輝夜と山桜

 




「惟盛殿、お待ちしておりました」

「それはそれは。桜子を待たせる男は罪なものですね」

「‥‥‥‥‥‥それ、貴方の事じゃない」



呆れ顔を浮かべるのは、この一年ですっかり美しくなった女。


惟盛と玉鉾の道を歩む事を約束してから、ひとつ歳を重ねた桜子だった。



「ああ、私の事でしたか‥‥‥では私は、罪なる男ということになりますね」

「‥‥‥分かって言ってるのだから、本当に意地の悪い人ね」



鈴を転がす様に笑う桜子は、片袖で口許を覆っている。





媚びを売っている訳でもない。
なのに、えも言えぬ艶を眼に漂わせて。




この一年で、桜子はめっきり美しくなった。





惟盛の側で、惟盛の腕の中で
日に日に開く花の様に。








すっかり妻に見惚れていた、と気付いた惟盛がついと視線を流す。


桜子が凭れていた脇息の周りに、散りばめられたものに眼を止めた。



「絵巻物ですか?」

「そうよ。珍しいかしら?」

「ええ。貴女にそんなたおやかな趣味があるとは、思いませんでしたね」



惟盛が、本心を漏らさないのはいつものこと。

元々、言葉にするのは苦手な人なのだから。


「あら、たまには私も読むわ」


彩色の美しい巻き物を手に取りながら、惟盛は笑った。




‥‥‥見なくとも分かる。
今、桜子は腰に手を充てがい、胸を逸らしているだろうと。
誇らしげに、そして雄々しく。





「ああこれは、竹取物語ですか」

「‥‥‥殿方なのに、よくご存知なのね」



意外そうに声を漏らすは、桜子。


そして、惟盛は背中に熱を感じる。
片膝を立てて座る惟盛の、背に抱き付く様に凭れて。

‥‥柔らかく、愛しい桜子の体温を感じた。



惟盛は、さらさらと頬を撫でる黒髪を愉しみながら、
鮮やかに描かれた物語の人物を指先で辿る。



「私の理想の姫君ですから」

「『なよ竹のかぐや姫』のことかしら?」

「そうですよ。たおやかで、淑やかで、そして誰をも魅了せずに居られぬうつくしさ」

「‥‥‥」

「‥‥‥桜子は知って居ますか?かぐや姫とは『輝く夜の姫』ということを」



桜子を決して見遣る事なく陶然と語れば、そっと離れて行く‥‥‥‥‥‥背の熱。






‥‥‥ああ。こんな所も、桜子は違う。


色恋に手慣れた宮廷の、どの女房や姫とも、桜子は違う。








ほら、この様に解り易い嫉妬を、本気でやってのけるのだ。
こちらは噴き出すのを堪えるのに、精一杯だと言うのに。



「私では、輝く夜の姫君には、なれそうにありません」



桜子の胸に、自分の言葉が重く響いた。
惟盛の背から離れて座すれば、涙が滲む。



‥‥‥くだらない嫉妬だと、貴方は思うでしょうけれど。


世の姫君とは幾分かけ離れて居る事、承知している。

絵巻物より漢詩を嗜む雄々しき姫君、と陰で呼ばれて居る事も。







「それはそうでしょうね。貴方は輝夜姫などではありません」






桜子の心は、ずしりと重さを増す。






「そう、ね」




惟盛を映す黒玉の如き眼に、ひと雫滲むもの。




‥‥‥そっと涙を拭う指先につられて桜子が顔を上げる。




目の前には、この一年ですっかり男らしさを増した夫の‥‥‥優しく緩む眼があった。




「輝夜姫の様に、月に帰られては困ります」




初めからそう言ってくれればいいのに、と。


拗ねた言葉が出ない様に、惟盛は唇を重ねた。













輝く夜よりも美しいのは

‥‥‥山に咲く、桜。




 




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