別当
熊野は京と違う。
雄大で濃い緑。
京では外に出れば時々、怨霊に襲われた死体が転がっていたが、こちらの気は清浄なのか。
健やかな空気が、桜子を包む。
湛快が用意してくれた離れの邸は人目に付かず、殊更緑溢れている。
初めこそ籠もりがちだった桜子も、三日もすれば活発だった昔を思い出す。
瑠璃に見つからぬ様こっそりと抜け出しては散歩するのが日課となっていた。
「姫君、落し物じゃないかい?」
「‥‥‥え?」
いつか昔、この様に呼びかけられた事があった。
あの時の少年は敦盛で、その後に彼が来て‥‥‥。
けれど今、振り向いた先に居たのは、紅に煌く人物。
少年から青年への過渡期にあるのだろう。
平家の煌々しい彼らに見慣れた桜子でさえ、その穏やかな美に少し見惚れた。
「何を落としたのかしら?」
彼の手元を覗き込めば何も持っていない。
顔を上げれば彼は鮮やかな微笑を浮かべたまま、空の手を振っていた。
「‥‥‥それは小細工のつもり?」
「美しい姫君に警戒されずに振り向いてもらうには、こんな手しかなくてさ」
「嘘‥‥貴方の様な人はこんな幼稚な手を使わないでしょう」
「オレの様な?それは気になるね。教えてくれるかい?」
「女性を口説くのが上手な人という意味だけど」
「ふふっ。随分手厳しいな」
伊達に華やかな平家に居た訳ではない。
伊達に、平家の色男や、美形なのに無愛想な男を見ていた訳でもない。
‥‥‥眼を見れば少しは分かる。
彼が自分に声を掛けたのは、女を口説く目的ではないと。
綺麗な唇が開かれる前に、桜子は頭を下げる。
「ご挨拶が遅れましたこと、真に申し訳なく思っております。現別当殿」
「気に病まないでくれるかい、姫君?‥‥‥ただ、惜しい事をしたと悔やんでるけどね」
「惜しいこと?」
「あぁ。親父が囲ったっていう姫君が、朝露を含んだ華の様に美しいとは思わなかったからさ。もっと早くに会って置くべきだった」
「まぁ、囲っているなんて。お父様のお耳に入れば大目玉ね」
おどけて片目を閉じる彼に、思わず吹き出す。
「‥‥それでご用件はお済みになったの、別当殿?」
「別当殿ってのは戴けないね。そんなんじゃ姫君との距離が縮まないだろ。オレの事はヒノエって呼びなよ」
くすり、笑う彼。
記憶に朧げな、彼の父に良く似ている。
‥‥ふっと真顔になる瞬間も、父子そっくりだ。
「‥‥‥おっと、もう来たか。時間切れだね」
桜子も耳を澄ませば、ヒノエの名を呼ぶ声が遠くから。
その声は少女の物。
そして、彼が慌しく駆け出したのが少し以外だった。
「じゃぁまた。お会い出来て嬉しいよ、山桜の桜子姫」
「‥‥その呼び方は止めてよね」
桜子の呟きを拾ったのか否か。
細身の後ろ姿は、斜面を下っていった。
呆れている桜子は知らなかった。
彼の目的が、桜子を見極める為だと。
最後に彼を探していたのが、源氏の神子だと。
だから彼は少し慌てていたと。
‥‥‥紅の少年と再会するのは、もう少し
時が経ってからになる。
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