まで中々の距離がある。
住んでいるマンションはどちらかといえば小学校寄りなため、彼女はいつも歩いて通っている。彼女曰く、運動になるからだそうだ。


「ねえ、名字せんせーは王子さまとけっこんするのかな?」


そんなことを懐かしむように思い耽っていた矢先、小学校の近くの駐車場に車を停めて外に出ると彼女の名前が耳に飛び込んできた。
思わず車のカードキーを落としそうになる。
最近の子供はその年で「結婚」という言葉を知っているのかと驚愕していたが、それよりも振り返った先にいる小学生の口から出てきた王子さまとはいったい誰のことなのか知りたくて堪らない。
名字せんせーというのは間違いなく彼女、名字女主名前。
早く彼女に会って聞きたいのに部外者は小学校内に入れない。校門から少し離れた場所で待機してみると、案外すぐに彼女はやってきた。張りつくように隣を歩く男と一緒に。

唇を強く噛みしめたくなった。
小学生の言葉なんて気にしなくていい。そう思い込もうとした思考すら灰のように崩れ落ちる。
彼女とは、恋仲ではない。ただ仲良くなったお隣さん。ただの片想いでしかないのだから。
王子さまというのはあの男だと直感で感じた。男の爽やかな短い黒髪が風に揺れる。
周りにいる子供たちがまるで名字と男の子供のように見えて、ふたりがお似合いだと思ってしまった。


「名字先生みたいな奥さんだと毎日幸せだろうなぁ」
「あー!王子さまが名字せんせーにこくはくしたー!きゃーっ!」
「こーら、先生をからかうのはやめなさい」
「あ、名字先生。顔赤いですよ」
「赤くないです!もう!」



掌を強く握りしめる。
彼女とは恋仲ではない。ただの片想い。だけど、込み上がる煙のようにもやもやした感情を抑え切れない。
少し大股になりながら彼女に近寄ると傍にいた男が気づいて立ち止まった。
それから彼女もようやくこちらに気づく。


「名字さん」


部外者だとか、男が誰なのだとか、そんなことがどうでもよくなった。
今、彼女の瞬きする綺麗な瞳に映るのは自分だけ。男でも、子供たちでもない。
幼稚だと罵倒されてもいい。それくらい、男に彼女を渡したくない。譲らない。
細い彼女の腕を掴んで校門を出た。



* * * 




鞄を持って職員室を出るとちょうど研修生も帰宅するとのことで、校門までの短い距離を一緒に歩くことにした。
生徒たちが元気よく昇降口を飛び出す。気をつけて帰るのよ。はーい!せんせーさようならー!明るい声に頬が緩む。
本当に子供が好きなんですねと言われ大きく頷くと「名字先生みたいな奥さんだと毎日幸せだろうなぁ」なんて呟きが聞こえた。
聞こえた声を拾った生徒たちが茶化してくるが、素直な気持ちを言えることは子供にしかできないのだろう。
彼に好きだと、たった2文字が伝えられなくなるのは大人の悪い癖だ。


「こーら、先生をからかうのはやめなさい」


生徒たちに言ったら研修生まで茶化してきたもんだから恥ずかしくなる。
ハァ、と吐息を吐き出して顔をあげると、眉間に皺を寄せていつもより大股で歩み寄ってくる彼が映った。
嬉しいはずなのに、彼の雰囲気に違和感を感じて駆け寄りたい気持ちが押し込まれる。


「名字さん」


名前を呼ばれる声に小さな怒りが含まれていると気づいたのは、彼に強く手を掴まれて引っ張られたあとだった。
一瞬の沈黙のあと、強く握られていた手が素早く離される。


「、緑間くん?どうしたの?」
「…いえ、」
「ちゃんと教えて。ねぇ、緑間くん」


向き合った彼の綺麗な瞳は不安そうに揺れて、それから大きな腕でぎゅっと抱きしめられた。
ドクン。心臓が痛いくらいに脈打つ。くっついた彼の身体からも心臓の音を感じる。それくらいにドクンドクンと主張するかのように鳴っていた。
声が出ない。身体も、動かない。
名字さん。耳もとで名前を呼ばれた。名字さん。名字さん。それから、女主名前さん。
もしかして嫉妬してくれたのかな。なんて自意識過剰かも知れないけど、彼の子供っぽい姿に胸をときめかせてそっと背中に腕を回した。

医師という仕事は夜勤が多いことを十分な程理解していた。
プライベートの時間が少ないことも、目眩を起こしそうな程の多忙で携帯に連絡が入っていようが返信する以前に見れないことも、彼から教えてもらった売店のパンが意外においしいということ以外はどれもわかっていたことだった。



ライバル候補出現、面白くない彼は子供のような独占欲をむき出しにした

黄昏様に提出。
(2012.12.22)

- 8 -
[prev] [next] [TOP]