懐
「精が出ますね」
「あら、経正殿ではございませんか」
振り返れば廊の欄干から身を乗り出すようにして、常日頃から穏やかに微笑う青年の姿。
ふわり、桜子も笑みを浮かべた。
「今から手を掛けて上げると、春には鮮やかな花を咲かせてくれるでしょうから」
それはかつて、彼女の愛した人物の言葉。
花の美を誰よりも愛でていた彼は時折、こうやって柄杓で水を撒いていた。
桜子も時には共に、雪を割って芽吹いた蕾を撫でて‥‥‥。
‥‥‥今はもう、遠い日々。
「ああ、忘れる処でした。叔父上に、桜子殿をお連れする様にと申し付けられたのを」
「‥‥‥私を?」
「ええ。宜しければご一緒に参りませんか?」
‥‥‥清盛が一体何の用件だろうか。
ふと過ぎるのが『不安』なのは、一度経験した絶望と苦い思いからなのか。
「ええ。喜んで」
桜子は再び微笑むと、手桶を後ろに控えて居た瑠璃に預けた。
「久しいな、桜子」
「はい。お義祖父様もご息災で何よりです」
「そなたも変わらず見目麗しいな。我がもう少し若ければ、のぅ」
「‥‥‥お戯れを。それに今でもとてもお若いではございませんか」
清盛の、今の姿を軽く揶揄する。
上機嫌に笑う彼に調子を合わせながら、桜子の意識は斜め後方に向いていた。
‥‥‥入室する前から沈黙を保っていたのだろう。
桜子に、会いたくなどなかったのかも知れない。
一門の長の命だから仕方なく此処にいる。
‥‥‥そう、憮然を隠そうともせずに坐す、惟盛に。
一仕切り、軽口の応酬が済むと、清盛はふむと頷いた。
「時に桜子、重盛とは会うたのか?」
「お義父様でございますか?‥‥‥いいえ、お会いしておりません」
平重盛は、惟盛の父で桜子の舅。
突然の訃報を耳にした時は、夫婦で抱き合って悲しみに暮れたもの。
‥‥‥その重盛が昨年、黄泉返った。
小松内府平重盛
‥‥‥現世に帰還した後は『還内府』と改める。
落陽の一門を再び率い始めた。
桜子が還内府の名を古参女房から聞いたのは、半年前。
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