log2 | ナノ

去年の春に新しく買ってもらったローファーはもうかなりすり減っていた。
一歩を踏み出す度に前に進む。
もちろんそんなことは人間が呼吸をして、吐き出して、目まぐるしく回る地球の中で生きていくことと同じくらい当たり前のこと。
吐き出した息が白いのもきっと今だけ。
茜色に染まり始めた宇宙に向かって吐息を吐きながら、また力強く足を踏み出して冷たい追い風と張り合うかのように駆けた。
日頃の運動不足が祟って足腰が痛みを訴えてくる。それでも反抗期を迎えた足は止まることもなく、汗でくっつく髪を耳にかけてテッペンを目指す。


―――あ、飛行機雲!


憎らしいほど青い空に浮かんでいた雲を見つけては声をあげ、隣を歩る緑間は目を細めながら空を仰いでいた。
どこにあるのだよ?緑間くんは視力悪いから見えないねー。笑ってないでさっさと教えろ!そんなに見たいんだ!あははっ!
なんてくだらない、だけど、楽しくて居心地のよかった言葉を投げかけ合って。
彼の眼鏡の奥にある瞳は青い青い空を映し、彼の長い下睫毛が揺れていた。

反抗期な足がゆっくりと歩くスピードを落とす。立ち止まって横を向けば、夕陽がビルに埋もれていく瞬間がスローモーションで映っていた。
高層ビルの建ち並ぶ東京も遠く離れた場所から見ればちっぽけな世界に感じる。
そのちっぽけな世界で生きる人間はもっとちっぽけな生き物なんだろうけど、そんなちっぽけな世界を嫌いなることができない。
生命を授かって生きてきた街に身についた勝手な愛着があるせいなのかも知れないが、多分、他にも理由があるに違いない。
道路にすり減ったローファーを鳴らしながら一歩、また一歩と前に歩んだ。
この坂道を走りながらくだって転びそうになった懐かしい思い出を噛みしめる。
足がもつれて前のめりに倒れそうになって、反射条件で強く瞼を閉じたあとに感じたのは体を打ち付けた痛みでも、擦りむいた痛みでもなくて、


「―――全く、お前は相変わらずだな」


茜色の世界が一瞬にして黒く塗り潰されてもう一度瞼をあけた世界にあったのは、強い力なのにふんわりとやさしく包み込んでくれた緑間だった。
背中から彼の鼓動が伝わってくる。トクン、トクン、トクン。いつもよりちょっと早い。
後ろから勢いよく引っ張られた腕が、彼の逞しくて長い腕に抱きしめられた体が、まるで血液が凄まじい速さで逆流しているような不思議な感覚に陥る。
破裂しそうなくらいに脈打つ心臓をきゅっと胸の上から押さえ、深呼吸を吐き出したときに見えた空には飛行機雲の跡があった。


「あ、飛行機…」


茜色の宇宙を泳いでいる。ゆったりと自由に泳ぐ雲は何にも囚われない。
夕陽が眩しくて目を細めると何故だか哀しくなってきた。
じわりと目尻から溢れ出ようとする滴を制服の裾で強く拭き取る。
だけどそれは中々止まらなくて、壊れた蛇口のような涙腺からぽたり、ぽたりと生暖かい滴が落ちていく。制服に落ちた滴がじんわりと濃い染みを作った。


「…む。どこにあるのだよ?」


背中越しから声が鳴る。
彼は、緑間は、また眼鏡の奥にある瞳を細めて夕暮れ空を仰いでいるのだろう。
眼鏡を押し上げることもせず、ぎゅうっ、とさらに腕に力を込められた。
ビルとビルの間に挟まっていた夕陽が沈む。カラスが鳴いて、電線にとまっているカラスがバサバサと大きく羽ばたかせて飛んだ。
緑間くんは視力が悪いから見えないね。煩い、黙れ。素直じゃないなぁ、もう。ほら、あそこ。だからどこなのだよ。
指を指した空には薄くなった飛行機雲。
あ、もう緑間くんじゃ見えないくらいになっちゃった。…ふん。そんなに見たかったの?別にそんなことないのだよ。

いつの間にか壊れた蛇口は直っていた。
乾いた頬をごしごしと制服の裾で拭く。この制服も、すり減ったローファーも、もうお別れ。
最後だからちょっとくらい汚れたっていい。
抱きしめられていた体を捻って緑間と向き合って胸板に顔を押し付けた。


「一生の別れではない。お前が決めた道だ、しっかり進め」
「…うん。わたし、ちゃんと頑張るよ」


誰かに強要された道じゃない、自分自身が決断した道。
この下り坂で転びそうになっても大丈夫。そんな確信はないけれど、背中に回された緑間の腕がひどくやさしくて、なんとなくそう思った。 長い下り坂から見た夕陽や青空が瞼に焼きつく。


「わたしが帰国したら迎えにきてほしいな」


それまで隣を予約させて。そう言った瞬間、強く頭から引き寄せ込まれて苦しく感じた。
痛いよ。あんなことを言った自分を恨むんだな。…ばか。嘘、だいすき。
包み込まれた身体が熱くて痛い。でも、どうしようもなく嬉しくてまた涙腺が壊れそうになったとき、15年間生きたこの世界にあるちっぽけな坂道を踊る風が頬を撫でる。
ビルの間に嵌まっていた茜色の夕焼けはもう3/4しかなかった。



爪先から愛を侵蝕


とあるジブリ作品の曲を聞きながら書いたらこんな話になりました。あ、名前変換ない。
title/魔女  (2013.01.07)

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