恋しき名 (2/4)
今宵は上弦の月。
六波羅の邸で豪勢な月見の宴が開かれるまで、後数日。
邸の主は今を時めく平家一門。
今や全ての権力を手中に収めているかの様な、武門の一族。
その平家が開く宴ともなれば、貴族や皇族が我先にと集うのは当然のこと。
平清盛以下一族の武士や、彼らに仕える者達は準備にと、一様に忙しかった。
「桜子?何してるんだ、そこで」
振り返ればよく見知った人物が苦笑を浮かべている。
‥‥‥もう少し、この空間を愛でて居たかった。
一人きりで、彼を想って。
そう返すのは流石に無礼に当たるだろうか。
「‥お義父様。月を数えておりました」
「月?一つしかないだろう」
「ええ。数ではなく、月の齢を」
今宵は上弦の月。
真暗なる新月から数え、七か八日めの、欠けた月。
満月まであと七か八日を数える、月を見つめて。
それは桜子の寂しさの数と同じ。
忙しくなった背の君と、逢えない日数。
「‥‥‥‥‥寂しい思いをさせているんだな。すまねぇ」
重盛がその意味を悟る。
密やかな謝罪に気付くと、息子の唯一の姫が眼を見張った。
「も、申し訳ありません!先程の事は私の我が儘なのです」
「いや、でも宴の準備にとあいつを駆り出したのは俺だ。惟盛が適任だと思ったんだが‥‥皺寄せまで考えてなかった。悪い」
「私は皺寄せだなどと思っておりません!」
名月を愛でる宴ならば、名月の光がうつくしい席を設けよう。
後白河法皇を招く宴なのだ。
平家は所詮武門一族、風流を解せぬ。と評されては一門の恥。
それ故に、平家きっての風流人たる惟盛が駆り出された。
それが、新月の夜。
‥‥‥夜に紛れ寂しいと月を数える姫の涙を、思い測る事すら出来ず。
「惟盛殿に誇りを持ちこそすれ、どうして寂しいと思えましょう?あの方は平家の為に尽くしているのです」
先程の言葉は戯言としてお忘れ下さいませ。
重盛を見詰める、常の姫君らしからぬ真っ直ぐな眼差し。
そんな義娘を彼は好ましく思っている。
そっと、指先で桜色の頬に触れた。
「なっ、何を‥」
「泣いてるぞ。夫婦で素直じゃないんだな‥‥‥そんな所が好きなのかも知れないか、あいつも」
「‥お義父さ」
「何をしているのです?」
かさり。
草を踏み分ける音がした。
その眼が、二人を射る。
まだ、逢えないと思っていたのに。
一人寝の夢の中。
その名を幾度呼ぼうとも、まだ。
月光に照らされる愛しいひとには、あと七か八日を数えねば───
「何をしていると聞いているのです、父上」
「は?‥‥あぁ、悪い悪い。少し、な」
「少し?‥‥‥まさかとは思いますが父上、貴方は‥‥」
「待って、惟盛殿」
誤解だと告げようとする桜子の声は最後まで届く事無く。
掴まれた腕の熱さに、零れる涙。
愛しさが止まらなくて‥。
「父上、貴方に節操がないと存じておりますが、これは私の妻。例え父上でも触れる事を許しません!」
‥‥初めて耳にした怒声。
瞠目した重盛を睨みつけると、桜子の手を引いたまま惟盛は足早に去っていった。
「惟盛の奴、溺愛してんだな」
静けさを戻した庭で重盛はうそぶく。
風流を愛で、一方で人を拒んでいた惟盛。
今世の光源氏と評される美貌は、ある意味で不幸なのか。
幼い頃から女の媚や妄執を見、女は醜いと拒絶していた息子だった。
だが‥‥‥たった今、実の父に向けた感情は。
「‥‥しかし、普通は親父に嫉妬するか?其処まで節操なしではないんだがな」
全身で惟盛を想う桜子。
桜子は我が妻だと怒る惟盛。
二人の睦まじさは有名だが、目の当たりにすると流石に照れる。
がりがりと頭を掻きながらも、緩む頬を押さえられずにいた。
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