最後の抱擁






「私の事など、捨て置いて下されば良いものを」


「記憶にはなくとも一度は情を重ねた方に対する、最後の礼儀です」




惟盛がふと笑った。





不思議に思う。

失った笑みを、再び眼に出来るのが今頃だと云う事が。

惟盛の元を去る。
そう決めた今、求めたものを与えられたと。




そうと知れば、桜子自身、もう止められない切なさのまま。


手を伸ばして惟盛の胸に抱き付いた。




「貴方から、去ります。だから‥‥‥‥‥‥こうしていて」


「な、何をっ‥‥‥」


「ほんの少しだけ。これで貴方から離れられる」




体温のない冷たい身体。




どれほど冷えても、ぬくもりを与えてくれぬ。

彼は変わり果てたのだ。



もう、とうに桜子の手から零れていた。

諦めた振りをしながら、何処かで期待して居たのだ。



いつか必ず、彼の心は帰ってくると。





やっと気付いた、今だから。

取り戻せない日々を冷たい身体ごと抱き締めた。




「貴女は‥‥‥‥‥‥」




小さな小さな囁きと共に、背に感じる腕。






強い抱擁は一瞬だけ。





瞬きする間に離れた身体は、まるで夢でも見せられた様に儚い。




「‥‥‥‥‥‥貴方は狡い人だわ」


「何の事です」




冷たく言い放つ。
そしていつもなら、歩み去るのは彼。

けれど、最後くらい自らの意思で去りたいと思った。


顔をしゃんと上げ、踵を返す。



「経正殿に今日出立すると、伝えて来ます」


「ええ」






‥‥‥振り返ることはしない。

向けた背に痛いほどの視線を感じるけど、それでも。





「      」





そのとき聞こえたほんの小さな惟盛の言葉。

歩みを縫い止めようとしたけれど。



















「‥‥‥‥‥馬鹿ね‥‥」


‥‥‥廊を曲がり、人の居ない事を確認して、がくりと膝をついた。




聞かなければ良かったのに、聞こえてしまった。


一瞬の囁きが何度も何度も繰り返される。






『‥‥幸福でしたか?』





涙腺が堰を切った。



「はいっ。はい‥‥‥惟盛殿」







幸福だった。









忘れられないほどの幸と、苦しみと、絶望と‥‥‥

夢の灯火を与えてくれたひと。



 



 



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