月光 (2/3)
「ありがとう」
「肩を冷やすといけませんから」
上掛けの胸元を広げ、桜子が冷えぬ様抱き寄せると、衣ごと彼女を包む。
ふわりと笑う、妻の横顔。
微かに染まる‥‥‥美しく映える月の色に。
自然と寄せた唇に気付きほんの少し苦笑しながら、そっと眼を伏せた桜子のそれに重ねて。
暖かく柔らかい感触を束の間楽しんだ。
「‥‥‥それで、何を話したいのです?」
惟盛の静かな問い。
瞬間、走る緊張感。
桜子は口接けの余韻など残さぬかのように座り直すと、床に指をついた。
「どうかお願い申し上げます。側室をお置き下さいませ」
「な!?何を‥‥」
「側室をお置きになって、惟盛殿」
聞き間違いだろうか?
桜子の唇が紡ぐのは、全く想像出来ぬ事柄。
俄かには信じられぬ、衝撃。
惟盛の鼓動が早鐘を打った。
「‥‥‥本気で言っているのですか?」
「はい」
「本気で、この私に側室を迎えろと?」
「ええ」
こちらからは伏せられた桜子の黒髪しか見えず、表情を知ることが出来ない。
淀みない返事の真偽すら測れない。
‥‥‥否、桜子の言葉が真である筈がない。
あって欲しくない。
真であると言う事はすなわち、桜子の情が冷めたという事になるのだから。
「‥‥‥顔を上げなさい、桜子」
「‥‥いいえ。惟盛殿が是と答えてくださるまで上げません」
優しく語り掛けるが、桜子は頑なに首を振る。
「顔を上げなさい。眼を見て話さなければ判りません」
「‥‥‥いいえ。これはお願いですもの。切実なお願い事ですから、頭を下げるのは当然です」
一度決めたら覆さぬ、頑固な意思を持つ姫。
思えば、その姫君らしからぬ部分に反発し、また強く惹かれたのだ。
そんな愛する強情さも、今この時だけは苦いけれど。
「桜子!」
未だ伏したままの桜子に手を伸ばし、顎を持ち上げる。
ぐ、っと力を入れて抵抗するものの、其処は男と女。
易々と顔を上向けることに成功した。
‥‥‥涙を浮かべているのなら、まだ可愛らしくもあったが。
「何故その様な事を口にするのか、教えてくれなければ考えることすら出来ぬでしょう」
「でも‥‥」
頬を濡らす雫など見当たらず。
相変わらず瞳を見せぬ桜子を前に、惟盛の中である不安が首をもたげる。
「‥‥‥それとも貴女は、私から離れてしまいたいのですか?」
自分を嫌いになったから、他の女を抱けと言っているのか?
‥‥‥有り得ない、とは言い切れぬ。
男でも出来たのか。
ふと沸いた疑惑に、感情が渦巻く‥‥これは明らかな嫉妬。
「他に想う男でも出来ましたか?」
「違います!」
惟盛の言葉に、きっ、と睨みつけてくる漆黒の眼。
即座の否定に酷く安堵を覚える。
勿論、その様な素振りなど見せる訳はないけれども。
「違う、そうではなくて‥‥!」
「聞かせなさい、桜子」
躊躇いがちに開かれそして結ばれる、桜色の唇。
顎を持ち上げた手を滑らし頬に寄せれば、桜子は眼を閉じた。
眼は瞑ったままで、深く息を吸う。
‥‥一気に言ってしまわなければ、泣きそうだったから。
「‥‥‥貴方は平家の中でも煌く存在。清盛公のご嫡孫です。未だ子を授からぬ私などに遠慮なさらずに、お勤めを果たしてくださいませ」
「勤め‥?」
「御子を、お世継ぎを作らなければならないでしょう」
こんなに寵愛されても
一向に孕む兆候のない桜子だから。
嫡流の血を残す為、惟盛は子を生すことが義務なのだ。
そう、古くから平家に仕える女房頭から散々聞かされた。
本当は聞かされるまでもない。
貴族の娘として、子を産めぬ自分に価値などない事なんて、誰に言われなくても心得ている。
「石女」だと平家の者の一部が陰で蔑んでいる事もまた。
‥‥だから、桜子は引かねばならぬ。
彼を愛しているからこそ。
淡々と紡がれる言の葉。
惟盛の中で何かが弾けた。
気が付けば、桜子の細い肢体を強く強く抱き締める、自らの腕が震えている。
前 次
表紙