いと愛しきこと
桜子は指を伸ばして、冷え切った頬に触れる。
振り払う事もせずに、妻の眼を見つめる惟盛の眼には、感情がなかった。
ただ、淡々と紡ぐ言。
「‥‥‥鳥も花も皆、滅ぶ為に生を掴むのです。儚く散るからこそ、生き様が美しい‥‥‥‥‥‥人も同じこと」
滅びゆくからこそ、彩輝く光。
生きる者は、死ぬ。
「盛者必衰‥‥‥古くから言うではありませんか」
「そんな哀しい眼をして仰らないで」
「‥‥‥哀しい?私が?哀しがっているのは‥‥‥‥‥‥‥泣いているのは貴女でしょう」
‥‥‥自分には解せない。
長く緩やかな髪を指先に巻き付け、惟盛は眉を顰めた。
明らかに、涙を流しているのは、桜子。
なのに彼女は自分を慰めるような手付きで頬を撫でてくるのだ。
「‥‥‥ええ。だから私が泣くの‥‥‥こんな時まで意地を張る貴方の代わりに、私が」
「何を訳の分からぬ事を‥」
呆れた気持ちを紡いだ筈なのに、震える声。
「貴方が素直な方でない事くらいは分かっているつもりです」
桜子は、泣きながら笑う。
頬に添えられた手が外れ、代わりに優しく惟盛を抱き締めた。
「‥‥‥惟盛殿は哀しんでいるわ。心が麻痺しているのよ」
桜子の言葉遣いが砕けたものになっていた。
だが、それすら惟盛は気付かない。
言葉が出なかった。
暖かい抱擁。
柔らかな声。
「ほら。哀しいと、悲しいと、貴方の心は泣いている」
彼女の全てが暖かいと感じて、如何に冷えていたかを思い知った。
そう、今にも溢れそうなもの。
押さえて居なければ立てなくなると、
無意識に堪えていた「哀しみ」
夢中で、桜子を抱き締めた。
「‥‥‥‥‥‥桜子」
惟盛の頬を、静かに流れる。
哀しみは桜子の心が熱に変えて、冷えた心を溶かす。
「桜子‥‥‥」
「‥‥‥はい、惟盛殿」
初めて、敬称を付けずに呼んだ。
やっと、気付いた。
この世で一番美しいもの。
どれほどそうしていただろう。
緩やかに凪いだ心地で、惟盛は桜子の肩から顔を上げた。
眼が合う。
微笑む桜子は、露に濡れた桜のよう。
見惚れる程に美しかった。
「私は、貴方のお傍から離れません。何があっても」
「‥‥‥ふっ。やはり変わってますね、貴女は」
「それは、だって!」
―――貴方が好きだから。
言い募ろうとして我に返った桜子の鼻を、惟盛は笑いながら摘んだ。
涙の跡など何処にも見当たらない。
泣いてなどいなかったのかも知れない。
けれど先程と違い、晴れやかな笑み。
「誰が離れて良いなどと言いましたか?」
「‥‥‥惟盛殿?」
「貴女を野放しにすれば平家の恥でしょう。顔は衆目に晒し、邸を走り回るのが一門の姫とあっては困ります」
「な、何よ。私は貴方が気になって‥‥‥!」
「ましてや、それが私の妻とあっては、父上に顔向け出来ませんからね」
流石に傷付いたらしく、押し黙った桜子。
惟盛は満足そうに眼を細めて、彼女の額に唇を落とした。
「ですから、私がずっと貴女の傍で見張って居なければならないでしょう」
「‥‥‥素直に仰しゃればいいのに」
惟盛らしいと言わば、惟盛らしい。
溜め息をひとつ。
そして桜子は笑った。
再びの抱擁。
「愛しい」と書いて、「かなしい」と読むと言う。
かなしく思うほどの、愛しきひと。
同じ想いが育っていく。
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