紡がれる決意


 


夏の暑さを例年より楽に乗り越えたのは、

熊野の気候が過ごし易い物だから。




京よりも緑が豊かで快適な海風が吹く。
この地は、桜子と瑠璃達に優しかった。


あれから前別当が二度程顔を見せてきた程度で、桜子の存在は熊野の中でも秘められていた。

それは、彼女の微妙な立場故と、彼女自身の願いから。







‥‥‥何時までも平穏で居られないと知っているからこそ。






「姫様!?その様な事を戯れで仰ってはなりません!」

「本気よ」



瑠璃は驚愕のあまり持参してきた高杯を取り落とす。

ごろりと転がる切りたての瓜を、桜子は何気なく目にしていた。






暑気も和らぎ朝夕が涼しくなって来た頃のこと。

涼しくなって来たのね、と語る様な軽い口調で。
けれど苦楽を共にした侍女に告げたのは、未来を決める一言。








‥‥‥出家、と。









「何を驚くの?何時までも此処にお世話になれない事位、瑠璃も知っているでしょう?」

「‥‥ですが、前別当様は何時まで居ても良いと仰って下さったではありませんか」




返す瑠璃の声が上擦る。

それもその筈。
今になって突然主から告げられた事に、衝撃を受けている。
冷静さを欠くのも致し方ない。



「駄目よ。私は平家とは縁を結んだ者。今の情勢から考えると、熊野に居るべきではないもの」




それは確かにその通りだと瑠璃は思う。

桜子は藤原家の姫。
熊野の別当家とは遠縁と言えど親戚ではある。


だが一方で、
離縁したと言えど、桜子は平家の一門と見做されている。


それは、惟盛と婚姻した時から平家の邸に住んでいた事が大きい。
通い婚で無く共住みしていた桜子を、世間は清盛の妻である時子と同様に、平家一門と考えられているのだろう。



時折熊野の市に出る事のあった瑠璃が、商人から聞いているのだ。
今でも桜子は平家の一族と見られていると。



それはきっと、京でも鎌倉でも違いない筈。





「今の熊野に、平家の者を匿うの危険だわ」

「ですが‥‥」

「元々、決心するまでのほんの少しだけ、お世話になるだけで良かったの。でも随分と心地好くて長く居過ぎただけ」

「ですが!」

「‥‥本当は、惟盛殿が儚くなられてから、考えていた事よ。決心するのが遅すぎたの」




桜子がそっと微笑む。
悲しいからではなく、瑠璃を宥める為の微笑。


そこにはもう、どんな言葉をも聞き入れぬと言う強い決意が宿っていた。

それに気づいて瑠璃の目からぽたぽたと雫が落ちる。




「でしたら私も御供いたします!」

「泣かないで。それから気持ちは嬉しいけど、駄目よ。許さない」

「それだけは聞けません!」

「瑠璃‥‥馬鹿ね。貴女のような若い身空で私に付き合わなくていいの。もう充分過ぎるほど仕えてくれたわ」




泣きじゃくる瑠璃の背を、いつもこうして撫でてくれたのは、主の優しさ。


逆に桜子が一番辛い時、何も出来なかったのに。

自責の念が瑠璃を締め付ける。




「お願いです!お傍にお置き下さいませ。瑠璃は姫様にお仕えすることが幸せなのですから」




背を撫でる手が優しいものとなる。
そして、頭上から降る吐息は暖かい。




「‥‥‥瑠璃‥私が祈念するのは、京の平穏ではないのよ?お父様と平家の‥‥そして」




一度区切り、再び吐息。




「‥‥‥あの人の事だけなの。そんな自分勝手な私に付いて来ると言うの?」

「はい、喜んで。姫様と共に祈ります」






桜子の傍で自分も祈ろう。

いつか、大好きだった二人が寄り添えるよう。







瑠璃の生真面目な眼差しに、

「私達は本当に馬鹿ね。いつまでも主従で同じ道を進むのだから」

と桜子が吹き出した。


 





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