夢と知りせば
『‥‥‥貴女で良かった‥‥‥』
『‥‥‥ですから、私がずっと貴女の傍で見張って居なければならないでしょう』
『‥‥‥輝夜姫の様に、月に帰られては困ります』
『‥‥‥桜子』
「姫様、お早う御座います。雀が庭で遊んでおりますわ」
「‥瑠璃‥‥‥」
惚けて視線を漂わせる。
桜子の起床に気付き、手水の腕を取りに室の隅に取りに行く女房の後ろ姿。
‥‥‥また目が覚めてしまった。
目覚めた事を悔いる心を、誰が知ろうか。
「夢としりせば‥‥‥」
「姫様?何か仰いましたか?」
不意に浮かんだかの有名な恋歌を口ずさむ。
瑠璃が不思議そうな表情で振り返るから、微かな罪悪感に苛まれた。
痛い程に締め付けられる胸を押さえる手に感じる鼓動が口惜しい。
「‥‥‥どうして」
「姫様?」
「いいえ、何でもないわ。少し寝惚けているみたいね。庭を散策して良いかしら?」
「はい。朝餉にはまだ少しありますから、ごゆるりと」
主の為に、衣桁にかけられた衣を取りに行く瑠璃の足音。
一定の楽の音を刻むかのように聞こえた。
まるで
鳴り止まぬ
桜子の鼓動の様に‥‥‥。
瑠璃の言葉の通り、雀が数羽。
誰かが蒔いたのだろう、米粒を啄んでいた。
春とはいえど薄寒く、衣の袖口から入る風が熱を奪ってゆく。
中睦まじい鳥達に頬がゆるんだ時だった。
微かに‥‥きし、きし、と古い床が鳴るのを耳が拾ったのは。
音に目を上げれば、桜子は動けなくなった。
覚えていた通り、
その音が彼のものだから。
「惟盛殿‥‥‥」
此処は、六波羅の邸の最奥。
桜子に用の無い者は通る事すらない、常に静かなところ。
何故、惟盛が此処に向かい歩いて来るのだろうか。
鼓動を持たぬ存在となってから幾度か会えども、視線すらあわせる事なく。
桜子を、生きてきた全てを無視している‥‥‥彼が。
「‥‥‥此処に居ると、お祖父様から聞きました」
皮肉なのかそうで無いのか、寝を共に想いを重ねた二人の室の前。
「何か、ご用件でも‥?」
「まだ居たのですか?私はてっきり平家を出たと思っておりましたよ」
昔から素直でない人だった。
それは桜子が誰よりも知っている。
けれども彼は、優しい人だった。
素直でない。それでも誰より桜子を愛しんでくれたのに。
「平家を出る理由などありませんもの。私は貴方の妻ですから」
「妻、ですか」
不愉快を隠し切れずに鼻で笑う。
その惟盛を、桜子はただただ見詰めた。
自分を映さぬ冷たい瞳。
歪む唇ですら喩え様もなく桜子を捕らえてしまう。
「何の価値もない下賎の娘を私に娶わせたとは、お祖父様も血迷われたもの」
「‥‥‥そんな事をわざわざ言いに来られたの?」
「まさか。わざわざ時間を潰して言いに来るなど、それこそ愚の骨頂でしょう」
―――思ひつつ 寝ればや 人の見えつらむ―――
「離縁を言い渡しに来たのですよ」
―――夢としりせば―――
「一門の者でない貴女に居座られると、平家の名が墜ちるのです」
―――夢と、しりせば―――
「私は、貴女の妻です。この身が果てるその日まで」
「戯言は止しなさい」
「戯言でいい。貴方に嫁いだ時に誓ったの」
「‥‥‥‥‥‥」
「貴方のお傍を離れません」
例え何があろうとも、それだけは変わらない真実だったから。
冷たい眼で桜子を見下ろす彼を毅然と睨む。
やがて惟盛の面に表情が浮かぶと、愕然とした。
紛れも無い嫌悪を顕に踵を返して去って行くのを見送れば、頬を伝う涙。
―――思いつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば―――
「醒めざらましを‥‥‥いいえ、違う」
優しい彼の夢は恋しい。
歌の様に、夢が醒めなければ、幸せだけど。
「それでも、私は貴方に会いたかったの」
彼に再び会えるなら何も要らないと誓った。
その眼が例え、桜子を映してくれなくとも。
例え愛してくれなくても。
「だから、これは‥‥報い」
彼の心を無視し偽りの生を望んでしまった。
張り裂けそうな心の均衡の為に、桜子の我侭の為に。
惟盛を、大切な人を怨霊にしてしまった事への――‥‥‥当然の報いなのだ。
冷たい瞳ですら愛しかった。
『思いつつ 寝ればや人の 見えつらむ
夢と知りせば 醒めざらましを』
小野小町
(あの人を想いながら寝たのでこうして出て来たのか
夢と知っていれば醒めなかったのに)
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