所願
雪見御所の夜は深い。
「‥‥‥ごめんなさい」
暗闇の中、仄めく燭の明かりに浮かぶ滑らかな頬に、桜子はそっと触れた。
謝罪は、騙してしまったことと、置いて行くことへのもの。
疲れを取る薬湯と信じ、主の気遣いを恐縮しながら疑う術を知らず。
夢見のない深い眠りに付く、大切な者へ。
「瑠璃‥ありがとう」
「この香りは眠り薬のものですね。お一人で何処へ向かわれるおつもりですか?」
出逢った時から変わらぬ優しき声音に振り返る。
月を背に立つのは、夫と同じ怨霊の青年。
何処へ。
その返答は暗闇に紛れさせて。
桜子はそっと眼を伏せた。
「経正殿、瑠璃をお願いします」
「‥‥‥桜子殿。やはり、貴女は‥‥」
「瑠璃はとても良く気が付く優しい娘です。平家の女房にも引けを取りません。ですから‥‥」
「瑠璃殿には不本意でしょう」
瑠璃は泣くだろう。
桜子を想い、涙に暮れる。
だが、それでもいい。
涙はやがて尽きれば、陽の暖かさに気付くだろうから。
「瑠璃は私と違うわ。ずっと、強いもの」
瑠璃が瑠璃自身の幸福を手にして欲しい。
生きていて欲しい。
桜子が、惟盛と言う名の運命と巡り合えた様に。
尤も‥‥自分の様に波乱に満ちた恋愛はして欲しくはないけれど。
それもきっと、大丈夫だろう。
瑠璃と‥‥瑠璃を心配してやって来た経正ならば。
恋を知り、愛を育み、子の成長を見守り、老いて。
成せなかった桜子の分まで幸せに‥。
「‥‥‥‥分かりました。瑠璃殿は私が守ります」
「ありがとう」
続く言葉が何も出ず、押し黙る。
代わりに温もりを確かめる様に額を撫でた。
乳姉妹で侍女で腹心で、
ずっと支えてくれた大切な友に、感謝を込めて。
『流石に桜子殿をお一人で行かせたとあれば、瑠璃殿に叱られましょうから』
苦笑しながらの経正が手配してくれた馬が、峠を越える。
「お疲れでは御座いませんか?」
「いいえ。ありがとう‥‥もっと急いで貰えるかしら」
「はっ」
馬に乗れぬ桜子には、騎乗に長けた随身を供に付けてくれた事が有り難い。
蹄を駆る振動に身を寄せ
空を見上げた。
‥‥‥間に合うことを祈りながら。
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