愁い空
「おはようございます、惟盛殿」
「ああ‥‥‥経正殿ですか。おはようございます」
惟盛は早朝‥‥‥陽の登らぬ内に起き出すのが日課だった。
古き佳人は清少納言の書にもあるように、「春はあけぼの」‥‥‥山の端から徐々に空が白みだし、明るく染めてゆく瞬間を見るのが好きなのだ。
今朝も御廉の外に滑り出し、一人飽きずに眺めていたのだが。
静かな足音と共に一門の年長者が姿を見せた。
穏やかな微笑の似合う琵琶の名手、経正。
「今日ですね」
「‥‥‥そうでしたか。どちらにしろ興味ありませんね」
「また、そんな事を。それだから伯父上がご心配召されるのですよ」
「ええ‥‥‥それは充分承知の上ですが‥‥‥」
何と言われようと、女性を愛しいと思えそうにない。
そもそも人の心の美しさを、感じた事などないのだから。
こればかりはどうしようもない。
惟盛は深く息を吐いた。
尚も経正は語る。
「どのような方なのでしょうか」
「さあ。私は何も聞いておりません」
惟盛は空を見ながら、興味のない呟きを落とした。
‥‥‥本日、清盛の友人の娘がやって来る。
惟盛の許嫁として。
今の世の中の常といえば通い婚。
だが、この縁談は始めから‥‥‥娘が、平家に嫁いでくる。
正に異例中の異例。
通い婚の末に、北の方として邸に迎えいれ、共に住むのならまだ解る。
だが、自分達の場合は顔を見合わせる前から、共に暮らす事を余儀なくされる。
惟盛は未だ見ぬ相手を、気の毒に思った。
可哀相なことだ。
自分に愛される事もなく、見知らぬ場所で一人生きねばならぬなど――‥‥‥
‥‥‥全く、自分にもその娘にも、この縁談は迷惑な事だ。
清盛も相手の藤原家も。
更に言うなれば、わざわざ思い出させてくれた経正も。
どうせ今回の事も、この男が裏で手を回しているに違いない。
惟盛は、人の良さそうな男をちらっと見る。
目線を受けて、経正はにっこりと微笑んだ。
「誰か、心に想う姫君でも?」
咄嗟に浮かぶ、面影。
「‥‥‥いいえ、まさか」
あの様な町娘、二度と会う事はない。
‥‥‥こちらから願い下げ。
けれども、あの舞は‥‥‥
ゆめまぼろしのようだった。
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