落つ、涙

  




数少ない女房と数名の雑色を連れ、予め連絡しておいた熊野に到着したのは、夏の初め。


父方の縁戚である前別当は、挨拶に訪れた女に目を細める。




「長く会わねぇ内に、随分と別嬪になったな、お前さんも」


「あの頃はまだ木登りも出来ぬ童でしたもの」



まだ先代から頭領を継いだ頃、少しだけ遊んでやった事のある幼児だった桜子は、美しい女となっていた。


時が経つのも、時勢が変わるのも致し方あるまいと、湛快は嘆息する。



「息子には会ったのかい?」


「いいえ。熊野に着いてすぐにこちらに参りましたから」


「なら会ってくか?待ってな、今呼んでやるから」



平家と離縁した、藤原家の姫。


今の源氏と平家、そして難しい熊野の情勢を忘れてなどいない。
預かるには少し厄介な存在。
初めは丁重に断るつもりでいた。

それでも彼女の父からの願いを聞き、身を熊野に引き受けると決めたのは、同情あっての事。



離縁した桜子の夫は、平惟盛。

一度死して怨霊となって黄泉返って来たと言う。
湛快が数年前に邂逅した惟盛の祖父と、同じ存在となって。


中睦まじいとの噂とは相違して、真相を文に認めた大納言の父心。



そんな理由だけで引き受けるほど、甘くはないつもりだったが。



「待ってください」

「どうした?」

「無礼は承知しておりますが、現別当殿へはいずれまた‥‥」



そっとしておいて欲しい。



「‥‥‥当分はあいつも熊野にいるらしいしな。桜子の仰せを聞いてやるか」

「ありがとうございます」



力なく笑う桜子が何処か危うくて、釣られて頷く。

何も考えず静かに生きたいと、その眼が告げている気がした。

















「とってもいい所ね、熊野は」

「‥‥姫様」



用意された邸には品の良さを感じた。
調度も、平家に居た頃と何ら遜色ない。


それは桜子を丁重に扱ってくれるという証。



「瑠璃は口惜しいのです」

「‥‥ごめんなさい。瑠璃にはお父様の名を穢させないなんて誓ったのに」



かつての約束を、今でも主が覚えてくれていた。
そして、頭を下げてくれる。

優しく真面目な主に胸が熱くなって、今度は激しい嗚咽が生まれた。



「違いますっ‥‥!私が申し、上げたい‥‥のはっ惟盛様のっ‥」

「惟盛殿のこと?」

「姫様は、平家の北の方であらせられたのに‥‥っ!!」




はらはらと、荷を解く瑠璃が涙を零す。



此処に到る道中、ずっと涙を堪えてきたらしい。
一度堰を切れば止まることが出来なかった。




「あ、あんなに仲睦まじいご夫婦でしたのに‥‥桜子様を離縁されるなんて‥っ!」

「瑠璃‥‥」

「あれ程お慕いしていた桜子様に、惟盛様はなんと惨いっ‥‥‥」



震える声に、震える肩。

紡ぐ言は、ただ主を思ってのこと。



あんなに愛し合っていたのに。
あんなに仲が良かったのに。


瑠璃の眼にも疑いようの無い愛で結ばれていた二人は、一枚の絵巻物のようだった。
二人は、瑠璃の憧れだった。

‥‥‥彼が人としての生を閉ざすまで。



「‥‥‥ねぇ、瑠璃。私は追い出されたのではないわ。自分からさよならしたの」



手に温もりが生じる。
顔を上げれば主たる姫が、柔らかに笑っていた。


それはまるであの日の様に。

‥‥そう、平家に嫁いだ、あの朝のように。




「‥姫、様」

「私は後悔していないわ。惟盛殿と出会えて幸せだったもの。今でも変わらない」

「それでも姫様は‥‥離縁をお受けしたのですか」

「ええ、そうよ」



桜子が伏せた瞼に、熊野の西陽が射す。













眼裏に浮かぶは、愛しい彼の仕草。








「‥‥‥あの方が、今でも私を愛して下さって居るから」







嘘が下手で、不器用で

言葉と裏腹な惟盛を、ずっと愛してきた。




そんな桜子だから気付いた本音。





それが伝わった今は生きていける。

彼が存在するならば、どれ程離れていても‥‥‥。



「だから私は、あの方の願いを聞いたの」




桜子が浮かべたのは、瑠璃の眼にした中で一番


夢のように美しい‥‥微笑。







 



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