思ひし心






「明日、出立なのでしょう?準備に忙しいのではなくて?」

「何故、私自ら準備などせねばならぬのです」

「‥‥‥それもそうね」

「そのような事は下々の者の仕事でしょう」




二人が夫婦であった頃は桜子が率先して用意していた。


無事であるように。必ず帰ってくるように。武功などどうでも良いから。


‥‥‥狂おしいほどの祈りは何故、聞き届けられなかったのだろう。



「惟盛殿」



振り向くことは出来ぬまま。



「‥‥‥まだ何かあるのですか」



鬱陶しさを隠さずそれでも返事をしてくれる惟盛を今、振り返ればきっと彼は嫌悪するだろう。

涙など見せられぬ。



「ご無‥‥‥ご武運をお祈りしております」



無事を願えば彼の怒りを買うだろうから。
それだけは胸の中に秘める。



「‥‥‥貴女は‥」

「‥え?」




聞き返すために思わず振り向いてしまった。



重なる視線。
案の定、惟盛は眉を顰めた。



「貴女に願われる義理などありません」

「‥‥‥そう」

「人の分際で何を申すつもりですか。穢らわしい」



冷えた眼差し。
指先を、波打つ髪に絡めながら言葉を吐き出すと、惟盛は背を向けた。









あとに待つのは、

‥‥永遠の【拒絶】













「待って!もし私が命を絶てば、貴方と同じ怨霊になれば‥‥‥」













還れるだろうか

泣けるほどの幸せに満ちたあの日々に。













気がつけば、手は勝手に惟盛の袖を掴んでいた。



「‥‥‥下らぬことを」



長く生きた鈴虫が木々の間を飛ぶ程の間を過ぎて、ゆるりと肩越しに振り向く眼は怒りを孕む。



「私は本気です」

「それが下らぬと言っているのです。平家の血が流れていない貴女が、私と同じ怨霊になれるつもりですか?」

「っ‥‥」

「途方もない望みなど捨て去りなさい。貴女は一族ではない」



抉られる心の臓。



それでも、諦められないから此処に居る。
諦め惟盛を故人と見なし、藤原の邸に戻れば‥‥‥もしくは尼となり彼を偲び生きていけば、心穏やかになれたかもしれないと知りながら。


同じ邸に居ながらも拒絶されながら過ごした三年余りの日々は、生き地獄に等しいと思うときさえあった。






それでも彼の傍を望む理由はただひとつ。






「‥‥‥貴方が私を忘れてしまっても、私は貴方をお慕いしております」




諦められるなら、とうにそうしている。

藤原に戻り他の公達を迎えている。



「‥‥‥惟盛殿、私は」

「紅のはつ花ぞめの‥‥‥」




袖を引き剥がすことなく立ち竦む間が続いた時に、惟盛から零れた小さな声。


驚く桜子も眼からうっすらと涙が浮かぶ。



「え?い、今何と‥‥?」

「ほんの世迷いごとです。それから、貴女も私の事など忘れなさい。迷惑なのです」



生前のように穏やかに、いっそ優しく感じる声音で。

惟盛は桜子の手を袖から離した。





触れる冷たい指先と、暖かい手。

重ね合えども熱を分け合えぬ。
けして同じ体温になどなれないのだ。



「出来ません!私は」

「私が何を望んでいるのか、特別に知らぬ貴女にも教えてあげましょうか。小煩い人間という虫けら共をすべて滅ぼす事‥‥‥それが私の至上の夢なのです」

「‥‥」







歪んだ笑みを浮かべてから今度こそ惟盛は立ち去る。










いつの頃からか、頭上に挿した桜梅の花が緩やかな髪と共に、歩行に合わせて舞う後姿。

美しい背を眼に焼き付けながら、桜子は触れた手を包んだ。





「紅のはつ花ぞめの 色深く 思ひし心われ忘れめや‥‥‥どうしてこんな歌を詠むの」





何が真で何を虚と呼ぶのか。




‥‥‥混乱する、なにもかも。



















『紅のはつ花ぞめの 色深く
 思ひし心われ忘れめや』(古今集723)


(紅の初花染めの深い色のように深くあなたを思った心、絶対忘れるものか)










 



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